だから、どうした? ~焔の記憶~

美袋和仁

第1話 夏の記憶


「あ.........」


 少女の見開いた眼に映るのは、真っ赤な床と壁に飛んだ血飛沫。


 どんよりとした空気が全身に絡みつき、粘つくように少女の動きを妨げる。

 喉の奥が引き絞られ、呼吸もままならない空間で、彼女は声もなく泣いていた。


 夥しい血の海に倒れる母親と、膝を着いて慟哭する父親。

 それを少女は硝子のように虚ろな瞳で見つめ、はたはたと零れる涙で視界がけぶる。


 母の顔は真っ白で、薄くひかれた口紅が異様に赤く浮いて見えた。

 その首筋は無惨に切り裂かれ、捲れ上がった皮膚から見える生々しい肉が、少女の視界を捉えて離さない。


「おか....ぁさ....ん」

 

 何とも現実味のない光景。まるで画面越しに映画かドラマでも見ているかの如く、冷静で客観的な自分が頭の中にいる。


 いったい何が起きたのか。


 少女には全く分からなかった。


 なにがしかの凶行が行われたのが一目瞭然な現場で、泣き崩れていた父親が立ち上がる。

 そして、ゆっくりと少女に向き直り、覚束無い足取りで近寄ってきた。

 その眼は虚ろに濁り、瞳に光はなく、充血した白目が不気味にギラギラ滑って見える。

 まるで幽鬼のようにユラユラと身体を傾がせ、父親はコトリ、コトリと歩を進ませながら、戦慄く唇を動かした。


「おまえは...... おまえさえ居なければ.........っ!」


 深い影を落とした顔と、限界まで見開かれた眼に浮かぶ不気味な光芒。

 譫言みたいにブツブツと呟きつつ、父親は血塗れの手で彼女の首を掴む。

 ぬらぬらと湿った父の指の感触が少女の身体を粟立たせた。

 これが母親の血液なのだと理解し、思わず胃液が逆流する。

 最後に見たのは怨嗟にグツグツ煮え滾る父親の瞳。その言い知れぬ深い殺意に満ちた眼差しとともに、少女は意識を手放した。


 次に彼女が見たのは、真っ赤な焔に包まれた我が家。

 夜目にも鮮やかな焔は、赫々と燃え上がり、パチパチ火花を散らしながら、天高く煙を渦巻かせている。


 夢現にそれを見つめつつ、少女は再び意識を失う。


 自分が誰かの腕に抱かれていたことにも気づかずに、彼女の心は、この記憶を封印した。


 当時七歳だった少女を見舞った凄惨な事件。一家心中の生き残りとなった少女は、事件の風化とともに忘れられていった。


 事件の記憶を失ったまま成長した少女は高校生となり、養護施設から自立する。


「御世話になりました」


 快活に笑う彼女の名前は鎮海百香。背の中程まである髪を高い位置で一つ結わきにした可愛らしい少女だ。俗に言うポニーテール。

 彼女に、件の事件以前の個人的な記憶はないが、それ以外は覚えていたので、日常生活に支障はない。

 特別奨学金を得て高校にも進学も出来、バイトで生活を賄う彼女の苦学生人生が、今スタートした。




「..................」


 そして入学式を終えた登校初日、百香はいきなり窮地に立つ。


 私立不動学園は、よりすぐりの子女子息が通う金持ち学園。

 特別奨学金枠がある高校が少なかったとはいえ、ここを選んでしまった事を、いまさら後悔する百香だった。

 ここは金持ち学園なだけあって、特別奨学金に制服から学用品まで含まれる。

 制服は洗い替え用も支給され、学園の購買で購入した文具は、領収書を添えて申請すると、後日返金されるシステムだ。

 苦学生の百香には、非常に有り難いシステムである。

 制服も学園内のクリーニングに出せば無料。

 金持ち学園だけあって、学園内の施設は充実しており、購買は言うに及ばず、カフェテリアから学食風のビュッフェ、ドラッグストアやコンビニまで入っていた。

 それも一般の店と違い、扱っている商品は高級品。

 どこの街角にハイブランドの化粧品を置いているドラッグストアがあると言うのだろうか。

 

 軽く眩暈を覚える百香である。


 さらに切実なのが、お昼御飯だ。


 カフェテリアやビュッフェなどをチラ見したが、ロールパン一つに三百円とか。暴利すぎるだろう?

 コンビニ他のパンやお握りも軒並み数百円越え。なんでも不動学園限定の品揃えなのだという。


 いらん配慮だ。そんなに質に拘るならコンビニなんか入れんなっ!


 購買でパンでも買おうと思っていた百香は、きゅるるると自己主張する御腹を抱えたまま、途方に暮れた。


 彼女の掌には一枚の五百円玉。

 質素倹約な苦学生の百香にしては大盤振る舞いな金額のはずなのだが、ここではものの役に立たない。

 総合的に一番安かったのは購買のサンドイッチ。食パンを斜め切りにした一切れが四百二十円。消費税込みでも何とか買える。ロールパン一個とかよりはマシだろう。

 本来なら数種類をセットにして買うものだが、百香の懐事情では一つしか買えない。


 明日からはお弁当にしよう、うん。


 切無げに五百円玉を握りしめて、固く心に誓う百香だった。


 だが、さらなる現実が百香を襲う。


「売り切れ?」


「あまり人気はないから、少ししか仕入れてなくてね。ごめんなさい」


 そりゃそうだ。大半の生徒はカフェテリアなどに行くだろうし、無ければ無いでいいような市販品モノ

 売れ残るほど仕入れまい。

 軒並みのパンは売り切れたらしく、購買の棚には一口和菓子や洋菓子などの腹の足しにもならないものばかりだった。

 シベリアなど食べようものなら、午後から胸焼け間違いなしである。


 あ~...... ロールパンでも買うしかないか。


 お菓子よりはマシだろう。


 がっくりと肩を落とした百香の頭に、誰かが何かをのせた。

 えっ? と訝り、顔を上げる彼女の視界には一人の少年。

 無表情で冴えた美貌の彼は、冷たく温度のない眼差しで百香を見ていた。


 誰だっけか。見覚えはある。


 そして、はっと眼を見開いた。


 同じクラスの秋津響だ。


 整った造作の顔は、周囲の女生徒らの嬌声を集めていた。

 何でもどこぞの御曹司だとか、モデルをやっているだとか、説明されるまでもなく口々に上がる黄色い声が、ハートマークつきで教えてくれる。

 金持ち学園と言ってもピンキリだ。生粋の金持ちは半分もいない。

 残りは裕福な小金持ちや成り上がり程度。

 そんな中、目の前の御仁は本物の金持ちなのだと、百香は噂話で知っていた。

 柔らかな猫っ毛の薄茶色な髪を揺らし、同じく薄茶色の瞳をぼんやりと瞬かせ、彼はポンポンと百香の頭に何かを重ねていた。


「.....やる」


 そう言って踵を返す彼の背中を見て、百香はハタっと我に返り、慌てて頭上に置かれたモノを手に取る。

 それはコンビニ印のサンドイッチ。値段はないが、この目立つマークに間違いはない。


「ちょっ、待って、コレ、なんで?」


 追ってくる百香に気づいたのか、秋津は、ゆうるりと振り返った。


「......腹の虫、聞こえた。食え」


 片言かい。


 思わず唾を呑み込み、それでも百香はサンドイッチを彼に返そうとする。


「貰えないよ。男の子が一つじゃ足りないでしょ?」


 秋津の手には似たようなサンドイッチがもう一つ握られていた。彼は昼食の半分を百香に譲ってくれようとしているのだ。

 たぶん、購買のおばちゃんとのやり取りを聞いていたのだろう。


「.....いい。どうせ、カフェテリアに行く予定。あっちで適当に食う」


 ああ、とばかりに百香は納得した。

 先ほどカフェテリアを覗いた時、周囲の女生徒が、そのような話に花を咲かせていたのだ。

 生徒会メンバーがカフェテリアに集まるとかなんとか。

 この秋津響も、生徒会メンバーの一人である。

 

 なら、譲って貰っても良いかな?


「じゃ、コレ」


 百香は秋津の手を掴み、その掌に五百円玉を握らせる。

 彼は一瞬瞠目し、次には柔らかく微笑んだ。

 ほんの少し口角が上がっただけなのだが、何故か微笑んだのだと百香には分かる。


「......なら、これも」


 秋津は手に持っていた、もう一つのサンドイッチを百香の頭にのせ、慌てた彼女が落とさないよう掴むのを確認してから軽く手を振った。


「......じゃ」


「え? えー?」


 飄々と立ち去る秋津を、百香は茫然と見送る。


 どうして彼が? 御飯を譲ってもらえるような覚えないんだけど?


 いくら考えても埒が明かないが、取り敢えず御飯に罪はないなと、百香は人気のない校舎裏に向かっていった。




「あ、来た来た、響っ、ここっ」


 カフェテリアにやってきた響を見つけ、大柄な青年が大きく手を振る。

 そこのテーブルには目立つ一団。生徒会メンバーの二人がいた。


 言われなくても分かるわ。


 軽く眉をあげ、秋津は傍を通った店員に適当な注文してから席に着く。

 籐で出来たフレームにガラスが張られた上品なテーブル。椅子も籐製で、座ると微かに軋んだ音をたてた。

 気だるげな仕草で椅子に背を預ける響が、珍しく手ぶらな事に気づいた友人は、軽く瞠目して首を傾げる。


「あれ? 今日はサンドイッチじゃないのか?」

「.......まあね」


 一学年上の生徒会長阪崎拓真に言われて、秋津はぶっきらぼうな返事を返した。

 短く刈り込まれた黒髪の阪崎は、有名レコード会社の御曹司だ。

 がっちりした体躯で男振りも良く、細身な秋津とは対極の美丈夫である。

 本人も売れっ子の作詞作曲家で、実家の七光りなどなくとも十分魅力的な青年だった。


「珍しいですね。カトラリーを使う事すら厭う貴方が」

「.......そこまでか?」

「そこまでですよ。自覚ないのですか?」


 キッパリ言い切る御仁は、副生徒会長の霧島阿月。

 阪崎と同学年で名のある茶道家の御曹司である。

 本人も名のある書道家で、自宅の掛け軸や額は全て彼の御手。

 他にも茶花栽培など、多岐にわたり才能を見せる賢人だった。

 さらりとした黒髪を肩で切り揃え、やや首を傾げる仕草には仄かな色気が漂い、手に持つ藍の扇子が中性的な彼に良く似合っている。


 そんな三人を窺うように観察していた女生徒らが、阿月の仕草に思わず見悶えていたのも御愛敬。


 圧し殺す嬌声に鬱陶しげな顔をし、響は百香を脳裏に思い浮かべた。


 名前が違う。しかし、間違いなく彼女だ。


 小中高一貫の不動学園。

 中高からの特別奨学生は珍しく、繰り上がりで顔馴染みな生徒達には好奇の眼差しで迎えられる。

 そんな中に外来で新入生としてやってきた彼女を見て、響は瞠目し、一目で懐かしい過去を思い出した。


 幼い頃に毎年遊んだ女の子を。


 父の友人夫妻の一人娘。


 響が初等部に上がるまで、毎年夏の避暑に同行していた一家。

 七歳の夏を最後に、全く付き合いは無くなり、父親に尋ねても、一家は遠くに行ってしまったのだとしか教えてもらえなかった。


 それでも忘れられなかった響は、歳を重ね、独自に色々と調べる。

 結果、判明したのは、彼女の一家は借金を苦に無理心中をはかった事。

 自宅に火をつけ、焼け落ちた残骸から三人の遺体が発見された事。


 その事実は響を絶望に突き落とした。

 なんてことだ。彼女は死んでいた。

 父が、彼等は遠くに行ってしまったと言っていたのは、こういう事だったのか。


 毎年遊ぶ可愛い少女に仄かな恋心を抱いていた響は、彼女の無惨な最後を知り、感情を殺してしまう。

 何も楽しくない。嬉しくない。興味が持てない。

 視界に映る全てがモノクロで寒々しく、色というモノの存在すら忘れてしまいそうだ。

 

 言葉も口にせず無気力で無感動。ただ生きているだけの人形のようになってしまった響を支え、共にあってくれたのが、生徒会の二人だった。


 幼い頃から付き合いのあった二人は、響の変貌に驚きつつも、手を替え品を替え、長々と彼を支えて共に学園生活を送ってくれた。

 焦る事もせず、諦める事も離れる事もなく、何の反応も示さない響に、毎日語りかけ、惜しみ無い支援をしてくれた。

 

 おかげで響は片言程度だが会話が出来るほど回復し、こうして問題なく学園に通えている。


 二人の幼馴染みを心の底から有り難く思いつつ、響は微かな笑みを浮かべた。


 感情の死んでしまった響の鋭利な美貌が、逆にクールだと大衆に受けたのも想定外。

 モデルにスカウトされて、トントン拍子に売れっ子となったのも想定外。

 無機質な氷の彫像に需要があるとは。世の中分からないものである。


 無表情も極めれば商品になるのだなと自嘲気味に嗤う響だが、その透き通るほどの静謐な美貌は、見る者に羨望や畏れを抱かせるに十分なのだと理解していない。


 そんな響の目の前に、失ったはずの少女が現れた。

 それに想いを馳せる彼の憂い顔。

 優美で柔らかな表情に、微かな翳りを落とす不可思議な顔は、幼馴染みの二人はもちろん、周囲で窺っていた生徒達らすらも絶句させる。


 無意識に周りを魅了しつつ、響は如何にして百香を手に入れようかと頭を巡らせた。


 二度と失わない。どんな手を使っても。


 脳裏に浮かぶ黒い思考につられ、響は至福の笑みをはく。

 それを眼にした生徒らが驚喜に悶絶し、間近で見てしまった幼馴染み二人はドン引きしたとも知らず。


 後日、幼馴染みの二人から、まるで魔王のような嗤いだったと言われ、一人自己嫌悪に陥る響である。

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