その十八 文化祭前夜祭の前日

「なんとかなりそうだねー」

「うん。後は看板を完成させるだけだ」


 四名しかいない博物クラブの全員が満足に動ける訳では無い状態では、準備が間に合わないかと心配だったけど、上部と堤野さんが思ったより手伝ってくれて何とか設営は間に合いそうだ。


 明日は文化祭校内公開日、授業はお休みでお昼から生徒、保護者と招待者にだけに向けて公開される。普通なら午後六時は下校時間、この時はその後前夜祭となり深夜までイベントが続く。校庭では生徒会主催でペアダンスパーティーが催され、模擬店も祭りの夜店のにぎわいとなる。


 そして、明後日は一般向けの公開日だ。近隣の人たちも大勢来場する。そう言う僕も去年見学に来た。後夜祭はなくて、夕方から片づけが始まり、次の日には日常に戻るのだ。

 明日の夜が生徒達にとって一番楽しい夜になる。

 今は、僕たち以外の他の部は設営が終わってるのか、学校に残っているのは殆どいない。


 もう時間も夜九時を過ぎて、廊下に出ると僕らがいる二階は非常灯以外は消えて遙か廊下の先まで物音もなくしんとして暗い。静かで暗い学校は本当に不気味で背中を怖気が這い上がってくるようだ。やけに心臓の鼓動を大きく感じる。

 自分たち以外もいるのだと確かめたくて、窓から外を見ると明りのついている教室も幾つかあって、安堵の息が漏れる。皆も頑張っているんだなと独り言ちるが背中の怖気を振り払うには充分でない。


 急いでトイレに駆け込み、用を済まして早足で地学講義室に戻った。少しでもトイレにいたくなかった。学校の七不思議は信じていなくても、恐怖を呼び起こすには充分だ。


 地学講義室(博物クラブの展示室)に戻ると窓から漏れる明りと看板を取り付けている捺稀さんが目に入り、心の底からほっとした。安心感が広がり背中の怖気はすっかり払われた。


「あ、手伝うよ」

「お願い、持ってるからそこを止めて、わたしだと手が届かない」


 捺稀さんが押さえているので、大型のホッチキスを受け取り看板を止めた。


「終わったね」

「うん、良かった。間に合った。ひと休みしよう、わたし紅茶淹れるね」


 地学準備室(博物クラブの部室)に戻ると、捺稀さんは電気ポットに水を汲み、スイッチを入れる。

 今夜は僕と捺稀さんのふたりだけしかいない。今日は届け出をすれば、24時までは学校にいられる、とはいえ少し休んだら彼女を送っていこう。


 湯が沸くまでただ待っている時間は静かで、ふたりだけの空間は落ち着かない。


「そう言えば、上部が差し入れ持って行くって言ってたけど、もう準備終わっちゃったね」

「そうなんだ。でも遅いね。早く来ないと帰っちゃうぞ」


 そう言って笑う。彼女の笑い声が消えた後は静寂が支配した。

 ふたりで電気ポットを見つめている。視線はポットに注いだまま、意識はその向こうにいる彼女に注がれる。湯が沸き始めているちりちりした音以外はなにも聞こえてこない。


 しばらくするとポットがぽこぽこと微かに音を立て始める。すると彼女は沸ききる前にスイッチを切ってしまった。


「あれ、まだ湯が沸ききってないよ?」

「いいの、あまり湯の温度が上がり過ぎると渋味が出ちゃうから。これくらいがちょうど良いののよ」

「!」


 僕ののどから漏れた感嘆符に答えず、ティーポットに湯を注ぎ暖める。湯を捨てて、茶葉を入れると湯を注いだ。

 彼女は、スマホの時計を見つつティーポットを眺めている。そんな彼女を僕は眺める。

 僕の視線に気がつくとにこりと笑顔を返してくれた。


「今夜のお茶はアールグレイだよ」


 そう言ってティーポットの蓋を取って中を覗く。満足そうに頷くと蓋を戻し、自分と僕のカップのお湯を捨ててお茶を注いでくれた。


「真仁くん、お疲れさま」

「捺稀さんもお疲れさま。ありがとう」


 受け取ったカップに口を付けひと口含んでみる。熱くて強烈な香りが鼻を突く。


「これは! 香りが強いね。初めて嗅ぐ香りだ」

「アールグレイは香料が入ってるからね。ちょっと待って」


 彼女はカップにミルクを注いでくれる。


「ああ、これは。がらりと印象が変わった」

「でしょう。ミルクティはアールグレイが一番おいしいと思う」


 ミルクで香りがまろやかになった暖かい紅茶が身体の中に染み込んでくるようだ。ここ数日の疲れが身体から抜けていく。


「捺稀さんの淹れる紅茶は本当においしいね。捺稀さんといると本当に楽しい」


 捺稀さんは視線を落として目が泳ぐ。頬もほんのり桜色だ、照れているのかな。


「ありがとう、おいしかった。そうだ、講義室の電灯消してくるね」


 展示室に使う地学講義室の電灯を消していなかった事を思い出して僕は席を立った。


「あ、そうだね。ありがとう、よろしくね」


 部屋の隅にある連絡用ドアから講義室に移動した。このドアを使う事で廊下に出なくても隣の講義室に移動できるのだ。講義室の自分たちの展示物を見て回り最後の確認をする。その後は、戸締まりを確認してから電気を消した。


 暗くなった部屋では非常灯が廊下への出口の上でチカチカとちらついている。ここ数週間の努力の成果のパネルや説明書きがその明りに照らされて暗闇の中に浮き上がっている。さっきまでの廊下の暗闇は不気味に感じたが、ここは自分たちの努力の結果の世界だ。パネルひとつひとつが安心感を与えてくれる。


 ひと通り視線を巡らし異常がない事を確認して、準備室に戻った。

 鍵をかけて振り返ると、捺稀さんがソファに寄りかかって目を閉じている。近寄ってみると微かに寝息も聞こえる。疲れて寝入ってしまったらしい。一番頑張っていたものね。


 時計を見ると九時半、もう少し仮眠を取ってもらおう。彼女を起こさないように椅子を静かに引っ張ってきてソファの前に座り直す。


 身を乗り出して、彼女の顔をじっと見つめている。ああ、好きだなあ。

 こんな間近で見つめた事はさすがに無い。いつも好奇心できらきらと輝いている眼鏡の奥の瞳はまぶたを閉じているので見えない。いつもなら眼鏡のレンズが邪魔をして印象に残り難い長いまつげが強調されている。細くも太くもない眉が緩やかな下がり気味の弧を描いてる。


 ああ綺麗だ。彼女が『ん』と身じろぎする。

 慌てて離れて元の位置に戻る。心臓の鼓動が激しく波打つ。緊張してじっとする。


 制服の胸が静かに上下している。大丈夫、まだ目を覚ましそうにない。

 なにが大丈夫なんだかと自分を戒めてみるものの、思慕を寄せる相手の顔をこんな近くでゆっくりと見る事なんて想像も期待もしてなかった。

 視線を少し下げると桃色の小さめな唇が目に入る。とても柔らかそうでひときわ鼓動が大きくなる。だめだ、なにもしちゃあ。そう思いつつも気がつくと彼女から一〇センチほどの至近距離で見ていた。こんな機会逃せる訳ない。


 甘い香りが立ち昇る。ミルクとアールグレイの香り、いつも傍に居ると感じる彼女の甘い体臭が混ざり合い、心の奥深から触れたいと衝動が湧き上がってくる。

 どきどきする。彼女の桃色の唇から目が離せない。脳裏に『キス』の文字が浮かぶ。


 僕だって思春期の男子だ、いろんな事考えるし、欲望もある。捺稀さんとあんなことや、こんなことしたいって妄想もする。ネットで色々なサイトを覗いて、自分の状況と同じ経験をしたひとがいないか調べたりした。すると、強引な行動で進展する話が幾つも出てきた。でもでも、良く読んでみると、相手のひとは普通のひとたちだ。


 捺稀さんは普通のひとじゃない。考え方も違うし、感性も違う。きっと強引な方法は最悪の方法だと思う。二度と話しかけてもくれなくなり、顔も見てもらえなくなる。そんな確実な未来が見えて僕の行動を押し止める。


 だからだめだ、首を振って妄想を振り払う。でも、視線ははずせない。上げようと意識した訳ではないのに右手がゆっくりと上がっていく、伸びた人さし指と中指が唇に触れそうになる。止める左手はギプスで固定されている。


「誰か、止めて」乾いた口の中で響く声は音にならず虚空に消える。止める者はこの部屋にいない。


 永遠の時間のなかで確実に進む人さし指。後少しで触れるところまで来る。

 その時、準備室の廊下側のドアががちゃがちゃと音を立てる。

 その瞬間時間が流れ出し、右手は元の位置に戻った。緊張してこわばった身体の力が抜けイスにストンと座り直しふうと息が漏れる。何もしないで済んだことに安心すると共に、彼女の唇に未練を感じていた。


 上部がやっと来たのかな。あれ、鍵掛けたっけ。上部だったらそのまま部室に入ってくるだろうし、こんな時間に誰だろう。


「だれ?」


 捺稀さんが目を覚ましてドアの方を見る。良かったぎりぎりで助かった。


「警備のひとかな?」


 ややあって、ドアが開くと黒ずくめの男がふたり部屋に入ってくる。ぴったりした黒のチノパン、長袖の黒のTシャツ、黒のバンダナで顔を隠している。

 警備員じゃない。それは明らかだ。じゃあ誰だ。


「「誰ですか⁈」」


 同時に叫んでいた。


「おまえら、ここの生徒か? 話が違うじゃないか。こんな時間の学校に子供が残っているなんてな」

「文化祭の準備で……」


 聞かれた訳でもないのに返事をしてしまう。


「なるほどな。おい、どうする?」


 男は後ろに向かい呼びかけた。後ろに立つ男が前に出てきて僕らをける。その瞳は異様に強い光を帯びている。


「これはこれは、こんなところで会うとは、世の中は判らないモノだな。探していないと見つかるものだ」


 特徴的なハンチングをずり上げ顔を隠す黒バンダナをずり下げると僕らに顔をさらした。


「お前は!」


 その男には見覚えがあった。


「覚えてくれていたようだな。いや、この場合は覚えていないほうが良かっただろうがな」


 そいつは博物館で出会い、尾行した僕らを攫おうとしたあの泥棒だった。


「サイトに載ってた目的の遺物だけではなくおまけも手に入った」


 ハンチングの男が横に動くと先の男が前に出てきた。手には結束具を持っている。


「いいのか、厄介事は嫌だぜ。後始末は大丈夫なんだろうな」

「ああ、大丈夫だ。そのむすめは、なかなかに上玉だ、例のルートで高く売れるだろう。男は奴隷としてなら、いくらでも売り口はある」

「なるほど」


 頭の芯が痺れ目の前が暗くなる。捺稀さんを売り飛ばす? 僕が奴隷に。この二十一世紀の日本で? 現実離れしていて何を言っているか理解が追付かない。でも、ひとつだけ確かな事がある。躊躇ためらいはない、彼女を守らなきゃ。


「捺稀さん逃げて!」


 叫びながら目の前の男の腹に向け頭から突っ込む。男は咄嗟によけきれず僕の全力の頭突きを鳩尾に喰らい、尻餅を突いて呻いた。


 連絡ドアで隣の部屋に逃れる彼女の姿を目の端で確認する。

 倒れている男の脇を抜けてドアの外に出ようとする。


 ドアを駆け抜ける寸前足がもつれて勢い良く転倒した。勢いがついていたため廊下を何度も転がり最後は床に張り付く。床で打ち付けた痛みでしばらく動けなかった。ハンチングの男に足を掛けられたのだ。


 ハンチングの男がにやつきながら歩いてくる。もうひとりの姿が見えない。

 自分の痛みより彼女の事が心配で心臓が激しく波打つのだった。

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