オルタナティブ

秋山太郎

第1話 湿地の境界線、その定義について

「イギリスの生態学者であるテッド・ホリス博士が考案した、湿地についての面白い定義を知っている? 厳密に言えば『湿地の境界線についての定義』になるんでしょうけど」


 女がお前に語りかけている。


「湿地の境界線を知るためには、政治家や弁護士なんかを現地へ招待すればいいんだって。湿地へと車で向かった後に、彼らを突然車から降ろしてしまい、その後に出来るだけ湿地に近づいてもらうの。そうすれば境界線は簡単に分かる、という話よ」


 女はいたずらっぽく上目遣いをしながら、まぶたの上に生えた長いまつげをゆっくりと上下させ、お前をじっと眺めている。


「つまり、彼はこう言っているの」


 反応を見せないお前を無視して、女はそのまま話を続けている。


「彼らはきっと、ある地点まで到達すると足を止めてしまうだろう。それ以上進めば、磨き上げた綺麗な靴に、泥がこびり付いて汚れてしまうからだ。その場所から先に広がる地帯こそ、まさに湿地である。ってね」


 そこまで聞いても、お前は特に何の反応も示さなかった。それだというのに、女は「面白いでしょう?」と言って、十分に満足したように見える。


「でも私は、それだけじゃ少し足りないと思うの」


 そう言って微笑んでいる女を横目に見ながら、お前は何かを考えているようで、あるいは何も考えていないようだった。




 ガラスの壁に映る自分の姿を、お前は自分自身だと認識出来ないでいる。

 それなりの広さの室内には緑が生い茂り、ゆらゆらと揺れていた。どこからか空気が送り込まれているはずだが、お前はそれを認識することが出来ない。

 背後にいる肥え太った同居人の存在が、常にお前へ苛立ちを与えていた。


 ガラスの壁の向こうでは、話し終えて一息ついている身奇麗な女が、黒い革張りのソファに座っている。

 タートルネックの黒いセーターは、胸元のネックレスを美しく浮かび上がらせていたし、オフホワイトのワイドパンツは、大人の女性らしい柔らかい雰囲気を際立たせている。

 全体的にモノトーン調のコーディネートとして非常に洗練されていたが、お前はその様子を気にする素振りすら見せることがない。


 ダークブラウンで統一された木目の美しい家具類は、室内を落ち着いた雰囲気で染め上げていた。テーブルの上に置かれた透明なガラスポットの中は、琥珀色に輝く液体で満たされており、花や茶葉がはらはらと舞い踊っている。

 しかしお前というものは、そういったことにはまるで興味が無いようで、ただひたすら空腹感を覚えているらしかった。


「今日はあの人が尋ねてくる予定なんだけど、まだかなり時間があるの」


 女は背後の壁に掛けたアンティーク調の大きな時計を見ながら、そう呟いた。蔦が絡まったような洒落たデザインの長針と短針が、正午を過ぎたくらいだと告げている。


「それじゃあ時間もあるし、とある女性の話をしましょうか」


 こちらへ振り返ってそう言うと、女は再び話を始めたようだった。


 




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