第6話DEEP WATER ~解けぬ重石~ Part.2

 唐突に聞き慣れない言葉を聞けば耳が滑り、目にすれば目が滑るだろう。だからこれは、よくある事として流す程度でいい。何か長ったらしく、それらしい言葉が並んでいる程度の認識でいいのだ。

実際、魔王女が不意に口にした言葉は、グリムにとって意味を解さぬ音の羅列に過ぎなかったから――


「ミィトメア・フォウ・ビドゥン・ダムオミニュスド・ルシルファムファール・ラ・ディザスタ・ディザスティル・カタステルミット・エル・ディアプレドじゃ」

「…………なんの呪文だ」


 黙々と串焼きにした魚を食っていたら、魔王女が口にした珍妙な呪文。二日続けて魔族と同じたき火を囲み、あまつさえ食事までしているだけでも頭痛がするような状況だというのに、なんの前触れもなしに、こんな台詞を並べられたら誰だってグリムと同じように、胡乱な顔して聞き返すだろう。

 何処をどう切り取っても、意味を成さない音の羅列を聞かされれば当たり前だが、有り難いことに隠された意味は彼女自身が語ってくれた。


「妾の名じゃ。偶然とはいえ主の名を知ったからな、妾も名乗らねば失礼じゃろ。聞きそびれたのならば改めて名乗ってやるぞ? ミィトメア・フォウ・ビドゥン・ダムオミニュ――」

「――んなクソ長え名前、覚えられるワケねえだろ」


 グリムが割って入ったのは話を終わらせるためだった。魔族の名などに興味は無いし、なにより会話を拒みたい彼は、可能な限り冷淡な言葉を選んでいるが、その言葉選びと態度が魔王女のお気には召さなかったらしい。


 せっかちな奴だと彼女は言った。

 水を差されなければ、彼女はこのように続けるつもりだったようだ。


「妾の名は脈々と受け継がれてきた高貴なものじゃが、不便であることは自覚しておる。一々全ての名を呼ばれるのは妾としても、些か鬱陶しいからのう。故にお主には、特別にメアと呼ぶ権利を与えるのじゃ!」


 魔王女は――メアは、その控えめな、まだ少女らしい胸を張って自信満々に宣言した。太陽光の下にある彼女の姿は青肌や角がことさらに強調され、魔物らしさが際立ってこそいるものの、その笑みには幼さからくる可愛げが見え隠れしていて、人間であれば引く手あまたであろうことが容易に想像できるし、右頬にある古い切り傷などきっと気にもならないだろう。


 だがしかし彼女は魔族だから、名を呼ぶ権利などもらっても、グリムにとっては全く嬉しくないのである。


「いらねえよ、ンなもん」

「な、なんじゃとッ⁈ 王女たる妾を呼びつける許可を与えることなど、魔族の中でさえ滅多にあり得ぬというのに、お主はそれを断るのか⁈ 魔族の王女なのじゃぞ、妾はッ!」

「……馬鹿馬鹿しい」


 忌憚なく吐き捨てると、グリムは剣を担いで森の中へと入っていった。

 無論、メアは川べりに置き去りだ。彼女が高い身分にあることは確かだし、魔族にとって彼女の名を口にするという行為は、栄誉ある事なのかも知れない。しかし、その栄誉はあくまでも魔族に限ってのことで、魔王女なんて肩書きが人間相手に通じるわけがねえだろう。


 メアが繰り返し口にした使命に関しては、なるほど二人に共通していることをグリムも理解はしていたが、だからといって、すべてを水に流して昨日までの敵と手を取り合うなんて出来るはずがない。百年を超える戦、そして最中に失われた命を考えれば、手を差し出そうにもまず握り拳を作ってしまう。


 魔族にかけるべきは、言葉よりも先に刃。

 そうやって戦い続けてきたグリムだからこそ、メアとは早々に別れたかったのだが……


「それにしても『死神グリム』とは、剣呑な名じゃな」

「……俺が考えたわけじゃねえよ」


 当たり前のように付いてきたメアは、グリムが放つ緊張感など何処吹く風といった気軽さで、万が一にも斬りかかられる心配さえしていない。それどころか、徒歩での移動を楽しんでいるきらいさえある。


「呑気な奴だ。つぅか、なんで付いてくるんだよ」

「それは違うなグリムよ。妾が主の後に続いているのではなく、たまたま主が妾の進みたい方向に向かっているだけじゃ」

「……なら、お前が先に行けよ。俺はすこし休んでから行く」

「奇遇じゃな、妾も小休止しようとかと考えていたところじゃ」


 ああ言えばこう言い、メアも足を止めた。

 どうあっても離れるつもりがない彼女には、執拗に追いかけてくる客引きみたいな鬱陶しさがあり、斬らずにすむよう別行動を試みているのに、とうの彼女がこの調子では、グリムが苛立つのも無理はない。


「いい加減にしろよ女! 理解してねえみたいだから教えてやるが、てめぇとよろしくやる気はサラサラねぇんだ。アレックスの意志は、俺が自分でなんとかする。てめぇの使命はてめぇ一人でやれ!」


 人間と魔族が同じ道を歩めるはずがない。並べば争うしかないのだから、別々の道へと進むのが得策というもので、無駄に血を流すくらいならと冷徹に突き放すグリムであったが、メアはとても冷静に言葉を返した。


 彼女の意見は大きく二つ。


「まず教えてくれるかグリムよ。そこまでの自信があるのであれば、主は我らの現在地が判っておるのじゃろうな? ここがどの大陸の、どの国の領土なのか答えられるのか」

「…………」


 唇を結ぶグリム。現在地がどこなのかなど知る由もない、本来乗りえないレイラインで運ばれ、移動中に振り落とされたことを考えれば、命があるだけでも幸運なのだ。

 だがそれでも、言えることは一つだけある。


「……少なくとも、黒の大陸じゃあねえ」

「妾でもそれくらいは判るぞ。正確な位置が判るのかと、妾は尋ねておるのじゃ」


 この状況下で現在地を知ることは、目隠ししたまま草むらに放り投げた石を、目隠ししたままで見つけるという芸当に等しい。

 グリムは黙って、詰問を続けるメアを睨み返すしかなかった。


「沈黙か……。では質問を変えるぞグリムよ、ここが黒の大陸でないことは我らの意見も一致しているが、果たしてどちらの勢力圏なのじゃ?」


 魔族、魔物達が支配しているのは黒の大陸と呼ばれる東の大陸だ。だが人魔間での戦争がもたらす必然として、魔族側は人間達が暮らす西の大陸へとその勢力を伸ばしており、地域によっては魔族に占領されている場所もある。


 なにしろ世界中で人魔戦争を続けているのだ、小競り合いなんて、どこで起きていても不思議ではなく、そうなればどちらの勢力下にあるかが重要になってくる。だがしかし、現在地も不明な状態で、どちらの勢力下にあるかなど知る由もない。


「分からねえ」と絞り出したグリムは、非常に悔しそうだった。


「そうじゃろうな。なればこそ、我らは共に行動すべきなのじゃ。仮に魔族の勢力下だとしたら、主はどう切り抜けるのじゃ? 立ちはだかるすべての魔族と魔物の群れを、その剣一つで斬り伏せるか」

「向かってくるなら斬るだけだ、これまでもそうしてきた」

「道は自ら切り拓くか。勇ましいな、城にまで攻め入った主の実力は認めよう。じゃが一人きりでいつまでも戦えるはずがなかろう。早晩力尽き、名も無き骸と成果てるぞ」

「他にやり方を知らねえ。斬って斬られてくたばるなら、その程度だったってことさ」

「ふむ、真っ直ぐじゃな、お主は……。その不器用さ、嫌いではないぞ」


 メアはそう言い微笑んだ。

 しかし、その笑みは立ち消えとなって、険しい表情に早変わりする。


「……だが愚かじゃ。その愚直なままで、よく生き残れたものじゃな」

「切り抜けられると、いま証明してやってもいいんだぜ」


 グリムの手が背の大剣に伸びるが、メアはまったく乗ってこない。


「安い挑発じゃな。妾の意図するところがまだ分からぬのか」

「自殺願望以外にか?」

「お主が生き残るために、妾を利用せよと言っておるのじゃ」


 彼女が言っている意味は理解できるが、理屈が呑み込めない。グリムの浮かべた怪訝な表情には、若干の間抜けさが漂っていたからメアが説明を追加する。


「つまりじゃ、魔族の勢力下にあった場合、妾にお主を守らせればよい。父上から賜った使命のためならば、あらゆる手段で守ってみせよう。魔族が相手ならば説得も出来るはずじゃ」

「じゃあ、逆にお前は……」

「無論、お主を利用させてもらう。人間の勢力下にあった場合は妾を守ってみせよ」


 相互利益のための一時的な協力。

 現状、どちらの勢力下にあるか不明な以上、確かに最適な行動案かもしれない。かばい合えれば両者が生き残る可能性があるし、最悪でも片方は生き残れるだろう。


 ただし、裏切らないと言い切れれば話だが――


「無用な心配じゃ、妾は嘘は好かぬ。とは言ったものの魔王女たる妾の言葉など、主は信じぬじゃろう。故に、試されておるのは我らの信頼ではなく、主の胆力じゃな」

「……俺が裏切るとは考えねえのか」

「疑念からは何物も生まれぬ。首を縦に振ってくれたのならば、妾は主を信じよう」


 人間を信じる。


 魔族の口からこんな台詞が飛び出すなんて、誰が予想できようか。大多数の人間がするであろう反応と同じく、グリムからは疑念が消えきってはいない。それも当然だ、信じると言ったところで口約束、砂浜に書いた文字を撫で消すように反故にするのも実に容易い。


 間違いなく疑う、確実に疑う。

 だが、むしろそうあるべきだと分かってはいるのに、グリムは首を縦に振っていた。


 確かに、生き残るには頭を使うことが肝要だ、そこを疑う余地はない。どんなに力を持つ者であっても、出し抜かれればそれまでで、自慢の腕を振るう間もなく戦いは終わる。しかし、頭でっかちなだけでもまた、生き残るには不十分だ。時には自分の感覚、いかに馬鹿げた考えでも、いわゆる直感ってやつに従うことも大事なのである。


 そして、彼を真摯に見つめているメアの表情は、なるほど、頷くに値するものだった。


「いいだろう、乗ってやるよ」

「うむ。それでは、協力するに際して、もう一つ伝えておくことがあるのじゃ」

「王族として扱えってのは断る。魔王の娘だろうが俺には関係ねえ。魔族は魔族、それだけだ」


 協力関係こそ了承したが、身分の違いを飲むとまでは言っていない。そもそも魔族の身分が人間相手に通じるかという問題もあるのだが、メアが気にしていた点は、もう少しグリムにも身近なものだった。


「これより我らは対等な関係じゃ、故に主の無礼にも目を瞑ろう。じゃが、それでも許せぬ事はあるぞ、グリムよ」

「……なんだよ?」

と呼ぶな、不愉快じゃ」


 相当気にしていたらしく、不満を露わにしているメアの眉根は、これまでで一番寄っていた。


「お主が勇者と呼ばれるのを嫌うのと同じく不愉快じゃ、同じ事は言わぬぞ、二度と妾を女と呼ぶでない。名ならばすでに名乗っておるじゃろ、妾を呼びたくばメアと呼べ」

「協力と友好は別物だぜ。そこらへん、お前は理解してるのか?」

「無論じゃ。保身を目的とした相互協力、信頼よりも利によって我らは結ばれておるが、いまはそれ以上望まぬよ。とはいえ妾個人の思いもある、不快なものは不快じゃ。よいな、二度と呼ぶでないぞ?」

「……わかったよ、魔王女サマ」


 魔族の言い分を呑むというのは癪なのだが、彼女の不快感も十分に理解できるが故に、グリムは半端に妥協した。無駄に意地を張ってみたところで、端から見れば程度の低い意地悪と同義だと気づいてしまえば、むしろ続ける方が馬鹿馬鹿しい。


 メアの方はどこか不満げではあったが、それはそれだ。


「見事じゃなグリム、王女と呼ばれておるのに小指の薄皮ほどの敬意も感じぬとは」

「爪の垢ほどの敬意もねえからな、当然だ」

「そうまで言われると、むしろ呼ばせてみたくなるのう。遠からず実現させてみせるからな、覚悟しておくのじゃ」


 そうして交渉と雑談を交えながら、これからの行動予定をまとめていく二人であったが、近づいてくる葉擦れの音には、即座の反応でもって警戒心を向けた。多少気は緩んでいたかも知れないが、これほどまでに露骨な接近には流石に気が付く。


 茂みの向こうにいるのは、魔族か魔物かそれとも動物か……。

 臨戦態勢で構えている二人の前に姿を現したのは、だが意外な生き物であった。


「うわぁ、こんにちわ!」


 驚き混じりの挨拶。

 茂みの中から顔を出したのは、赤いリボンがよく似合う人間の少女だった。

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