第九章 真犯人
二〇〇六年一月二十一日土曜日、千葉県警本部大会議室。多くの刑事たちが固唾を飲んでその時を待っていた。正面のホワイトボードの前にはこの会議を収集した非公式アドバイザーの名探偵・榊原恵一がおり、腕を組んだままジッと何かを待っている。会議室は、真相が解けるかもしれないという期待と、いくら名探偵とはいえこんな短時間で何がわかるのかという困惑によって、何とも言えない静けさに包まれていた。
午後四時、不意に捜査本部のドアがノックされ、その場に緊張が走った。が、榊原は腕組みを解くと「どうぞ」と声をかける。ドアが開き、ビジネススーツ姿の一人の男が入ってきた。男は正面に出ると、全員に挨拶する。
「失礼。千葉地方検察庁の
「お待ちしていました」
榊原が声をかけ、高科は訝しげな表情をする。
「あなたが榊原さんですか。地検にもお噂は届いています。それで、私に何の御用でしょうか? なんでも急な要件という事ですが」
「それを今から説明したいと思っています。まずはお座りいただけますか?」
そう言われて、高科は一礼して手近な席に座った。それを見ると、榊原は一度息を吸って落ち着くような仕草を見せ、会議場に座る刑事たちを前に話を始める。
「さて、それではこれから、非公式のアドバイザーとして今回の事件に関する私の所見を申し上げたいと思います。なお、これはあくまで私の個人的な見解になりますので、これを採用するかどうかに関してはそちらにお任せします。また、何か異論があるようでしたら遠慮なく言ってください。それを前提とした上で、私の推理をお話しします」
異論はない。誰もが真剣な表情で榊原の話を聞いている。榊原はそれを確認すると、一呼吸おいて推理を開始した。
「では、始めましょう。まず、今回の事件……すなわち一般的には『シリアルストーカー事件』と称されているこの事件は、現段階では五つの事件によって構成されています。具体的には『木更津事件』『幕張事件』『船橋事件』『市原事件』『江戸川事件』の五つです。被害者は全員黒い長髪の若い女性で、犯人は被害者を暴行した末に失神させ、最後はナイフでとどめを刺した後、遺体から髪を切断しています。そこで、今現在わかっている犯人の特徴を確認してみましょう」
榊原はボードの前を歩きながら一つ一つ列挙していく。
「まず、先に述べた被害者の選定方法。被害者全員が黒い長髪の若い女性であるという点から、犯人はこうした女性に対する何らかの執着のようなものを持っていると考えます。次に犯行範囲の広さなどから犯人が自動車を運転しているという点。ここから少なくとも犯人が運転免許証を所持する十八歳以上の人間である事が確定します。また、第四の事件で犯人は現場に血痕を残しており、そこから犯人がO型である事が判明しています。そして、犯行が千葉に若しくはその周辺に集中しているという点から、犯人が千葉若しくはその周辺に在住する人間である事は間違いないでしょう」
そう言って、榊原は推理を続けていく。
「さて、現状では犯人の特徴として確認できる事項はこの辺りが中心です。しかし、それでも犯人を捕まえる事ができませんでした。要するに、犯人を特定する情報がまだ不充分なのです。そこで今回、私は依頼を引き受けるにあたって、動機などはひとまず脇に置いておいて、この犯人にさらに何か特異的な特徴がないかという点に重点を置いて捜査を行う事にしました。それもただの特徴ではなく、それで犯人そのものを特定できるような一点に特化した特徴です。犯行までの時間がない以上、私はこの方法で犯人を特定する事に賭けてみたのです。特徴そのものは一つで構わないのです。犯行そのものが派手である上に、元々警察の懸命な捜査で情報自体はかなり集まっているのですから、何か……何か一つ大きな突破口があればこの事件は解決する。それが私の判断です。ですから、私が今から話すのは、五つの事件から考察したもう一つの『犯人の特徴』……簡単に言えば、五つの事件における裏の共通点とでも言うべきものです」
「もう一つの共通点……」
橋本が思わず呟く。それに頷きながら、榊原は話を加速させた。
「私が事件の話を聞いて最も気になった点……それは、被害者の選定法に関する問題点です。黒い長髪の若い女性……確かにわかりやすい条件ではありますが、よくよく考えてみればあまりにも曖昧すぎる条件でもあります。犯人は数多くいる長髪の若い女性の中からなぜ彼女たちを選んだのか。実はここに、私たちがまだ気づいていない裏の条件があるのではないか。私はそう考え、今回被害者たちの共通点を探る事に全力をかけました」
榊原の言葉を、誰もが一言一句聞き逃してなるものかと聞き耳を立てている。
「私がこの被害者選定に関する点で気になったのは、まず被害者が犯人による視線を感じてから実際に犯行に至るまでの期間があまりにも短すぎるという点です。仮に犯人が適当に街でうろついている黒髪の女性を狙って犯行を起こしたと考えましょう。しかしその場合、こんな短期間で犯行を引き起こすというのは無理がある話です。これを成し遂げようと思ったら、まず道で適当に選んだ女性の後をつけて自宅を特定し、その後彼女の生活習慣などをしっかり把握した上で犯行に至る事が最低条件となります。しかし、考えてみればわかりますが、道でたまたま出会ったに過ぎない赤の他人を尾行するというのはかなり困難を伴う作業です。その人物がどんな交通機関でどこに行くのか全く見当がつかない上に、かかる時間や金銭も未知数で、そもそも自宅に戻るのかさえわかりはしない。その途中でばれたら話になりませんし、犯人にとってはリスクの高すぎる話なのです。特に他県からの人の出入りが激しい千葉県では、この傾向はますます強くなってしまいます。尾行したはいいが相手が新幹線に乗ってしまったとか、尾行したが相手は会社に行ってしまい、その後数時間待った挙句に県の反対側に帰っていった、などという事が起こるかもしれない。そんな状況で、一ヶ月に一度決まった時期に律儀に犯行を起こせること自体がおかしいのです。当たりを引くまで片っ端から尾行するにしても、そこまで不特定多数の人間が尾行されていたらいくらなんでももっと気付く人間が多くなるはずです」
そう言われて、刑事たちもざわめく。確かに言われてみればそうである。
「今回の事件、私が一番気になったのはこの点です。犯人はどうやって被害者を選定し、短期間で犯行に至る事ができるのか。私はこの点を考え続け、一つの結論に至りました。この条件に当てはまる状況……それは、犯人があらかじめ被害者の住所を知っているというような状況です。住所さえ知っていれば、そもそも自宅まで尾行する必要が全くなくなるわけで、比較的短期間の調査で被害者を襲撃する事が可能になります」
その発言に、捜査本部は騒然となった。
「犯人が……被害者の住所を知っていた?」
「論理的にそれしか考えられません」
「ちょ、ちょっと待ってください! だったら、被害者と犯人は顔見知りという事ですか? そうでもなければ被害者の住所を犯人が知るなどという状況はあり得ないはずです」
声を上げたのは中司だった。だが、榊原は冷静に切り返す。
「その点に関しては警察も捜査しているはずです。実際、五人の被害者に共通する知り合いは存在しましたか?」
「……いいえ、そんな人間がいれば真っ先に捜査対象になっています」
中司が悔しそうに答える。それに続けるように土井がこう言い添えた。
「第一、五人の被害者は事件以外では全く関係がない人間ばかりです。住所、年齢、出身地、出身校、職業……そのすべてがバラバラです。そんな何の関係もない人間が、そろって自分の住所を教えるような人間がいるとはとても思えません」
本部の刑事たちが考え込む。と、ここで斎藤が発言した。
「例えば、そもそも戸籍を管理している人間……すなわち市役所の人間なら本人に気付かれる事なく住所を入手する事は可能だと思いますが」
「いえ、無理ですね。今回の被害者は全員戸籍のある自治体が違っています。一人ならともかく、五つの自治体の管理する戸籍の住所を盗み出すなんて、ハッキングでもしない限りは不可能です」
土井がその推理を否定する。ちなみに、ここ一年の間にこれらの役所がハッキングされて戸籍情報が漏れ出したなどという事件は起こっていない。
「となれば、やはり被害者が自発的に犯人に住所を教えたとしか思えません。でも、そんな事が可能なんですか?」
そこまで議論が進んだところで、榊原が言葉を発する。
「何はともあれ、被害者には何かもう一つ大きな共通点が存在する。私はそう確信し、捜査を進めました。そして見つけたのです。五人の被害者……そのすべてに共通し、なおかつ犯人を特定する事が可能となる決定的な共通点を」
その言葉に、会議室内に緊張が走る。
「一体……どんな共通点なんですか?」
土井のその言葉に、榊原は黙ってマーカーを取り出すと、ホワイトボードに手をやった。
「今からそれぞれの被害者に関するある情報を書きます。その情報から皆さんも推理をしてください。それですべてはわかるはずです」
そう言うと、榊原はホワイトボードにそれぞれの情報を列挙していった。
・井浦鮎奈……亡くなった母親が台湾の人間で、今から約半年前の八月頃に再婚した両親と一緒に母方の祖父の葬儀に参加。
・東中佐代里……勤務先の三ツ星銀行幕張支店はニューヨーク支店と合同の大事な取引で忙しく、彼女自身その関連で何度も出張している。
・戸内由香……優等生で、校内で数人しか選出されないカナダへの交換留学生に選出(期間は十月十五日から十月二十二日まで)。
・高畑伊奈子……事件一ヶ月前に結婚したばかりで、新婚旅行にも行っている。
・森浜涼子……自身が旅行代理店勤務。添乗員として出張多数。
「……ここまで書けば皆さんにもおわかりになると思います。どうでしょうか」
「どうと言われましても……」
中司ら大半の刑事は困惑するばかりである。が、斎藤や土井ら何人かの刑事の顔色が明らかに変わっていた。
「こ、これは……」
「気づいたようですね。そうです」
榊原は爆弾を叩き込んだ。
「事件の被害者の五人……そのすべてが、事件発生までの一ヶ月以内に海外へ行った事があるんです」
その事実に、誰もが思わず絶句していた。
「第一の被害者、井浦鮎奈の実の母親は台湾の人間。その母の父親である祖父の葬儀は当然台湾で行われていますから、彼女は約半年前の八月……つまり事件発生の一ヶ月前に台湾へ渡航しているのです。実際、彼女の従姉妹が葬儀に出席した彼女の姿を見ています。第二の被害者、東中佐代里の勤務先である三ツ星銀行幕張支店はニューヨーク支店と合同で進めていた取引があり、彼女自身何度も出張しています。その出張先には、当然取引の協力先であるニューヨーク支店のあるアメリカのニューヨークもあったはずです」
衝撃の事実が明らかになり、刑事たちはなおさら真剣な表情で榊原の話を聞いていた。
「第三の被害者、戸内由香は学校の交換留学でカナダへのホームステイの経験があります。実際、彼女の部屋からはホームステイ先から送られたと思しき手紙が見つかっているはずです。そして、その期間は校内に掲示されていた募集要項から十月十五日~十月二十二日で、これは事件の一ヶ月前に相当します。第四の被害者、高畑伊奈子は結婚してから一ヶ月しか経っておらず、結婚後に新婚旅行に行っています。そしてその新婚旅行先ですが、現場にあったコルクボードに貼ってあった写真から、オーストラリアのシドニーである可能性が高い。実際、ボードにはシドニーのオペラハウスをバックに撮影された夫妻のツーショットが確認されています」
土井は、部屋の中に飾られていたオペラハウスの写真を思い出していた。榊原はしっかりと確認していたらしい。
「そして第五の被害者、森浜涼子は、そもそもの勤務先が海外向けの旅行代理店です。となれば、当然海外ツアーなどにもかかわっていたはずで、仕事上の理由から海外に出張を繰り返していた事はほぼ間違いないと思われます。実際、彼女のシステム手帳には事件の数日前までツアーの添乗員として何度も出張をしていたという記録が残っていました。つまり、第一から第五までのすべての被害者が、事件発生の一ヶ月までの間に必ず海外に行っているんです。一人二人ならともかく、五人全員がそうだとなれば、単なる偶然とは思えません」
その言葉に、誰もが息を飲んだ。が、さすがに橋本は慎重である。
「だが、榊原。言ってしまえばそれだけの話だろう。海外とはいえそれぞれの行き先はバラバラ。全員が海外に行っていたからと言って、それが犯人の正体とどうつながるというんだ?」
これに対し、榊原は冷静に答えた。ちなみに場が場なのでここではちゃんと敬語である。
「確かに、行き先そのものはバラバラです。が、この際行き先は正直どうでもいいのです。問題は、千葉県もしくはその周辺在住の彼女たちが海外旅行に行くとすれば、全員が必ず行かなければならない場所が存在するという事です。そして、それこそが被害者五人に隠された真の共通項になってくるのです」
「全員が行かなくてはならない場所……もしかして」
橋本は気づいた様子だ。そして、榊原は頷きながらその正解を告げる。
「空港です。そして、ここで今回の事件の地理的な条件が関わってくる事になります。現場となったのはいずれも千葉、もしくはその周辺在住の人間。そんな人間が海外への出国をする場合、利用する空港は間違いなく一ヶ所しかありません。皆さんにもそれはわかるはずです」
その問いに答えたのは土井だった。千葉在住の人間が使用する国際空港。そんなものは一つしか考えられない。
「……成田国際空港、ですか?」
榊原が無言で頷く。その回答に、全員の顔が衝撃に包まれた。
「つまり……被害者は全員、成田国際空港の利用者であるという事ですか?」
「被害者たちのパスポート記録を確認すれば、どこから出入国したかすぐにわかるはずです。つまり犯人は、成田空港で彼女たちを標的と定めた可能性が高くなってくるのです」
衝撃の結論に、誰もが何も言えずにいる。だが、榊原の推理はなおも止まらない。
「被害者は成田空港の利用者である。それを踏まえた上で推理を進めると、実はここでもう一つ注目すべき事がある事がわかります。第一の被害者……井浦鮎奈に関する事です」
「彼女がまだ何か?」
橋本の問いに、榊原はよどみなく答える。
「問題なのは井浦鮎奈の友人・雄琴絵梨の証言です。彼女によれば、井浦鮎奈は実家への帰省から帰った後で問題のストーカーを受けているとの事でした。時期的に考えて、この『実家への帰省』というのが問題の台湾への渡航と考えられるのですが、するとここで疑問が一つ出てきます」
「疑問、だと?」
「彼女は台湾の葬儀への出席を『実家への帰省』と言いました。しかし、普通に考えて台湾にいる祖父の葬儀への出席をはたして『実家への帰省』と呼ぶでしょうか? そういう事情なら素直に『祖父の葬儀に出席する』というのが普通ではないかと思うのですが」
「それは……確かに」
橋本が唸り、他の刑事たちも首をかしげる。が、榊原はこの矛盾に関する答えをすでに用意しているようだった。
「この点に関し、私はこう考えます。つまり、彼女は本当に実家に帰省していた。だからこそ、彼女は雄琴絵梨に対して『実家に帰った』と言った。ただそれだけの話なのです」
「……言っている意味がわからないんだが」
橋本の問いに捜査本部の刑事たちも頷く。と言うより、この話がどう事件に関係してくるのかわからないのだ。が、榊原は淡々とした口調で話を続けていく。
「ポイントは王美麗の証言です。彼女は問題の葬儀に関して、『井浦鮎奈が両親と一緒に葬儀に来ていた』と言っていました。では問題です。千葉在住の井浦鮎奈と神戸在住の両親。この両者はいつ合流して台湾の葬儀に出席したのでしょうか?」
「は?」
思わぬ問いに、橋本は思わず声を上げる。が、榊原は畳みかけるように続けた。
「可能性は二つです。それぞれが別の空港を利用して現地である台湾で合流したか、あるいは出国前にどこかで合流して一緒に台湾へ向けて出国したか。そこに先程の『実家へ帰省する』という言葉を加えれば、これの答えは簡単に出るはずです」
「帰省……つまり、彼女は一度神戸の実家に帰省し、そこから両親と一緒に台湾へ出国したという事ですか?」
土井の言葉に、榊原は頷く。
「そう考えるのが一番でしょう。さて、問題はここです。この流れが正しかった場合、彼女は成田国際空港を使用するでしょうか?」
そこで刑事たちはようやく「アッ」という表情を浮かべた。代表して斎藤が答える。
「使いませんね。彼女が神戸の両親と合流した後に出国したとした場合、わざわざ千葉まで戻るはずがない。おそらく、使ったのは最寄りの関西国際空港だったはずです」
「ちょっと待って。それが本当なら、榊原がさっき言った『被害者は全員成田空港を利用している』という推測が根本から崩れる事になるぞ」
橋本は慌てたように言って、榊原の方を見る。が、榊原は冷静な表情のままだった。
「そう、彼女は出国に当たって成田空港を使っていない。しかし、帰国の場合はどうでしょうか?」
「帰国、だと?」
「えぇ。彼女は大学を休んでいる身ですから、葬儀終了後は一刻も早く千葉に戻りたいと考えるはずです。だとすれば、帰りは現地で両親と別れて、直接成田に帰国した可能性があります。行きについては『実家に帰省』という発言から先程のように考えざるを得ませんが、帰りに関しては雄琴絵梨からも特にそれらしい証言は出ていません。そして、彼女が『成田空港の利用者である』という今回の事件の被害者の共通項に当てはまるとするなら、彼女が成田空港を利用したタイミングはこれしかありえないんです」
そう言うと、榊原は一際声をこめて鋭く告げた。
「この事実が指し示す結論は明白です。つまり、犯人が被害者を選ぶ基準は単に『成田空港を利用した』というだけではなく、『成田空港から入国した』という条件が必要になるという事です。そしてそこに『犯人が何らかの方法で被害者の住所を知っていた』という先程の推理を加えれば……この犯人の正体がおのずと明らかになってくるはずです。何しろ、これに該当する職種は一つしかありませんからね」
「ま、まさか……」
ここに至り、橋本もようやくその可能性に思い至ったようだった。それは、あまりにも捜査本部の想像とかけ離れた犯人像であり、なおかつ『最悪』の犯人の正体だった。
そして、捜査本部全体が絶句する中、榊原はその犯人の正体を容赦なく鋭い声で暴き立てた。
「今回の事件の犯人、『シリアルストーカー』の正体。それは……成田国際空港の入国審査官です」
捜査本部が未だに絶句している中、榊原は推理の最後の詰めにかかっていた。
「犯人が国際空港の入国審査官ならすべての条件が合致するのです。被害者五人が全員成田空港から入国しているという共通項がある以上、犯人がその入国の際の関係者のいずれかであるという点は明白です。五人もの人間が定期的に標的になっている以上、当然それは一般客ではなく空港関係者という事になるでしょう。ただし、第一の被害者である井浦鮎奈が成田空港から出国していないため出国の関係者は容疑から外れる事になり、ここから同じ住所を知れる人間である出国審査官や各航空会社のチケット係などは除外できる事になります。一方で、入国関係者の中でも税関職員などは容疑から外れます。彼らは逆に被害者の住所を知る事ができないからです。すべての条件を精査していくと、空港の入国関係者の中で被害者の住所を知る事ができる人間はただ一人だけしかいません。すなわち、被害者のパスポートのチェックをしてスタンプを押す人間……入国審査官です」
「そうか、パスポートか……。その手があったか……」
斎藤が悔しそうに呻く。見てみればわかるが、パスポートの最後のページには自分の住所を書くスペースが存在している。そこを見る事ができれば、住所など一発でわかってしまうのである。
「榊原、お前は……国際空港の入国審査官が連続殺人鬼だというのか?」
橋本がまだショックから冷めきらない様子で言葉を発した。榊原は頷くと、話を再開する。
「犯行はこういう形で行われたのでしょう。犯人は入国してくる人間の中から条件に合致する人間……黒い長髪で、そしておそらくは千葉もしくはその周辺在住の若い女性を選定し、パスポートをチェックするふりをしながらこっそり住所を確認して記憶した。やる事はパスポートの最後のページをちらりと見るだけです。相手も特におかしな行為だとは思わないでしょう。恐ろしい事に、被害者は目の前で犯人が堂々と自分の住所を確認しているにもかかわらず、それを認識する事ができないのです」
その事実に、捜査本部の誰もが息を飲んだ。だが、榊原は淡々と推理を続行していく。
「住所さえわかってしまえばわざわざ尾行する必要さえありません。帰宅してからパソコンなりで検索をすれば被害者がどこに住んでいるのかは即座に判明します。あとは犯行の数日前に軽く尾行をして被害者の生活習慣を確認し、タイミングを見計らって襲撃すればいい。タネがわかってしまえば、呆れ果てるほどに単純で、しかし恐ろしい犯行です」
もう誰も何も言わない。恐ろしい静けさが捜査本部を支配していた。
「……そう言えば、犯人が使っている問題の黒い盗難車。あれは成田空港の駐車場から盗まれたものだった。なぜ成田の駐車場から盗んだのかという疑問を少しは感じていたが……犯人が空港関係者なら当然の選択か。と言うより、選び放題じゃないか」
中司が悔しそうに呟く。榊原はそこで声を押し殺してこう続けた。
「先に言っておきますが、私は犯人の名前までは現時点ではわかりません。特定する情報が全くないからです。ただ、犯人が成田空港所属の入国審査官の誰かであるというところまでは間違いないと思います。そして、ここまでわかってしまえば、犯人を特定するのは難しくありません。土日もなく、ただでさえシフトが厳しい入国審査官の中で、犯行が行われた五日間のアリバイがない人間を探せばいいんです。一日二日ならともかく、五日すべてにアリバイがない人間がいれば、十中八九その人物が犯人であると確定してもいいでしょう」
そう言うと、榊原は一呼吸おいて高科検事の方を見た。
「さて、ここまで説明すれば、なぜ私があなたを呼んだのかわかると思いますが」
「……えぇ。はっきりわかりましたよ」
高科は苦々しい表情で頷く。
「入国審査官を管轄するのは法務省で、入国審査官自身も基本的には法務省の職員です。例えば成田空港の入国審査官は、正式には『法務省東京入国管理局成田空港支局職員』という役職になります。となれば、同じく法務省管轄である検察から照会をかけた方が問題を起こさずに済む、という事ですか?」
「その通りです。ここまで社会的に問題になっている事件に関して警察が法務省職員を疑っているとわかれば、面倒なゴタゴタやややこしい手続きで犯人に時間を与えてしまいますからね。同じ法務省の検察なら、ある程度スムーズにいくと思っただけです」
「だとしても、こいつはかなり厄介ですよ。上を説得しなければならない」
「事は一刻を争います。とにかく現状では、数いる入国審査官の誰が怪しいかだけでも突き止めなければいけません。証拠はそれから揃えます。どうですか?」
榊原の言葉に高科はしばらく難しい表情をしていたが、やがて覚悟を決めたように立ち上がった。
「少し待ってください。検察庁に戻って上司を説得します」
それだけ言うと、高科は部屋を出て行った。捜査本部の行く末は、高科の手に託される事になった。
高科が戻ったのは、それから三時間後の事だった。その表情は緊張に包まれ、少し疲れているようにも見える。
「上司と法務省を説得して何とか調べてもらいました。これで何もなかったら私も終わりです」
そう言いながら、高科は前に立つ。榊原はすでに脇に控え、本部の全員の視線が高科に集中していた。いよいよ、この事件を引き起こした怪物の正体が明らかになろうとしているのである
「本省に頼んで、成田空港の全入国管理官の勤務記録を調べてもらいました。結果、榊原さんの言う条件……すなわち事件の起こった五日間にアリバイがない人間が、確かに一人だけ存在していました」
その場に緊張が走る。全員が息を飲む中、高科はその資料映像をプロジェクターに映し出した。
「これは……」
映し出された写真を見て、全員が当惑したような表情をする。そこに映っていたのは、眼鏡をかけてどこか生真面目そうな表情をした、はっきり言えばどこにでもいそうな一人の中年男性だったのである。あまりにも自分たちの想像する凶悪犯とかけ離れた顔写真に、捜査員たちはどう反応すべきかわからないようである。
そんな中、当の榊原は小さく眉を動かして思わずこう呟いていた。
「こいつは……」
「知っているのか?」
橋本が思わず問いかける。榊原は小さく頷いた。
「皮肉な偶然だが……彼は昨日、私の入国審査を担当した職員だ。この生真面目そうな顔に覚えがある」
榊原の頭に、昨日成田に入国した際に対応した審査官の表情が蘇る。確かにこの男だったはずだ。
そんな何とも言えないざわついた空気の中、高科がパソコンを操作すると、その顔写真の下に、目標となる男の名前が現れた。
『羽本鉄治郎 四十四歳 法務省東京入国管理局成田空港支局職員』
全員が画面に注目する中、高科が羽本という男の概要を説明していく。
「羽本鉄治郎。年齢は四十四歳で現在千葉県成田市在住。既婚者で妻子がいます。出身地は埼玉県の旧大宮市で、高校までそこで過ごしたのち東京都内の有名私立大学の法学部に進学。二十二年前に大学卒業と同時に法務省入庁。国家公務員試験Ⅱ種を突破したいわゆる準キャリア組です。各地の法務局を異動した後、一時期は検察庁にも出向しているようですね。その後、法務省本部勤務を経た後、三年前から成田空港入国審査官を拝命しています。人事記録などによれば、今までに問題行動等はなく、非常に真面目で優秀な法務事務官だという事です」
典型的な一般公務員の経歴だった。百戦錬磨の刑事たちが見ても、とてもあんな凶悪犯罪を起こすような人間には見えない。それは橋本達上層部も同様のようだった。
「……何というか、これだけの凶悪犯罪を成し遂げたシリアルキラーとは思えない経歴だな。榊原、どう思う?」
橋本がそう言って榊原を見つめる。本当にこいつが犯人なのか、と誰もが思っているようだった。
だが、榊原はジッと羽本の写真を見つめると、高科にこう問いかけた。
「事件の起こった日にアリバイがないのは、間違いなく彼一人なんですか?」
「それは間違いありません。五件の事件が起きたいずれの日も、彼のシフトは休日になっています。このような状況になっているのは全職員の中で彼一人だけです」
「では他の質問をします。被害者である彼女たちが帰国したその当日、彼は空港で勤務していますか?」
思わぬ質問に、高科は一瞬慌てたような表情をする。
「それは、被害者の帰国日を調べてみない事には……」
その答えに、榊原は質問の矛先を刑事たちに向ける。
「被害者五人のパスポートは押収されていますか?」
「い、いや。まだだ」
「大至急押収してください。査証欄のスタンプを見れば、彼女たちがいつ帰国をしたのかがすぐにわかるはずです。それにもう一つ、このパスポートには重要な証拠が眠っているかもしれません」
「重要な証拠?」
橋本の言葉に、榊原は高科に問いかけた。
「高科検事、一つ確認しますが、入国審査官は審査の際に手袋をしますか?」
その言葉に、高科は顔色を変えながら答えた。
「いいえ、基本的にはしません。そんな事をする必要がないからです」
「だとするなら、それぞれのパスポートには審査を行った入国審査官の指紋が必ず残っているはずです。そして、五人のパスポートから同一の入国審査官の指紋が検出されたとすれば、それはもう決定的です」
「だ、だが……それがこの羽本という入国管理官の指紋かどうかは……」
土井の言葉に、榊原は黙って首を振ると、ポケットから自分のパスポートを取り出して決定打を叩きつけた。
「指紋なら、このパスポートに残っているはずです。何しろ、昨日私が帰国した際に入国審査をしたのが、まさにこの羽本という入国審査官だからです。私のパスポートから検出された指紋と、五人のパスポートから検出された指紋。それがすべて一致すれば、指紋の主が羽本審査官である事が確定します!」
今までにない有力な証拠の出現に、刑事たちが息を飲む。だが、橋本はあくまで慎重だった。
「だが、それは犯人も承知の上だろう。ここまで事件につながる証拠なら、犯人がパスポート自体を回収している可能性は?」
当然の疑問だった。しかし、この問いに対しても榊原は首を振る。
「それはないと思います。なぜなら、明らかに海外への渡航歴があるのにパスポートがなくなっていたら、逆にパスポートに何か手掛かりがあると警察に知らせてしまう事になってしまうからです。よって犯人としては、パスポートを回収したくてもできない状況だったはずです」
「だが、犯行の際にパスポートの指紋を拭く事くらいはできるはずだ」
「それでも問題ありません。そのような行動をした場合、どこについているかわからない自分の指紋を消すには、パスポート全体の指紋を消す他ない。普通に生活をしていれば、ICチップが埋め込まれていて取り扱いに慎重を期すパスポートの指紋が全部消えてしまうなどという話は絶対に起こるはずがありません。つまり、指紋を消したのは犯人という事になりますが、この状況で犯行とは何の関係もないはずのパスポートの指紋を消す事を迫られる人間は、被害者以外にそれを素手でそれを触った事がある入国審査官以外にあり得ません。つまり、指紋が消されている事がわかった時点で、犯人が入国審査官である事が明確に確定するんです」
その言葉だけで充分だった。刑事たちが一斉に立ち上がり、捜査に出かけようと動き出す。彼らが出ていく前に、橋本が榊原に確認する。
「他に何か調べるべき事は何かあるか?」
「では、被害者の家族なりに確認して、彼女たちが帰国の際に使用した航空会社や便名をできる限り調べてください。そうすれば、彼女たちがどの時間帯に帰国したのかが概ね把握できます。その時間帯に羽本が勤務をしていたら、パスポートの指紋が消されていたとしても彼の容疑が決定的に高まるはずです」
「わかった。他には?」
「必要なのは羽本の過去です。これだけの大事件を引き起こしている以上、何か前兆のようなものがあるはず。人事記録外の過去に、それがまだ眠っているかもしれません。とにかく、彼に関するあらゆる情報が必要です」
その言葉に、橋本も覚悟を決めたようだった。
「埼玉県警に連絡! こいつの高校時代までの行動の調査を依頼しろ! それと警視庁組は、こいつが大学に入って以降の足跡をたどれ! こうなったら、手掛かりはこの男しかない! すべてをこいつに賭けるぞ!」
橋本の叫びに、何人かが電話の受話器を取り、また何人かの刑事は捜査本部を飛び出していく。今、事件は大きく動き出そうとしていた。
同日午後七時。外がすっかり闇夜に包まれた中、刑事たちは県警本部の大会議室に再集合していた。誰もがみんな疲れ果てている様子だが、その目は死んでいない。
「被害者全員のパスポートを押収しました。榊原さんの言ったように、全員が事件発生までの一ヶ月以内に成田空港から入国しています」
まず、中司がそう報告して、ビニールに入った五つのパスポートを全員に示す。
「指紋調査の結果はどうだった?」
「五人のうち自宅で殺された井浦鮎奈と高畠伊奈子のパスポートについては、指紋がすべて消されていました。パスポートも現場である自宅にあったので、犯人が消し去ったものと見て間違いありません。しかし、屋外で殺害された残り三名のパスポートにはしっかり指紋が残っていて、そこから共通の指紋が検出されました。検査の結果、榊原さんのパスポートから検出された指紋の一つとこれが一致したそうです」
まさに決定的な証拠だった。同時に、それはこの事件に羽本が関わっているという事を裏付ける事実でもあった。
「少なくとも、これで羽本が被害者五人全員と面識がある事が判明したわけだ。高科検事、やつのシフトの方はどうなりましたか?」
これには高科が立ち上がって報告する。
「五人の被害者の入国日が確認できたので、羽本のシフトとこれを比較しました。その結果、五人が入国した日に、羽本はいずれも入国管理の仕事をしていたという事実が明らかになりました。しかも被害者たちが入国したまさにその時刻です。パスポートの指紋の件が裏付けされた形になります」
「この情報で羽本を引っ張る事はできませんか?」
斎藤が確認をとる。が、高科は首を振った。
「いえ、現段階では羽本が五人の入国管理を担当した事はわかっても、殺害に直接結びつく証拠がありません。偶然と言われればそれまでですから、強引に逮捕しても起訴に持ち込めないかもしれません」
「まだ証拠が足りないか……」
橋本は悔しそうに顔をしかめる。が、そこで榊原が口を挟んだ。
「中司警部補、そのパスポートの指紋ですが、具体的にはどのページに付着していましたか?」
「ええっと……最初の本人確認欄と査証ページ、それに最後のページです」
「三つとも?」
「えぇ」
そこで榊原はこう告げた。
「なら、少なくともこの入国審査官がイレギュラーな行為をしていた事は証明できます」
「どういう意味ですか?」
「単純な話です。普通に審査をしていたら、パスポートの最終ページに審査官の指紋が付着する事はないはずなんです。通常、審査官は本人確認や査証はしますが、最終ページに掲載されている住所を見るような事は普通しません。それをするのは、査証や本人確認の段階で何か問題があった場合だけですが、一人ならともかく三人全員がそうだとするなら、意図的に住所を確認していたという証明になると思います」
「な、なるほど」
刑事たちが納得したように頷く。が、高科の表情はまだ厳しい。あくまでそれは状況証拠だという判断なのだろう。橋本は別の情報に望みを託すことにした。
「奴の過去の動向についてはどうだ?」
「埼玉県警に調べてはもらいましたが……パッとしませんね。奴が通っていたのは大宮第三高校という高校ですが、その高校時代の態度も真面目の一言。というか、どちらかといえば真面目すぎて目立たない生徒だったようです。成績はそれなり。部活は吹奏楽部所属でトランペット担当ですが、腕前はそこそこ。特徴がほとんどないというのが当時の同級生の言葉です」
「大学も同じですね。通っていた早応大学では特定のサークルに入る事もなく、ただ勉強をしているだけ。三年生の頃から公務員用の予備校に入り、そのままストレートに合格しています。友人らしい友人もいないようです」
何ともつかみどころのないというか、よく言えば平凡、悪く言えば面白みのない人生である。
「わからんな……平凡な公務員が、何がどうなれば凶悪な連続猟奇殺人鬼に変貌する?」
「……平凡ではない、のかもしれませんね」
不意に、榊原がそんな言葉を発した。
「どういう意味だ?」
「……高科検事、確か羽本は法務局だけでなく、検察庁にも出向経験があるそうですね?」
唐突な問いに、高科は戸惑ったように頷いた。
「えぇ、そうです」
「具体的にはどの時期にどこの検察庁へ出向を?」
「ええっと……一九九九年から二〇〇〇年までの二年間、浦和地方検察庁……現在のさいたま地方検察庁に出向していますね。しかし、それが何か?」
「……学校や法務省での仕事に問題はない。だとするなら、唯一イレギュラーな場所に出向いていたその期間に何かあるのかもしれないな」
榊原はそう呟くと、何やら思わせぶりな表情で橋本を見つめた。
「おい、まさか……」
「橋本、明日少し付き合えないか?」
その言葉に、橋本は深いため息をついたのだった。
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