その三十三 旅立ちの日
捺稀さんが
僕は眠れない夜を過ごし、空が白んでくる頃になっても悩んでいた。見送りに行くべきか、行かないほうがいいか。
僕は彼女を引き止めなかった。いや、引き止められなかった。
初めて話を聞いた元旦の日、彼女から返事をもらった日、僕は混乱して話の内容を理解できていなかった。日を改めて詳しく聞いて理解した。彼女の留学は必要な事だ。会えなくなるのは寂しいし、その期間に何があるか判らないとしてもだ。
自室でひとりになって枕を口に押し当て半狂乱になって叫んで、叫んで涙でぐしょぐしょにした。僕がこんなにも彼女が好きで求めているなんて自分でも判っていなかった。会えなくなる事で初めて自覚できるなんて僕は何も判っていなかった。
それでも、僕は彼女を引き止められなかった。僕は彼女を愛している。なら、彼女のためを考えよう。それが答えだった。
でも、長い間会えなくなるんだ。見送りに行けば、旅立つ彼女を見なければならない。前にして何をしでかすか自信がない。いかなければ後悔する。
もう、後一時間で出なければ間に合わない。顔を洗わなくちゃ、歯を磨いて、着ていく服を選んで。何をするも億劫だ。しかし、焦りだけはある。
「兄さん、もう出ないと間に合わないよ。電車出ちゃうよ」
ドアの向こうから妹が声を掛けてくる。
「ああ、判ってる!」
妹が気を利かせて声を掛けてくれたのに、不機嫌な声で返事をしてしまう。捺稀さんといつの間にか仲よくなっていて、今日の事も僕が言うまでもなく妹は知っていた。部屋に入ってきて布団を剝がさないのは、妹なりの気遣いなんだろう。
「私知らないよ」
足音が遠ざかる。どうしよう、もう間に合わない時間。最寄りの駅まで走ればぎりぎりか。
僕は走っていた。いつのまにか着馴れた制服をきて、かかとが減って走り難いスニーカを履いて、早春のまだ冷たい空気の中走っていた。
捺稀さんの後ろ姿を見つけた。彼女の後ろ姿は間違える訳がない。大きなスーツケースの取っ手を握って電車が来る方向を見ている。茉利香さんが隣に立っている、間違いはない。
声を掛けようとした時、彼女がこっちを向き目が合う。
「捺稀さん!」
走ってきた勢いのまま彼女に抱きついた。
捺稀さんは吃驚したのか身体を固くしたけど、直ぐに力を抜いて手を回して僕を抱きしめる。
「あらあら、熱いわね。うらやましいったらないわね」
茉利香さんの皮肉に似た言葉も僕の耳に届かない。
「真仁くん。遅いよ。会えないかと思った」
「捺稀さん。元気でいてね。絶対会いに行くから。一緒にスミソニアンを見に行こう、僕を案内してね!」
「そうだね。待ってるよ。絶対に会いに来てね」
「うん、必ず行くから。捺稀さん、勉強頑張ってね。僕も頑張る。
大好…… 」
電車が警笛を鳴らしてホームに入ってきて、僕の言葉をかき消した。
流れ出す人々を待ち、慌ただしくふたりは電車に乗り込む。手を振りあう僕たちを切り離すようにドアが閉まり、電車は加速してホームを離れていった。
僕はただ、立ち尽くし遠ざかる電車を何時までも眺めていた。
その時、春の風が僕の頬を撫でていった。これから、二人それぞれの時間が始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます