第2話 境界線の外側

 彼女は忙殺されていた。毎朝かわらず化粧をし、質素な服装で家を出て、子供相手に何かを教える。彼女は小学校の先生だった。


 自分の年齢と同じくらいこの仕事を続けている先生から教えを受けながら、まだ卒業して間も無かった彼女の心には、燃えるような情熱が限りなくたぎっていた。

 指示されたことを次々とこなしていき、子供たちへも愛を持って接し、返ってくる反応に一喜一憂し、自分にとって小学校の先生というのは天職だとすら考えているようだった。


 夏休みも終わりが近づき、新しい学期が始まろうかという時期に、彼女を指導していた先生が退職していった。理由は一身上の都合だということだが、どうやら心を病んだらしいという話が耳に入ってきて、彼女は驚きを隠せなかった。その先生が悩んでいたり、苦しんでいるようには到底思えなかったからだ。表向きは、至って普通の顔をしていたように感じられた。


 副担任をしていた彼女は、そのまま三月末までそのクラスの担任を受け持つことになった。仕事にも慣れ始めていたし、自分にならやれる、当時はそう信じて疑わなかった。




 思ったよりうまくいかない。彼女は担任を受け持ってから、すぐにそう感じた。初めての担任というプレッシャーも確かにあったのかもしれない。だけどそれにしたって想像とは違うな、と彼女は思った。


 まず、子供たちは完全に自由だった。言うことをきかせようとすれば反発するし、かと言ってやりたい放題させてしまえば舐められる。

 特にクラスの中心的な男の子が全体を纏め上げてしまって、授業中には雑談が止まないようになり、携帯ゲーム機を持ち出す子まで現れて、歯止めがきかなくなっていった。

 そうして言うことをきかなくなっていく子供たちを、どこか得体の知れない怪物のようだと思いながらも、なんとかその考えを頭から打ち消すようにして、毎日を必死に過ごしていた。


 結局そのまま中途半端な対応をし続けていった結果、気付いたときには悪循環の輪が見事に完成しており、怪物達に首輪をつけるどころか、自らの首に見えない首輪を付けてしまったという感覚が彼女にはあった。


 さらに、若くて経験の浅い女性教師という肩書きも苦労の種となった。自分よりも年上の保護者からあれやこれやと指摘が入り、無理難題を押し付けられることが増えていったのだ。時には舐められているとすら感じることもあった。

 喧嘩の仲裁は子を越え親へと飛び火していき、備品の破損、給食費の未納、筆記用具などの盗難被害、そういった問題が容赦なく降り注いでいった。


 それに加えて、授業参観の準備や毎日の授業のスケジュール、配布するプリント類の準備やテストの採点、校内行事の準備なども重なり、彼女は教室で飼育している熱帯魚のように、水面に口を出しながら必死に呼吸を繰り返している気分だった。


 どうしてうまくいかないのか、なぜ誰も助けてくれないのか。彼女はやがて自分の外へと原因を求め始めてしまい、その思いは日毎に加速していった。

 他の先生がその様子を見ても、見ていない振りをされるのが辛さに拍車をかけていた。


 だれしもが通る道なのかもしれない。

 もう困ったときに救いの手を差し伸べてもらえる立場ではないのかもしれない。

 これが社会の厳しさの一端なのかもしれない。


 そう考えることで自分を納得させる毎日が続いていたある日の昼休み、彼女は職員室の外から聞こえてくる声に気付いて、窓の外を見てみた。




 校庭では彼女よりもいくらか年上の神崎先生が、生徒相手にドッヂボールをして遊んでいる。

 神崎先生は、確かに人気者だった。子供たちからも名前を聞かない日はないくらいで、受け持ったクラスを上手にまわしていて、保護者からの信頼もあつかった。


 たった数年という経験の差だけで、ここまで違いが出るものだろうか。何が違うんだろう。そうやってうまくいかない自分と比べたりしながら、有り体に言えば彼女は嫉妬していた。

 

 大きな笑い声が響き渡る校庭を、複雑な心境になりながら眺めていた彼女は、自分が小学生だった頃のことを思い返していた。

 そう言えば、お昼休みは友達と校庭で遊んだりしていたはずだ。もしかすると、ここから子供達とうまくやっていけるきっかけが掴めるかもしれない。


 ずっと全力疾走を続けていたせいで、こんなことにすら目を向ける余裕がなかったと気付いたとき、あまりにも視野が狭窄となっていた自分自身に、彼女は愕然とした。


 窓の外では、相変わらず子供達が太陽の光を全身に浴びて輝いている。その様子を見ているだけで、肺がしぼられるような息苦しさを感じてしまった彼女は、思わず胸に手をやった。

 夢や希望に満ちていて、明るい未来が待っていて、何だって出来るし、何者にだってなれる。そんな若さ溢れる彼らを、彼女はじっと見つめていた。


 甲高い声が窓ガラスを震わせて、何度も何度も通り抜けてくる。そのたびに鼓膜の奥へと突き抜けていき、少し耳障りだなと彼女は思った。そしてその直後に、そんな自分の考えに驚いてしまい、はっとして周囲を見回した。


 十人くらいの先生達が、みんな思い思いに休憩時間を過ごしている。ほこりをかぶった蛍光灯が並ぶ室内の空気は、彼女のことなど無視するかのように、その人工的な光に照らされて、極めて無機質な表情を見せていた。どこか淀んでいるような気配もする。


 この目の前にある窓ガラスは、自分達と彼らを隔てる何かの境界線ではないだろうか。そう考えれば考えるほど、彼女にはそうだとしか思えなかった。そして、心の奥がひどく疼くのを感じていた。


 踏み込んでみれば、何かきっかけは掴めたかもしれない。それでもやはり、彼女はその線の前で立ち止まることしか出来なかった。時の流れの残酷さを思い知り、勇気を出すことはこれほど困難であったかと思い悩み、悔しさのあまり唇が小刻みに震えるほどだった。


 夢や希望に満ちた世界の中で、もう二度と手にすることは出来ない物が目の前に並んでいれば、僅かにでも心に嫉妬が生まれてしまうだろうと彼女は思った。そして何より、既に自分が彼らから拒絶されていて、境界の外へと追いやられていることを誰よりも痛感しているのだ。


 そんな立場にいる自分が、果たして同じ場所に踏み入って、子供達と肩を並べ笑顔でいることが出来るだろうか。そう考えてしまうと、やはりどうしても一歩を踏み出すことは出来なかった。


 彼女はその情けない考えを棚に上げると、神崎先生への嫉妬を深めながら、そういった考えに至ってしまう自分自身を愚かだと思った。あまつさえうまくやっている他人をひどく羨むなんて、自分はどれだけ醜い心をしているのだろう。


 大きくため息をついた彼女は、自身の愚かさにすっかり打ちのめされてしまい、怪物が跋扈する小学校の校舎というものは、終わりの見えない迷宮か何かではないだろうか、と感じるのだった。


 


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