第5話DEEP WATER ~ 解けぬ重石~

 生き物がその命を繋ぐのには必要不可欠なものがある。


 一つは睡眠。

 もう一つは食事だ。


 夜の森で無防備を晒して寝転がった青年であったが、奇しくも彼は五体満足のまま朝を迎えることになったのである。望むと望まざるとにかかわらず、運に任せた賽の目はもう一度剣を取ることを命じ、彼は託された使命を果たすことを自らに誓った。


 ――と、潔く腹を括ったまではものの、現在位置が不明のままでは行動のしようが無く、とりあえずの目標として、青年は人里を求めて森の中を彷徨っていた。幸いだったのは、太陽が高いうちに川を発見したことだろう。水もまた、生きる上で必要な物であり、川の近くには村が作られることが多い、もしも村が無いにしても、川を下っていけば橋か道に当たるはずだし、なによりも青年にとっては食事にありつけるというのが、一番嬉しいことだった。


 川の水は澄んでいて、魚影も見える。

 だが青年は、当然釣り竿など持っていないので、些か原始的な方法で魚を捕っていた。

 川に浸かり、大剣を全力で振るう。


 敵を屠るために鍛えた剣技でもって、川の水ごと魚を岸まで吹っ飛ばすこの方法は、野性の熊が魚を捕る方法と全く同じであるが、やり方の美醜など些事も些事、要するに捕れれば良いのである。

 まぁ、そんなこんなで青年は岸に上がって、打上げた三匹の魚を見下ろしていたのだが、今更になって不足してる物に気がついた。


 火が無いのである。


 かなりの空腹であるため、一秒でもはやくがっつきたいのが本心だが、生魚を喰うのはかなりの危険を伴う。当たったりしたら最悪で、その間抜けさには目も当てられないだろう。

 なので青年は大人しく薪を組んで、火起こしの支度を始める。


 用意するのは乾燥した細い草、それに枯れ葉

 そして溝を作った木板と、先端の皮を剥いだ棒だ

 枯れ葉の上に木板の乗せて、溝に棒を嵌めてやれば準備は完了

 あとは火種が出来るまで、根気強く棒を回転させて木板と擦り合わせてやる


 こうなってしまうと、昨晩のたき火を雑に扱ったことが悔やまれるが後の祭りというもので、青年は黙々と棒を回し続けるしかなかった。


 だが、そう簡単につくはずもなく、腕が重くなるばかりである。

 この錐もみ着火法は、コツさえ掴めば誰でも簡単に火を起こせる方法らしいのだが、なにせ青年も実践するのは今回で5度目くらい、コツもなにも分かりはしない、いわば運と根比べの次元で行っているに過ぎないのである。


 ちなみにだが、この火起こしに関して青年はまったくツイておらず、1時間近く粘るも僅かな煙さえ立たないという有様で、さらに彼にとって不幸の積み重ねというべき事態が起きた。


 ガサガサと騒がしい音に目を向ければ、藪の中から一羽の兎が飛び出してきた。これだけなら全然よかった、兎程度なら可愛いものだし食料にもなる。問題なのは、兎を追って藪から飛び出してきた女の方だ。


「ええい待たぬか! 高貴なる魔王女たる妾の糧となれるのじゃぞ、逃げるでな――」


 べしゃり――


 脚か、それともドレスみたいに広がっている毛皮が藪に引っかかったのか、ともかく魔王女は、その高貴さを台無しにするくらい無様に頭からずっこけた。はっきり言って、見事とさえ言えるこけっぷりはいっそ芸術的でさえあり、すぐさま顔を上げて、逃げていく兎に大声で悪態を付く様子も含めてまた見事であったが、彼女の気勢は唐突に萎むことになった。


 川べりで火起こししている青年と、目が合ったのである。


 見ちゃマズいもの見てしまったような気がする青年

 非常にダサい姿を見せてしまった魔王女


 ……気まずい、互いに


 だが流石と言うべきだろうか、魔王女はすっくと立ち上がると身体に付いた木の葉を払い、綺麗な振る舞いで青年の方へと歩み寄った。


「う、うむ。昨晩ぶりじゃな、名無しよ」

「……なんの用だ?」


 まぁ彼女は一応、王女らしい姿ではあったが『誤魔化すにしても無理がある』と、青年は内心思っていた。しかし、からかうような仲でもないので、彼は興味も薄く答えるだけ。そして続ける気が無い会話は、楽器が壊れた演奏と同じく途切れるのが道理であるのだが、何故だか魔王女は、その場から立ち去ろうとはしなかった。


 それどころか、不思議そうに青年に尋ねるのである。


「お主は……、これは何をしておるのじゃ?」

「関係ねえだろ、お前には」

「確かに無関係じゃ、じゃが興味がある」

「てめぇの興味なんざ知った事か。いいから失せろ、斬られてえか」


 無関心から一転、青年は明らかな敵意を込めて言い放った。少女の姿をしていても魔王の娘を斬ることに、躊躇う理由を探す方が難しい。

 なのにどうだ、魔王女はしばらく彼を見つめると、僅かにだが微笑んでみせた。


「なにが可笑しいんだ、女」

「昨晩の腑抜けとは別人じゃ。妾はようやく、父上と刃を交えた男と出会えたのじゃな」

「……なら、どこまで本気で言ってるかも判るよな、脅しじゃねえぞ」

「意志も気迫も、十二分に伝わってきておるよ。先程の問いに答えてくれたら、望み通り立ち去るとしよう」


 追い払いたいのならば答えてやるだけでいい。

 青年はしばし悩みこそしたものの、最終的に彼女の問いに答えてやることにしたのだが、火起こしをしていると伝えた口調は、明らかに歯切れが悪かった。

 その理由は、訝るように首を傾げる魔王女の仕草が物語っている。


「火起こしじゃと? 木の板と棒を使ってか?」

「ああ、そうだよ。……質問には答えたんだ、さっさと失せろ」


 なんて青年が唸っても、魔王女は首を傾げたままである。疑問を解消しない限りは、質問に答えたとは見なさないつもりらしく、さも当然のように居座った彼女は、さも当然のように話を続けた。


「わざわざそのように面倒な事をしなくてもよいではないか。小さな種火を作る程度じゃろ? 火を操る魔法はいくらでもあるのじゃから、手間をかける必要など――……」

「チッ…………」


 青年の舌打ちに、明らかな困惑が魔王女から見て取れる。

 魔法には多様の属性、そして多種の用途が存在するが、まずどんな魔法を覚えるにしても、最初に学ぶのは火起こしの魔法だ。そして奇しくも、この修練順序は人間も魔族も同じであったからこそ、魔王女は訝しんでいたのである。幼い魔族はおろか、魔物でさえ扱える火の魔法を、魔王城まで攻め込んだ人間が扱えないなどと思ってもみなかったから。


「……お主、まさかとは思うが。初歩の火魔法を扱えぬのか?」

「俺がどの魔法を使えようが、お前にゃあ関係ねえ話だろ。無駄話を続ける気はねえ、まだ口を開くなら、言葉にする前に首を落とす」


 青年は、最後通牒代わりに剣を突き付ける。いい加減うんざりしていたし、魔王女なんかと一緒にいることが許せなくもあったのだ。


 彼が間違いなく殺る気であったことは、魔王女にも伝わっていただろう。それくらい青年の眼光は冷めていたし、向けられているきっさきも微動だにしていない。だのにどうだ、魔王女は指先で剣をなぞると、青年の顔を覗くようにして首を傾いだ。そして――


「……グリム?」


 大剣がぴくりと震える、唐突に名を呼ばれ青年は静かに動揺していた。

 名乗った覚えはないので、魔王女が向ける視線の先に眼を落とした青年は、空いていた左手でコートの襟を閉じた。首に巻いている赤いスカーフ、その縁にある小さな刺繍を見られたのだと、気付いたときには遅かった。


「ふむ、それがお主の名なのじゃな」

「目聡い女だ、餓鬼のナリでも魔族だな」

「悪気はない、偶然目に入ってしまったのじゃ。気に障ったのならば詫びよう」

「詫びはいいから、どっか行けって言ってんだろ」

「そう邪険にせずともよいじゃろ。同じ使命を背負った者同士、いまは協力せぬか?」


 魔族に恨みこそあっても、手を貸してやる義理は無く、同じ使命を背負っているとしても、簡単に許せるはずがない。敵の敵は、やっぱり敵のままであり、グリムの眼差しは冷ややかだ。

 いや、むしろこの場においておかしいのは魔王女の方だろうか。脅迫まがいの眼光で刺されながらも、凜とした姿を保ったままに、彼女は交渉を口にするのだから。


「妾も魔族じゃからな、主との闘争には惹かれるものがあるのは認めよう。じゃが、この場で我らが刃を交えてもせん無いじゃろう? ひとまず休戦として、互いの利のために行動せぬか」

「人間と魔族(俺たち)の間には奪い合いしかねえ、協力なんざ無理に決まってんだろ」

「やってみなければ判らぬじゃろ? 何事も最初の一歩は難しく感じるものじゃ」


 グリムがちょいと剣を突き出せば、魔王女の喉には孔が開く。にもかかわらず、朗々と馬鹿げた提案をする彼女の姿によって呆気にとられたのか、彼は自然と問い返していた。一体何をするつもりなのか、気になったのである。喉をつくのは返答を訊いてからでも遅くはない。


「そうじゃな……、まずは小さな事から始めるとするかの」

「具体的には?」

「互いに必要なものを提供しあうというのはどうじゃ。妾は火種を、主はそこの魚を。これからどう進むにせよ、空腹では力も出まい」


 ナリは餓鬼でも王女は王女、交渉に望むだけあって口は上手かった。ただし、この条件を呑む必要のないグリムは、挑発的な態度で応じる。彼だって旅の中で幾多の商談をしてきたのだ、あっさり受け入れることの愚かさは承知している。どんな些細なやりとりでも、そこに駆け引きが生じる場合は安易に頷いてはならないのだ。いわゆる最初が肝心というやつで、このやりとりが後の関係に大きく関わってきたりする。


「そいつはどうかな、魔法がなくても俺は火をおこせる。お前に頼らなくても飯は食える」

「じゃが果たして保つかのう、妾には空腹で仕方が無いように見えるぞ? 原始的な火起こしで体力を無駄にせず、妾の魔法で手を打てば良いではないか、一瞬で済む。たかが一匹の魚で魔王女たる妾が振るう魔法の恩恵に預れるのじゃ、これ以上の幸運はなかろう」

「ツイてるかどうか決めるのは俺だ。なにより魔族なんかの――」


 ……世話になってたまるかよ


 グリムはそう言い切るつもりでいたが、なんとも情けない腹の虫が鳴いちまったせいで、すべてが台無しになってしまう。交渉や商談ってのは、相手に弱味を見られた時点で決する繊細なもの、特に不甲斐ない様なんて見られたらおしまいだ。


「……うむ、どうやら腹は決まったようじゃな」


 魔王女が柔和な笑みを浮かべ、グリムは渋々剣を下ろす。こんな状況で彼女を斬ったら、それこそ恥の上塗りだから、彼は提案を受け入れるしかなかったのだった。

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