cace.2 八脚馬パンチラインズ
第36話 五月に滴る氷雨
祭壇には美しい白菊がこれでもかと言うほど飾られていた。喪服に身を包んだ強面の男たちは皆険しい顔をしており、中には瞳に涙を浮かべ、嗚咽を噛み殺す者もいる。女たちは小声で世継ぎがどうたら、恨みがこうたらと根も葉もない噂話に花を咲かせていた。
大人たちから発せられる重たく濁った毒々しい空気の中、凛と咲く一輪の花が在った。花は思う。
これは夢だと。
声は聞こえない。ただ自分の名が呼ばれていると理解する。誘われるままに祭壇へと歩みを進めると同時に、視線の雨が彼女の身体中を突き刺す。怒り、悲しみ、そして哀れみ。大人たちの瞳に宿った負の感情を一身に浴びる嫌悪感は筆舌に尽くし難い。
この夢の続きを見てはいけない。頭ではそう分かっている。だが身体はそれを許さない。目を瞑ろうと必死に瞼に力を込めるが、裏腹に爛々とする己の
為す術無く流されるままに、彼女は目の前の棺を覗き込んでしまう。
――そこには首の無い父親の遺体が横たわっていた。
*
「ッ!?」
氷雨閑は声にならない声を上げ飛び起きる。皮膚には汗が大量に浮き上がり、インナーが肌にべっとりと張り付いていた。浅い呼吸を繰り返す口元は、ひたすらに水分を求めている。
「また同じ夢……」
閑は脱衣所に着くと、真っ先に汗の染み込んだ不快な衣服を、洗濯機目掛けて脱ぎ捨てる。少しの肌寒さを感じながら、浴室の扉を開けた。すぐさま蛇口を捻ると、シャワーから流れ出る冷水が掌に触れる。じんわりと身体に伝う冷たさは、徐々に彼女の脳を覚醒へと導く。
数秒ほど経つと温水に変わり、閑は既に冷え始めた身体を流し始める。身体の芯が温まると同時に、汗の不快感と脳裏にこびり付いた悪夢を洗い流す。
何を考える訳でもなく、ただ心地の良い温水を浴び続けることは、今の彼女にとって最も必要な時間だった。
それから1分程経ってから、閑は蛇口を閉める。ようやく整った心に安堵の息を漏らす。
閑が顔を上げると、水が滴る乱れた黒髪の間から、酷い隈を携えた両の瞳が鏡越しに彼女を覗き込んでいた。
「……びっくりした。酷い顔をした私か。お化けかと思った」
自分の顔を怪奇と見間違う程の疲労感を自覚した閑は、目頭を抑えながら浴室から退出する。バスタオルを身体に纏わせ、自室に戻ると時計と目が合った。
――5月9日AM5:00。
「そうだ、今日からまた学校だ」
ゴールデンウィークが明けた事を告げる日付に、閑は少し肩を落とす。
「悪夢から始まるなんて……縁起悪いわね」
神に祈ることすら疎らな閑は、思ってもいない言葉をただ形式的に吐き捨てたのだった。
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