第7話 ファイナリスト
「次ぎ、93番」
呼ばれた少女が審査員席の前に立つ。読み始めた本は伊藤左千夫『野菊の墓』だ。すでにこのオーディションで3回ほど読んだ子がいた。手垢の付いた題材。凡庸な朗読。それは学校の教室で国語の教師に指名されて教科書を読み出した学生のよう。
いや、決して下手ではない。情感を込め、声の強弱をうまく使って読んでいる。だが、小山内キクの後では全ては色褪せて見えた。
彼女もそれを自覚してなのか、どこか投げやりな諦めの気持ちが垣間見えてしまっている。
そして結希の順番が来た。キクがきっと結希を見据える。
「さあ。何を
キクはそう呟いた。
結希はゆっくりと歩を進めると審査員たちの前に立った。ああ、この前の重森さんはいないんだ。結希はそう思った。一抹の寂しさを感じる。何故なんだろう。あの人には何かしら親近感を覚えていたのだが・・・。
そしてまだ僅かに中学3年生ではあるんだけれど、結希は自ら選んだテーマの中に入り込んでいった。
研兄ぃに言われた歌劇団の中から選んだらというアイディア。でもそれは一言の元却下したんだけど、そのとき別のアイディアが思い浮かんだ。
もう5年ほど前のこと、母と共に大阪のホールで観たあのミュージカルを。あの日あれを観てからずっと自分でも歌い続けていた。そう心の中で。折に触れあのメロディが胸の中に流れ出した。
そして結希は原作を読んだ。この重々しいドラマがあのミュージカルに変身した。正直まだ小学生の結希にはこのフランスの作家が書いた物語の半分も理解することは出来なかったが、こういう背景があってあの舞台は出来上がっていたことが分かった。
去年の夏、偶然図書室で手に取ったこの本を今あらためて読み返して、この場面をあのシーンに取り込んだことが理解できる。
「聞け、民衆の声を!」
結希が叫んだ。瓦礫の街から人々が現れる。やがて小さな人々の声は大きく民衆の声となってうねり出すのだ。
「フランス革命か・・・」
「これは、レミゼ!?」
審査員たちが互いの顔を見合わせた。ここで進行係から資料が配られる。この審査では参加者たちの本は最初審査員に明かされない。前には採点表があるだけなのだ。しばらくするとようやく読んでいる本のタイトルが示される。
審査員たちに示されたのは、ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』角川文庫版だった。『ああ無情』と訳された古くからある版ではなく、どちらかと言うとミュージカルに近い翻訳版である。
結希は民衆蜂起のシーンを朗読していく。それは朗読というにはあまりに情感溢れ、登場人物のそれぞれが生き生きと躍動していた。
「凄い表現力だ・・・」
ひとりの審査員が呻いた。
「この硬い文章だぞ。それを読んでいるのにまるであの舞台が見えるようじゃないか」
「この子は本当に中3なのか?」
審査員たちは口々に呟くが、その目は宮島結希に釘付けになっていた。
最後の1行を読み終えた結希は、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の民衆の歌をほんの1節口ずさんだ。
その歌声が押し寄せる波になって審査員たちを襲う。たった1節の控えめな歌声に大の大人たちが溺れたのだ。
そしてもうひとり、結希の朗読に圧倒されていた人物がいた。小山内キクである。
「なんて、子なの・・・」
キクは結希の後ろ姿を見詰めながら呟いた。頬を涙が伝うのを隠すことも忘れていた。
全ての審査を終えた審査員たちは実行委員会代表の映宝常務取締役今崎真一に進言した。今回のオーディションでは圧倒的な参加者が3名いた。そのレベルは他の追随を許さず。ここで3次審査は意味をなさない、と。
この3人をファイナリストとして誰か1名を選ぶか、あるいは3人全員と契約すべきであると。3人とは小山内キク、宮島結希、それに神田柊子だった。
結局、3次審査は中止するものの、既に発表の通り最終選考をマスコミ公開の中で行いグランプリを決めることになった。
いいもの3つも見つけたから、全部頂きます、と言うわけにはいかないと上層部の判断である。
3次審査の中止とファイナリスト選抜の通知が来たのは結希が家に帰ってすぐのことだった。宮島恵子は切れた電話の受話器を右手に持ったまま左手を握り締めて、
「よし!」
と叫んだ。
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