27.夢の力

 そこにいたのは、紛れもなく明星ルーシィだった。見間違えるはずも無い。彼女が出る番組を録画してもらって、何度も見た。こころの憧れの人がそこにいた。慌てて近くに行ってみると、ルーシィは誰かと話しているようだった。話している相手の顔が見える。そちらは、こころの知らない人だった。父さんより少し年上で、どこか偉そうな、威圧的な態度をしている男性だった。

「明星さん。毎度同じテーマじゃ面白みに欠けるでしょう。どうです、もうちょっとセンセーショナルな題材も加えたら」

「でも……私が書いてるのは児童文学です。子供たちには夢の世界を――」

「それもねえ、聞き飽きたんですよ。結局のところ面白いかどうかじゃないですか。ちょっとエッチな雰囲気でも入れれば、中学校入り立ての子供は喜ぶんじゃないですか」

 信じられない言葉だった。そんなもの、こころは読みたくなかった。ルーシィの書いたものはどれも、そんなものがなくても面白いものばかりだった。

「だいたいですね、あのシリーズ。何でしたっけ、タイトル。現行のシリーズですけどね、売り上げ伸びてないんですよ。書いても遅いし、アニメ化に向けてプロジェクト動かす予定だったのに……だいぶ伸びてるんですよ」

「……すみません」

「そもそもあれ内容が古いんですよねえ。竜と妖精、剣と魔法のファンタジーなんて何十年前のものですか。前は売れたかも知れないけど、流行りに乗らないと」

「……はい……ですが」

「いいよ、やる気がないならもう書かなくて。こっちは何人も新人抱えてんだからさ」

 ルーシィは、その言葉に顔を上げて何かを言おうとしたが、結局何も言えず、

「もう少しだけ、待ってください」

 と最後にそれだけを言った。こころは、ルーシィに何か声をかけたくて、さらに近寄った。だが、その途端に、周囲の景色がどろりと崩れた。


 何もかもが曖昧になり、そして――また場面が変わる。


 さっきとは全然違う場所にこころは出た。そこは、一言で言えば、とても綺麗な場所だった。白亜の石壁に、大理石の床には赤い絨毯が敷かれている。優雅な曲線を描く脚をした椅子やテーブルがあり、そこに、ルーシィがいた。そしていっしょに、妖精の女王イコタの姿もあった。二人は、先ほどとは全然違い、楽しげに談笑していた。

「そうなんです、私は人間世界では作家で……ええ、本もとてもよく売れていて」

「そうなのですか。どのような物語をお書きになるのですか?」

「いま書いているのは、妖精の姫と竜の王子のお話です。実は、私が本当に竜の国に行って見聞きした話しなんですよ。おかげで売れ行きも好調で……それ以外にも色んな話しを山ほど書いてるんです。筆が乗るんですよ、神が降りてきたみたいに。全ての作品が本当に好評で……色んな人が褒めてくれるんですよ」

「きっと、あなたの描く世界は素敵なものなのですね」

 優しい微笑みを向けられ、ルーシィは急に、口をつぐんだ。そして、唐突に涙を流し始めた。女王は、そっと真っ白いハンカチをルーシィに差し出した。

「……嘘なんです、全部。私、もう書けないんです。本当に見てきたのものを書いて……それだけで良かったのに、誰も……評価してくれなくなって」

「本当に、誰も?」

「たまに……お便りをくれる子供がいるんです。でも、それも、本当かなって……嘘なんじゃないかなって。嘘で褒めてくれる人なんているわけないのに……おだてて、おたよりに書いたお返事を、裏で馬鹿にしようとしてるとか、そんなあり得ないことずっと考えてしまって……そんなことを考えてるうちに、何も書けなくなって……」

「あなたは、自分の夢を忘れてしまったのね。たくさんの人に夢を与えようとし続けて、あなたの夢の木は枯れ果ててしまった。その木に水をやれるのは、あなただけなのに」

 涙を流しながら、ルーシィは何度も頷いた。それを見て、こころも泣いていた。何度もお便りを送った。想いを伝えた。それでも、それだけじゃどうしようもないぐらい、ルーシィは傷ついていたのだ。そしてその心の傷を、女王は深く理解してくれていた。

「私、もう……ここにしか居場所がない。でも、もう眠ることも上手にできない。薬に頼らないと、眠るのも起きるのもできなくて……」

「その心が、夢の扉を開いたのですね。あなたはこの世界を心の底から求めてくれた。何よりも素晴らしい世界として、妖精の国を認めてくれた」

 女王は微笑んだまま、ハンカチを受け取ったルーシィの手に、自分の手を重ねた。

「夢のリンゴを食べるとよいでしょう。夢はあなたに良い知恵を授けるはずです」

「知恵……? 夢の力、?」

「夢の力の正体は、世界を知ること。その知恵なのです。世界を知り、世界に触れ、世界を愛する。そして、その世界で自分がどうありたいか、願うのです。それこそが、夢の力の本質なのですよ」

 女王は優雅な仕草で立ち上がった。慌てて、ルーシィも席を立つ。そして、女王に向けてルーシィは言った。

「あ、あの! 私、嘘ばっかりで……でも、本当の私を女王様は知ってくれて……だからその、名前を、知ってほしいんです!」

 選ぶ暇もないように、次々と出てくる言葉でルーシィはそう伝えた。女王は頷き、

「あなたの名は?」

 と問いかけた。ルーシィは、涙を一度ハンカチで拭いて、そして笑って言った。

星野晃ほしの ひかりです!」


 そこで、再び世界は崩れていった。崩れる世界は、今度は夢の形を取らない。


 こころは短い夢から覚め、ぱっちりと目を開けた。そして、見た。自分の方へと手を伸ばしたまま倒れている、明星ルーシィ――星野晃を。

「姉ちゃん、大丈夫?」

 優利が聞く。優利は、こころが眠っている間、女王からこころがリンゴを食べたことを聞いていた。こころは、優利の方を見ずに「うん」と言って、起き上がり、そしてルーシィへと近づいていった。ルーシィは、近づいてくるこころを、目だけで見上げた。

「明星、ルーシィ先生」

 そう呼びかけながら、こころはその場に座り、そしてルーシィの手を取った。

「そして……星野晃さん。私、あなたのことが大好きでした」

「あ……」

 こころの言葉に、ルーシィの口から、声がこぼれた。

「あなたが書いた本、みんな面白くて、新刊が出たときは、夜更かししていつも読んでました。妖精の姫と竜の王子シリーズは、おこづかいをためて買ってました」

「うん……」

「私が初めてあなたの本を読んだのは、人魚の船でした。あの本が、心の中に、いまも残ってます。ずっと、人魚の船に乗りたかった。サンゴの船の歌を聴いてみたかった」

「うん……うん……」

 ルーシィの目に涙が溢れた。こころも、泣いていた。悲しかった。何度も伝えたはずなのに、いまこの瞬間まで、心にずっと届いていなかったのだ。それは、二人だけの力では、どうしようもないことだったのだ。それが理不尽で、辛くて、悲しかった。

「あなたがしたことは……悪いことだったのかもしれない。けれど、私はあなたに救われてほしい。あなたの夢が、形になってほしい。また……本を読みたい。あなたの本を」

「……あなたの……お名前は?」

 ルーシィに問われ、こころは答えた。

可愛かわいこころ」

「こころちゃん……知ってる。私にお便り、くれた子だ……」

 ルーシィは微笑むと、ふうと深い息を吐いた。しばらくして、ゆっくりと息をする音が聞こえてきた。眠ってしまったらしい。ほっと息を吐いたこころの横に、優利が立った。その顔は、複雑そうだった。

「……やるだけやって寝た」

「うん……疲れてたんだよ」

「こっちはもっと酷い目にあった。妖精たちだってそうだ。消えた妖精は、もう――」

「いいえ、大丈夫」

 後ろからかかった声に、二人は弾かれたように振り返った。妖精の女王が、鳥籠の牢から出てこようとしていた。牢は砂のように、崩れ落ちていっていた。

「妖精たちの力は、まだあなたたちの中にあります。そして、私の中にも」

「ミカさんたちは……戻って、来られるんですか?」

「ええ。全てがあるべき場所に、戻るのです。けれど、思い出は残ります。あなたの中に。そして、私の中に。あなたがたは妖精を知り、私たちは人間を知りました。その思い出はいつまでも、残るものでしょう」

 こころは頷き、優利は「はい」と言った。女王は二人に微笑みかけると、優利に黄金のリンゴを差し出した。

「これをあなたに。夢の力で、夢の扉を開くのです」

「こころは……さっき食べた分でいいんだね」

 いただきます、と言って、優利は黄金のリンゴを食べた。優利は心のように倒れて、夢を見ることもなかった。ただ、心の中に、温かなものが宿ったように感じた。優利はこころを見た。こころも、優利を見ていた。二人はそっと目を閉じて、夢の扉を思い描いた。

 すると、二人の前に扉が現れた。その扉は、妖精の国に来たときとは違い、ごく普通の家にあるような大きさをしていた。装飾もあれこれとはついていない。ただ、木目が美しい木の扉だった。両開きの扉の、左のノブをこころが掴み、右のノブを優利が掴む。そして、その状態で、二人は背後を振り返った。

「女王様……また、私はここに、来られるでしょうか?」

「ええ、あなたが願うなら、いつも妖精の国は夢の向こうにありますよ」

 優利は、言葉をかけず、ルーシィへと目を向けていた。復讐する心があった。怒りを彼女に向けていた。けれど、いまはもう、それは無い。これで良かったのだ。全ては終わり、そして自分は家に帰れる。良かったはずなのに、どこか名残惜しいと感じる。

「行こう、姉ちゃん」

 優利は言った。自分の感情を振り切るために。

「うん。行こう……女王様。また、いつか」

 こころは女王に別れを告げ、扉を開いた。優利も同時に扉を開けた。二人は、眩いばかりの光に包まれた。その先には、何も無い。ただ光の中に、二人は飛びこんで行った。

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