7.風の妖精
こころは、しばらく呆然と、その場に座り込んで天を見上げていた。天からは、絶えることなく黄金の火の粉が降り注いでいる。不思議なことに、火の粉は触れても熱くなく、ほのかな温かさだけが感じられた。一度、こころに呼びかけた優利は、いまは島を歩き回っている。こころと優利が初めに立った島と同じほどの小さな島は、一周するのに五分とかからなかった。
「……駄目だ、どこにも繋がってない。下にも上にも行けないよ」
こころの側に戻ってきた優利が言った。そして、こころの様子を見ると「姉ちゃん」とため息交じりにこころを呼ぶ。
「しっかりしてよ。このままここにいたら、あいつらまた、ここに来るかもしれない」
優利に言われ、こころはのろのろと立ち上がった。頭の中は、しびれたように動きを止めている。何かを考えようとしても上手く考えがまとまらなくて、ただ、後から後から、悲しみと、後悔が打ち寄せてくる。それでもどうにか、一つのことだけは心に残っていた。
「行かなきゃ……」
それだけを呟いて、こころは優利を見た。優利は「うん」とだけ言って、歩き出した。こころはその後を追う。優利は島の縁に立って、そっとその場にしゃがみ込んだ。
「うう……やっぱり下が見えないな。飛び移れるとこに、他の島が無いかと思ったけど」
こころも優利にならって、島の縁から身を乗り出して下を見た。はるか下に、島とは違う大地が広がっているのが見える。尖った山のてっぺんがギザギザに並び、真っ二つに引き裂けたような、深い谷もあった。翼でもあれば飛んで行けるのかもしれない。けれど、こころにも優利にも、背中の翼は無いのだった。
(ミカさんがいれば、空も飛んで行けたのに……)
そう思って、こころは首をゆっくり横に振った。ミカはもういない。自分たちを守って、消えてしまった。けれどミカは「大丈夫」だと言ったのだ。あの時のことを思い出すと胸が痛む。けれどこころは、懸命にその時、その瞬間のミカの様子を思い出そうとした。ミカが見せた表情、そして与えてくれた助言は、決して一時しのぎの慰めではなかったように思える。
「まだ何か、できることがあるはずだよ」
「何かって言ったって」
「そう……たとえば、空を飛んでみるとか。願えば夢の力を使えるって、ミカさん言ってたじゃない」
言いながら、よりいっそう崖の縁から身を乗り出すこころの腕を、優利が思い切り掴んだ。あまりに強い力で、こころが痛みを感じて顔をしかめるほどだった。
「姉ちゃん! これ以上行くと落ちちゃうだろ」
「けど、もしかしたら……」
「もしかしたらで飛ぼうとしないでよ。死んじゃったらどうするんだ!」
死ぬ、という言葉にこころは凍り付いた。そう、妖精の国は夢を通じて来る世界だけれど、決して全てが夢でできているわけではない。全てが夢なら、ここで目を覚まして、何事もなくベッドから起きられるだろう。朝の支度を済ませ、朝食を食べ、そして学校に行き――そこでミカとも会えるだろう。
しかし、ぎゅっと閉じた目を開いてみても、見ている景色は変わらない。優利が掴んでくる腕の痛みが、いまこの時に起きていることが、全部現実のものだと突きつけてくる。
「ともかく、飛ぶにしたって他の手段を考えないと。ただ飛び降りるだけじゃ、危険すぎるよ」
「――その通りです、人間の子供たち」
いきなり聞こえてきた応える声に、優利は驚きながらも「誰だ?」と空に向かって呼びかけ、辺りを素早く見回した。声の主はすぐに姿を現した。風の音がびょうと鳴ったかと思うと、さっきまで二人が覗き込んでいた崖の下から何者かが現れた。
「……! よ、妖精……!?」
その妖精は、風をまとって中に浮いていた。
「そう、私は、風の町の妖精。本当ならば、火の町には長くは居られない身……けれど、先ほど風の国に、とても強い火の妖精の力が、天から降り注ぎました。そして……降り注いだ火の力を集め、ここに来たところ、あなたがたがいた。人間の子供が、何故? いったい、ここで何があったのです」
問いかけに、こころも優利もすぐには答えられなかった。目の前で起きたこと、特にミカの身に起きたことが、まだ受け入れられなかったのだ。二人のそんな様子を見て、風の妖精は空から地面へ、二人の目の前へと降り立った。
「ひとまず、風の国へと案内しましょう。妖精は、生まれた場所から、遠く離れることはできません。それに、ここには、邪悪な力の痕跡があります。火の妖精の力が、あなたがたを守っていますが、やがて、再びこの地に、夢魔が現れるでしょう」
「ミカさんの力が……私たちを、守ってくれているんですか?」
「ミカ? そうでしたか、あの方が……彼が命をかけ、守った客人ならば、あなたがたは全ての妖精の友。さあ、私の腕を取って。飛び立ちましょう、風の町へ」
差し出された手を、二人は取った。左手にこころの手を、右手に優利の手を握った風の妖精は、二人ごと自分の身を風で再び包み込んだ。風の中で三人の体はふわりと浮き上がり、そのまま崖を越え、そして緩やかな速度で、下へ下へと降りていった。
風の妖精は、下へと降りていく最中、ラビーという名を明かした。こころと優利も自分の名を名乗り、人間界から夢の扉を開けてきたことだけを告げた。そこで一度、話は途切れた。話している途中に、風の町へと到着したからだ。
風の町は、火の町とはまったく違った景色をしていた。
火の町は空に点々とある、雲の上にあった。ラビーによると、こころと優利が来た場所は火の町の端で、町の中心には、火の妖精が集まる場所がある、大きな島もあるのだという。
一方風の町は、島々の集まりだった火の町と違い、山の中にあった。ラビーが降り立った場所は、山のてっぺん近くにある展望台のような場所で、そこからは空の上にある雲の島と、山の間にある風の町がよく見えた。風の町は、切り立った谷間の岸壁に鳥籠のような建物があって、谷の間を風の妖精たちが飛び回っているのがよく見えた。
「妖精たちが、あんなにもいるなんて……!」
「人間の世界からすれば、物珍しいでしょう。けれど、ここから見える妖精の数は、以前より、だいぶ減ってしまいました」
「この数で? それに、減ってしまったって……」
「私たちの力の源、女王様のリンゴの木が……枯れ果ててしまったからです」
沈痛な面持ちで、ラビーは谷から視線をそらした。移ろった視線の先には、女王のリンゴの木があった。ちょうど、谷の間から見えるようにそびえる大木を見ながら、ラビーは言う。
「あの木があるからこそ、私たち妖精は、夢の力を得られるのです。その力が無くなるのは、人間で例えると、食べる物が無くなるのと同じこと。何日もの間、何も食べず、走り回ることができないように……妖精もまた、夢の力が無ければ、空を飛ぶどころか、動くことすらできなくなるのです」
「そんな……そんな状態がこのまま続いたら、妖精はどうなるんですか?」
「全て消えてしまうということは、ありません。力を使わなければ、消えることはない。けれどミカのように……あるいは他の、妖精の騎士たちのように、夢魔と戦う者たちは……」
「消えてしまう、ってこと……ですか」
優利の言葉に、ラビーは振り返り、少しの沈黙を挟んで首を振った。
「完全に、消えてしまうことはほとんど、ありません。ミカも、また……あの方は特に強い、夢の力を持っていました。その力の、小さな欠片たちを、あなたがたも見たはずです。彼が残した火を、いかにすべきか。考えていましたが……それを、あなたがたに託しましょう」
「私たちに?」
「どうして……オレたちなんですか?」
「ミカは、人間を愛していました。己の命と等しいほどに。それだけで、理由としては、充分でしょう」
静かな、淡々とした言葉だった。しかし、微かな笑みを浮かべたその口元が、ラビーがミカを尊敬し、信じていることを雄弁に語っていた。
「さあ、行きましょう。ミカの火は、私の家にあります」
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