第6章

第140話 厄介な依頼

 魔花の事件イレギュラーから早一週間。ベルが謹慎から解放されるまであと数日という微妙な時期に、鶫は緋衣――芽吹の先輩に呼び出され、彼の研究室がある帝都大に出向いていた。


 大学の中は夏休み中だからなのか、思っていたよりも人の入りは少ない。だが日本一を歌う大学なだけあって、やはり建物や設備はとても立派だ。

 並みの学力しかない鶫には縁遠い大学ではあるが、千鳥や一部のクラスメイト達はここの大学を第一志望にしているらしい。ならばいつかは学祭などでまた来る機会はあるかもしれない。

 そんな取り留めのないことを考えつつ、鶫は今回の用事を思いだしていた。


――緋衣から来たメールの文面だと、呼び出した理由はぼかされていたが、恐らくは【さくらお姉ちゃん】の事について何か進展があったのかもしれない。


 鶫が記憶の一部を取り戻した後、千鳥に関する事柄以外は緋衣にも念のため伝えはしたのだが、それでも事件に関しては分からないことの方が多かった。

……本来であればもっと意欲的に記憶を取り戻すように努力するべきなのだろうが、どうしてもそこまでの気力が湧かなかった。それは、さくらお姉ちゃんに対する想いの変化が関わっている。


 失ったはずの過去を思い出し、鶫の中でさくらお姉ちゃんに対する心証はがらりと反転してしまった。


 さくらお姉ちゃん――姉は確かに自分には優しかったけれど、彼女が何を考えてあんなことを引き起こしたのかは全く理解できない。

 大火災の原因であり、千鳥を誘拐し何らかの権能をもつバケモノを呼び出そうとしたのは、まぎれもなくさくらお姉ちゃんだった。そこにどういった意図が絡んでいたにせよ、まともじゃないのは確かだった。


――真実を知りたいけれど、知りたくない。そんな矛盾した感情が鶫の心に渦巻いていた。……知ってしまえば、きっと大好きだったさくらお姉ちゃんのことを嫌いになってしまう。そんな予感がしたのだ。


 そんな陰鬱なことを考えながら、鶫はメールに添付されていた構内の地図を頼りに指定された部屋にたどり着いた。そして【緋衣専用資料室】と書かれた扉を軽くノックすると、しばらく時間をおいて扉からぬっと出てきた青白い手が小さく手招きをした。


……一体どうしたのだろうか。あまりにも怪しすぎる。そう鶫は不審に思いながらも、「お邪魔します」と声を掛けて部屋の中を覗き込んだ。


 すると青白い手の持ち主――緋衣は濃い隈が浮いた顔で「入ってくれ」とぶっきらぼうに答え、壁際にある机に向き直った。そしてそのまま、パソコンで何かの作業を始めてしまった。……完全に放置されている。


 そんな緋衣の態度に困った鶫が「あの、緋衣さん?」と声を掛けると、緋衣は振り向かずに口を開いた。


「すまないが少し座って待っていてくれ。呼び出しておいて悪いが、急にねじ込まれた解析調査の纏めがまだ終わらないんだ」


「えっと、座って待てと言われても……ここのどこに座る場所が?」


 そう言いながら鶫は部屋を見渡した。十五畳ほどの部屋の中に散乱した書類に、何らかの専門書。そして空いたスペースにはよく分からない機材などが所狭しと並んでいる。座るどころか足の踏み場すらない。

 鶫が思わずそう告げると、緋衣は不機嫌そうに舌打ちをして「なら適当に部屋を片付けて待っていろ」と吐き捨てるように言った。


――いきなりとんでもないことを言い出したぞこの人、と思いながら鶫が緋衣を驚いた目で見つめていると、緋衣は淡々と掃除の仕方を説明しだした。


「書類は日付と見出しとページ順で分けて積んで置け。本は適当に隅にまとめておけばいい。機材は……壊さなければ何処に置いても構わない。この部屋にある機材は大した価値もないからな」


 そう事も無げに告げる緋衣に、鶫は焦ったように口を開いた。


「いや、あの、片付けるのは別にいいんですけど、ここの学生でもないやつが勝手に緋衣さんの書類を見ても大丈夫なんですか?」


「とくに問題はない。どうせ君が見たところで内容は理解は出来ないだろうからな」


 さらりとそんなことを言われ、鶫はゔっ、と小さく呻いて胸を押さえた。――確かにその通りだけど、あまりにも辛辣すぎないか?

 そう地味に心に傷を負いつつも、上手く言い返す言葉が見つからず鶫は静かにうなだれた。

 

「もういいか? あと二時間以内にこの案件を終わらせないといけないんだ」


「……あ、はい。じゃあ俺は片付けをしてるので」


 緋衣にすげなくそう言われ、鶫は「なんで俺こんな目に合ってるんだろう……」と自問自答しながらも部屋を片付けるために手を動かし始めた。そこで投げやりにならない辺り、根がまじめとも言える。


 そんなこんなで一時間かけて部屋をある程度片付けた鶫が、ようやく見つけた椅子に腰かけて緋衣の手が空くのを待っていると、緋衣が疲れたように大きなため息を吐き出し、小さく「終わった……」と呟いた。どうやらようやく仕事が終わったらしい。


 完全に椅子に体を預け脱力しているところを見るに、相当疲れているようだ。……これはもう出直して話は後日にした方が良いんじゃないだろうか。


 そんなことを考えながら鶫が緋衣の背中を見つめていると、緋衣が椅子ごとくるりと振り返り、バツが悪そうな顔で頭を下げた。


「色々と悪かったな。言い訳はしたくはないが、急な案件のせいで徹夜が続いて少し気が立っていた。八つ当たりをしてすまない」


 そう言って、緋衣は疲れた様にガシガシと頭を掻いた。身なりを整える余裕もなかったのか、やや色素が薄い茶色の髪の毛は艶を失ってくったりとしている。……こんな可哀想な様子では、責めたくても責められない。


「いえ、別に気にはしてないので。それに緋衣さんの言った通り、書類は本当に何一つ理解できなかったですし……」


 ははは、と力のない笑みを浮かべた鶫はそう答えた。

……書類をまとめている最中に、いくら何でも言いすぎだろうという反骨精神から少しだけ中身を見てみたが、本当に同じ言語を使っているのか分からないくらい意味が分からなかった。別に張り合うつもりはなかったが、これはもう悔しいを通り越して空しい。


 そう鶫が心の中で打ちひしがれていると、緋衣はおもむろに立ち上がり部屋に備え付けてある流しに向かって歩き出した。そして棚からカップのような物を取り出し、軽く水で濯いでポットから何かの液体を入れた。そしてこちらに戻ってくると、それを鶫の前に静かに差し出したのだ。


 濃い目の緑色の液体が入った、小ぶりのビーカー。そう、メモリが付いたビーカーである。鶫はそれをまじまじと見て、一瞬事態が飲み込めずに沈黙してしまったが、もしかしてこれはお茶なのだろうか。

――漫画とかではよく見るが、本当にビーカーで飲み物を出す人間は存在したのか。そんな妙な感動を覚えながらビーカーを受け取ると、緋衣は苦笑しながら言った。


「こんなものしかなくて悪いな。普段はこの部屋に客人なんていれないから碌なカップが無いんだ。ああ、それはほぼ未使用品だから安心してくれ」


 鶫はそれに対し「ほぼとは……?」と思ったが言葉を飲み込んだ。世の中には知らなくてもいいことがある。


「別に潔癖症とかではないんで俺はこれでも大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」


 それでも若干の不安を覚えつつ、そっとビーカーに口付ける。すると妙に青臭い苦みが口の中に広がった。……率直にいってすごく不味い。


「ど、独特な味ですね。なんのお茶なんですか?」


 鶫が思わず吐き出すのを我慢しながらそう問いかけると、緋衣は死んだ目でお茶を啜りながら静かに答えた。


「貰い物だから僕にもよく分からない。多分その辺の林から採ってきた雑草か何かだと思うが」


「えっ」


「まあ心配しなくても効能だけは偉い医者のお墨付きだ。悪いものは入っていない」


 淡々とそう言いながら不味いお茶を飲み干す緋衣を見て、鶫は「本当にこの人大丈夫なのか……?」と不安になった。もしかしたら徹夜のし過ぎで思考がおかしくなっているのかもしれない。


 よくよく見てみれば体はふらふらと眠そうに揺れており、目の焦点もいまいち合っていない。折角話を聞きに来たのはいいけれど、まともな話が出来るコンディションだとは到底思えなかった。


「あの、もしよければ日を改めましょうか? 緋衣さんはちょっと本調子じゃなさそうですし」


 鶫が心配そうに告げると、緋衣は小さく目を伏せて首を横に振った。


「いや、出来れば今の方がいい。――この有様なら、多少口を滑らせたとしても目こぼしされるだろうからな」


 そう言いながら、緋衣はゆるく頬杖をついた。


「今回僕が関わっていた案件は、言ってしまえば例の魔花の解析だ。つまり政府からの依頼だな。細かいことは他の研究機関に任せたが、結局それを纏めるのは僕がやらないといけない。面倒にも程がある」


「ええと、それは大変ですね……?」


 いきなりの愚痴に鶫が首を傾げていると、緋衣はこちらを気にもせずに話を続けた。


「正直に言ってしまうと、これ以外にも僕の抱えている仕事は多くてね。大火災の件を調べている余裕があまりないんだ」


「……つまり、調査は打ち切りということですか?」


「そう結論を急かすものじゃない。――大火災の件に関しては、現段階で大まかな概要はもう調べ終わっているんだ。けれど、僕に調査を依頼した人間が一番知りたがっている情報はまだ手に入っていない。つまりこの問題をクリアしないことには、僕はこの調査からは降りられないんだ。厄介だろう?」


「理屈は分かりましたけど、なぜ俺にそんな話を?」


 鶫が不思議そうに問いかけると、緋衣はにこりと綺麗な笑みを浮かべた。その笑顔が、芽吹が鶫に無茶ぶりをする時の顏に被り、鶫は思わず身震いをした。……何となく嫌な予感がする。


 そして緋衣は意味ありげに鶫のことを見つめると、おもむろに上着のポケットから銀色のカードを取り出して鶫の前に差し出した。


「これは政府の資料を閲覧するためのセキュリティカードだ。管理者に言って登録さえ完了すれば君にも使えるはずだ。好きに使うといい」


「ん? すいません、仰っている意味がよく分からないんですけど」


 鶫が困惑気味にそう言うと、緋衣はゆっくりと告げた。


「七瀬鶫くん。――が大火災の真相を調べるんだよ」


「……はぁ?」


「大火災の調査はとある事情から僕に一任されている。だが正当な理由さえあれば、別の人間に引き継ぐことは出来るはずだ。まあ事情が事情だけに生半可な人間では僕の代わりは務まらないだろうが、この件に関していえば君の方が適任だろう」


「ちょ、ちょっと待って下さいよ。緋衣さんは以前会った時に『大火災に関わる事柄は秘匿事項で一般人には話せない』って言ってたじゃないですか。いくら緋衣さんが許したって、一般人の俺がそんなことできる訳ないじゃないですか!」


 情報管理の為に契約書まで書かされるような事柄を、いくら担当者――緋衣が許したからといって一般人が引き継げるわけない。そう考えた鶫が声を上げると、緋衣は目を細めながら静かに口を開いた。


「ああ。いくら大火災の関係者の身内とはいえ、君が政府と何の関わりもない一般人なら到底無理だろうな。けれど、それが十華・・ならば話が変わってくる。なあそうだろう、七瀬鶫――いや、葉隠桜・・・さん?」


 そう言って、緋衣は綺麗に笑った。

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