第十二話

 軍馬の嘶きや鬨の声、鉄炮の轟音はそこら中に引きも切らず鳴り響き、諸人に踏みならされた大地から濛々と立ち上がる砂塵は高く昇った陽光を遮って、昼間ながら戦場は、薄暮の如き様相を呈している。

 真田信繁率いる赤備は、さながら勝利を希求して止むことを忘れた火の玉の如く、この日家康本営に突き刺さること三度、家康がそこに在ることを示す金扇の馬印が倒れるのは、奇しくも真田家が長く仕えた甲斐の武田信玄によって、遠州三方ヶ原に打ち倒された元亀三年(一五七二)以来約四十年ぶりのことであった。

 誰の目にも好機である。いまここで予備兵力を投入すれば敵の撃砕は必定、混乱甚だしきに乗じて家康を討ち取ることすら夢ではなかった。

 戦勝を確信してか、前線の信繁から放たれた使番が大坂城内にひっきりなしに駆け込んできては、異口同音に

「戦機熟したり。秀頼公御出馬を」

 と求めた。

「馬曳けい!」

 秀頼が床几を蹴って立ち上がる。その口から放たれたとは思えない、はじめて聞いた野太い声だ。

 近侍する治長は軽い眩暈に襲われた。負傷による体調不良のためではない。いまは亡き太閤秀吉の魂魄が、我が子秀頼の肉体を依り代にして、いまこの瞬間、この場所に蘇ったような錯覚に襲われたからである。

 事実、立ち上がった秀頼は、ともすれば日常の物言わぬ文弱な印象からは想像もつかないほど、力強く、勇気に満ちあふれているように、治長には見えた。

 これまで縷々陳べてきたとおり、大坂城内は主戦派である牢人衆に占拠されたも同然の状況であって、再戦のやむなきに至ったことは治長の遺憾とするところであったが、それはそれとして、いま目の前に立つ秀頼の、曾てないほど頼もしい姿といったらどうだ。思うに父秀吉だけではなく、祖父浅井長政や大伯父織田信長といった名だたる名将の血が、秀頼の身体の中でひとつになって、矢弾飛び交う戦場の風景のために、充満する硝煙と血の臭いのために、人々のあげる鬨の声のために、武人として覚醒をみたのであろう。

 だとすれば目覚めた秀頼の武者ぶりを今生の思い出としてその采配に従い、これを限りに暴れ回った結果、秀頼馬前に屍を晒したとしても虚しいことなどあるものか。それこそが豊家の家臣たる己が本分ではないか。

 一瞬であるが治長の脳裡に浮かんだのはそのような考え。名状しがたい昂奮こそ、治長に眩暈をもたらした所以であった。

 しかし……、しかしである。


 家康の本陣に討ち入り、家康の首を打ち落としたとして……なんとするか。


 ついさっきまで治長の脳髄を支配していた酔夢すいむのような想念が、豊家の譜代家臣として無縁ではいられない現実的思考、政治判断によって即時に打ち払われる。

 豊臣家にとって家康は交渉相手である。その交渉相手を殺すということは、助命嘆願を申し入れるべき相手を失うということであった。家康を殺された関東方はいよいよもって後に引けなくなり、如何なる犠牲も厭わず数に任せて攻め寄せてくるだろう。そうなってしまえば和睦もなにもあったものではない。今日この場での勝利など一時的な事象に止まり、豊臣家は跡形もなく討ち滅ぼされてしまうに違いなかった。


 再戦は豊臣が望んだものではなく牢人衆が暴発したもので、秀頼に責任はない。


 来るべき家康との交渉でその理屈を押し通すためには、秀頼を出馬させるわけにはいかないのである。家康を殺してしまうなど論外であった。

「お待ちあれ~!」

 思い直した治長が秀頼を押しとどめる。

「止めるな修理。汝の考えていることが分からぬ余ではない」

「ではなおのこと御出馬差し止めを」

「無用である。ことここに至っては、両御所(家康と秀忠)が余を赦免するなど万に一つもあるまい。そもそも牢人どもにのみいくささせ、我が身ひとつ赦免を請うが如き卑怯な振る舞いは余の好むところにあらず。そのようなことをするくらいなら、余はこの時、この場所で、豊家の名に恥じぬ最期をこそ望む。ゆえに出馬しようというのである。止め立てするな」

 出馬するしないで主従がもたついている間にも、真田からの使番が次から次へと駆け込んでくる。しまいには信繁の嫡男にして生年しょうねん僅か十五の真田大助までが駆け込んできて、涙ながらに次の如く訴えかけた。

「父はいま大御所の首を追って駆け回っております。余力は尽きつつありますが勝機未だ去らず。どうか、どうか秀頼公御出馬を」

 と。

 治長はその大助を睥睨へいげいしながら、内心ありったけの雑言を浴びせていた。


 いまさらなにを言っているのだ。泣きたいのはこっちだ。

 豊臣家のためを標榜するのなら、何故和睦条項違反を繰り返したのか。穏健派の自分を襲撃した挙げ句、ものごとが意のままに進まなくなったいまになって、泣いて秀頼出馬を懇請するくらいなら、最初からいくさになど及ばなければよかったのではないのか。和睦の維持になんらの努力もせずあまつさえこれをぶち壊し、自ら好んで戦端を開いた牢人衆の一人が、若年だからとて涙ながらに口走って良いことと悪いことがあるだろう。


 しかし治長は声を上げなかった。

 それは、やはり年端もいかず、ものごとの理非をわきまえてもいないであろう牢人の一子息を面罵したところで詮ないと思ったのがひとつ。いまひとつは、一旦声を上げてしまったが最後、憤怒に満ちた言葉を止められず、諸衆を前に怒りを露わにすることになるであろう己が姿を恥じたためであった。

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