女と上司とfと
外東葉久
女と上司とfと
女は眠っていた。
仕事中だというのに。休み時間でもないというのに。共働きで子どもを世話しているわけでもない。昨夜、残業が遅くまであったわけでもない。さらには、昼食後というわけでもない。ただ、目の前のパソコンのキーボードに手を置いたまま、こっくりこっくりと舟を漕いでいるのだ。女の席は窓際の端で、誰も注意する者がいない。そして、その画面には押されたままの「f」が量産されている。どうやら、キーボードの扱いは正しいようである。
上司は、そのさらに上司との内線に出ながら女を眺めていた。電話中に声を出して注意するわけにはいかないし、あいにく、多くの部下が会議で出払っている。それにしても一向に起きない。会社で熟睡とは、なかなか肝が据わっているものだ。
まあ、自分もやったことがないと言えば嘘になるが。
上司との電話も一向に終わる気配がない。いつのまにか、上司の電話の内容は業務連絡から愚痴と文句に変わっている。彼はうわの空で相槌を打ち、然るべきタイミングでぺこぺこと謝った。ここは早いところ切り上げるのが良策である。彼は中堅のキャリアを生かして上司をうまく言いくるめ、その場を乗り切った。
「こんなことをしに来たんじゃないのにな」
上司は思った。入社したときは、もっと希望にあふれた華の社会人になれると思っていた。来てみればやはり、というのもおかしいが、社会というのは理不尽である。
学生の頃は、早く働きたくて仕方なかった。自分の力で稼ぐことに憧れた。我ながら純朴である。けれども今は、学生の頃のように何の義務も責任も負わなくていいような生活に戻りたいと思うばかりだ。
小学生の頃は、中学生や高校生に憧れるのに、いざ自分が中高生になると、勉強に部活にテストにと忙しくて、なんだか見当違いだと思い知らされたときのようである。もちろん社会人になったときに同じ現象が起こることはうっすらと頭の中にあったが、学校とは違う、「社会」というものは、あまりにも想像しづらいものだった。
きっと、女もそう思っているのだろう。押しつけられる、意味があるのか甚だ疑問な作業の山。自分が入りたての頃、しばしば手を抜いて叱られたことが思い出される。自分のやりたかったことはどこへやら。女にそれを押しつけているのが自分でもあるということに、良心の呵責を覚える。それなら居眠りをするのも妥当である。
上司の思考は女を起こす方へは向かなくなってきていた。女のパソコン画面の「f」は、ページを更新し続けている。
上司は考えた。
じゃあ、自分がこれまでの社会人生活で得たものは何なのだ。勤続二十五年。依然、家庭はなく、給料がすこぶる良いわけでもない。強いて言えば、上司という社会的地位だろうか。いや、そんなものより結果を残せばいいと思っていたではないか。そんな心の声が聞こえた。
考えれば考えるほど、自分がここにいる意味が分からない。今までどうして毎日出社できていたのだろう。何が支えだったのだろう。確かな答えが浮かばないことに、なんだか自分が気持ち悪かった。そして、こんな思考回路を辿っている自分が怖くもなった。
自分の心の奥底に隠し持っていた、別の自分が、むくむくと表に出てきているのを感じた。子どもの頃、夜、電気を消した部屋で一人で布団の中にいると、心の中の自分が普段の自分を支配してきて、自分が自分でなくなるように感じることがたまにあった。久しぶりのあの感覚だ。
女が起きたら礼を言おう。起きるまで起こさない。上司のささやかな反発心と、女への同情心だった。
そして上司は、自分のパソコンの画面とキーボードに目を移した。
しばらく後、会議が終わり、部下たちが帰ってきた。彼らの話し声や足音のためか、眠っていた女がはっと起き上がった。慌てて辺りを見回す。上司は目の端で女を捉えながら、画面に集中しているように装った。
女の目の前に広がる「f」の海。
更新したページは二十五。
女はそれらの「f」をマウスで全て選択し、キーを一度、ぽんと押した。
ぱっ。
その瞬間、「f」は消え去った。
それと同時に、上司はあるファイルをクリックした。
二十五ページの「f」は二十五年間の
上司の耳の奥で、すん、という音がした。
なんだか気持ちよかった。
上司のパソコン画面では、ページをロードする円がくるくると周り、まさに機械的というように、なんの抵抗もなくページが開いた。
その一番上には、「退職願」の文字がわいわいと踊っていた。
女と上司とfと 外東葉久 @arc0
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