死霊鬼の森

伊藤 光星

第1話 真夏の空の色

 うだるような暑い日差しの照りつける日々が続く七月下旬。梅雨明け宣言が出され、湿った空気が遠ざかり、真夏の暑い日差しが、辺りを焼いていく。


 遠くの空には大きな入道雲が浮かび、山々に囲まれた、植えたばかりの青い田園風景が広がり、舗装された道に灼熱の湯気が立ち上っている。田んぼのあぜ道には、大きな向日葵が大輪の花を咲かせて揺れている。山奥の木々の間からは蝉の鳴く声が聞こえて、夏本番を彩る。


 そんな真夏の田園風景の中を大きな国道が横切り、その脇をローカル線の線路が並走していく。その線路を辿っていくと、赤い瓦屋根の古ぼけた小さな無人駅がある。その屋根に掲げられた塗装の禿げかけた白い看板には、「真野口駅」と黒字で書いてある。


 その無人駅の改札を出て、目の前には、自動車で送迎するための小さなロータリーがあり、右には利用者用の自転車置き場がある。そして、左に曲がると、そこには舗装されていない土が剥き出しの狭い路地があり、その路地を真夏の炎天下の中、これまた似つかない恰好で歩く二人の男の姿があった。


 一人は、白いワイシャツを着て、紺色スーツを履き、黒革の靴に黒い鞄を持った大柄な男。そして、その隣に麦わら帽子をかぶり、銀縁の眼鏡をかけ、上にはアロハシャツ、下はベージュの半ズボンにサンダルをつっかけた小柄な男が並んで歩いていた。


 二人は白い扇子で扇ぎながら、真昼間の暑い風を体感しているのだ。大きな男が額に湧き出る汗をグレーのハンドタオルで拭いながら、小柄な男を振り返りながら、話しかける。


「いや~、暑いですねぇ。本当、夏本番と言った感じで、これは、都会とは違った暑さがありますねぇ」


「全くだな。まあ、何年ぶりかに、田舎に帰ってきたのは良いが、昔のような扇風機で間に合うような時代じゃなくなったな。んっ?!宅間、そのハンドタオル変えた方がいいぞ。もうびしょびしょじゃないかっ!」


そう言いつつ、小柄な男が、ハンカチで額の汗を拭う。


「そう言わんで下さいよ、貞平さん。もう、今日で二枚目なんですから・・。それにしても、ご実家は、まだなんですか?」


「全く。おまえは三枚目なのに、二枚目じゃないだろうっ!実家は、この先の商店街の近くだ。まだまだ、道のりは長いぞ」


といつもと違う口調で貞平が言ったので、宅間が驚いたように聞いた。


「いや~、貞平さん。いつもと違いますね。今日はダジャレの日なんですか?」


貞平が訝しげに眼鏡の奥から殺気を飛ばして宅間を睨む。


「そんなわけないだろうっ!いいか、今日は休暇中なんだから、普段の仕事の会話なんて、したくないだろう?ま、お前も少しは羽を伸ばしたら、どうだよ?」


宅間も大きな体を少し引き気味にしながら、遠慮がちに言った。


「まあ、そうですよね。本当は、自分もアロハシャツを着てこようかと思ったんですが、何せ自分サイズのアロハが置いてなくて・・。まあ、仕方なく、いつもの背広で来てしまいました。何か落ち着かない気はしますね」


「そうだよなぁ。まあ、仕方無いか。もう少し行くと国道に出るからな。そこの駄菓子屋で、一休みでもするか?」


「ええ、それはいいですね。そうしましょう」


 暑さで、目が死にかけていた宅間は、その目をカッと見開くと、猛然と歩き出した。それを見ながら、貞平が笑みを浮かべながら追いかけていく。


 二人は路地から続く坂道を上って、大きな国道へと出た。その国道は、片側二車線の道路で歩道まで舗装されているので、砂利道を歩いてきた二人の足の負担は少しだけ軽減される。しばらく国道に沿って歩いていくと、右手の方に小さな駄菓子屋が目に入ってきた。


 古めかしく、昔懐かしい木造建築物で、薄ボケたオレンジ色と黄色の巻き取り式の日除けが店の前に突き出している。入り口のアルミサッシの引き戸の扉の横には赤い塗装が禿げかけた郵便受け。その脇には上下開閉式のアイスクリーム用の冷凍庫が置いてある。その前には、子供用の自転車を三台並んで停まっている。


「はぁはぁ・・。やっと、着きましたね。早速、アイスクリームでも食べましょうよ」


宅間が必死で扇子を振り廻し、吹き出す汗を拭っている姿を見て、


「よしっ!そうしよう。俺の奢りだ。どれでも好きなのを食べていいぞ。但し、カップは別だぞ」


と、貞平も汗を拭いながら言う。二人はアイスの冷蔵庫前で、品定めをしている。


「むむむっ・・。カップ以外だと棒アイスしかないですね・・。うーん、まあ、この暑さなら氷がいいですね」


と宅間は小豆入りの棒アイスを選択。


「全然違うじゃねぇかっ!おまえ、氷と言えば、これだろう?」


と貞平は負けじと抹茶入り棒アイスを選択した。


「貞平さんも全然、氷アイスと違いますけどね。まあ、とりあえず、早く中に入って涼みましょうよ」


「ああ、確かにそうだな。そうしよう」


 二人は炎天下に長時間居たくないのか、そそくさと店の中へと入っていった。店の中は冷房が効いているのか、ひんやりとした空気が火照った体を徐々に冷やしていく。そして、夏の風物詩とも言える渦巻状の蚊取り線香の煙の匂いが充満していた。


 店には駄菓子の他、学用品なども取りそろえてあり、意外に几帳面に整頓されている。二人が入っていくと、ちょうど奥の方で、店番のおばちゃんと三人の少年たちが何やら話をしているのが聞こえた。と、そこへ貞平が昔からの知り合いらしく、割り込んでいく。


「ようっ!平松のおばちゃん。久しぶりだね。元気っ?これの勘定頼むわ」


 二つのアイスを見せて二百円を差し出すと、そのおばちゃんに手渡した。既に八十を越えたであろう、おばちゃんは皺くちゃになった手で二百円を握ると、分厚い眼鏡の奥にある目を凝らして、ジッと貞平を見つめた。


「ああ、なんだ。貞平さんとこのタカ坊かい?こんなに、大きくなったのかい?へぇー。あの小学生の頃から悪戯ばかりしてたタカ坊がねぇ・・」


「そんなに、悪戯ばかりしてたんですか?」


ふと話を遮って、宅間が貞平を振り返って聞いた。しかし、素知らぬ平松のおばちゃんは話を続ける。


「そりゃ、もう、悪戯と言えばタカ坊だよ。肥溜めに藁で蓋をして落とし穴を作ったり。雀の色を白色に塗って、白鳥と言ったり。猫の毛を全部刈って、これが本当の虎刈りとか。中学生になっても、女生徒のスカート捲りをして、廊下に立たされていた、タカ坊だもんねぇ。でも、頭の前が少し寂しくなったねぇ」


「いやいや、あの・・それを言うんじゃないっ!」


 貞平が口をへの字に曲げて、バツの悪い顔を作っている。その二人の様子を見て、笑いをこらえる宅間と不思議そうに聞いている少年たち。


「いや~、それにしても、平松のおばさん。俺の事、良く覚えていたね」


「はははっ・・。それは忘れられんよ。田んぼの真ん中に大きな穴を掘って、トラクターを生き埋めにしたのは、あんたぐらいだよ」


『むぐぐっ・・』


宅間と少年たちが、思わず吹き出しそうになるのを堪えるのに必死だ。


「いや・・あの・・だからさ。ま、俺の昔話は、それぐらいにしてさ。ところで、今、皆で、何を話していたんだい」


と、貞平が話を無理やり逸らそうとする。


「ああ、今かい?それがねぇ、この裏に大きな川があるんだけど・・ああ、タカ坊は知っているよね?広瀬川。その川沿いをずっと上流に行くと、氷上山の中腹に広瀬神社があるんだけど・・。そこにねぇ、最近、夜に妙なものが飛んでいたんだって」


「ええっ?なんだっ?それっ?」


貞平が聞き返すと、赤い帽子を被り、眼鏡をかけた、背の高い男の子が割り込んできた。


「あの・・それが、三日ほど前なんですが、僕たちの友達が広瀬神社に途中のところで、真っ黒な人間の形をした大きな蝙蝠が飛んでいるのを見たそうなんです」


「おおっと、君たちは氷上小学校の生徒かい?真っ黒に焼けてるねぇ」


「ええ、そうです。僕たち氷上小学校の五年生です。まあ、三人で外で遊ぶことが多いので、真っ黒ですが・・」


「おお、そうか。と言うことは、俺の後輩になるんだな。はははっ。俺も同じ氷上小だったんで懐かしいなぁ・・。おっと、失敬!脱線した。真っ黒で蝙蝠みたいな人間の形をした物だったな。それは、まるで映画の中のヒーローみたいじゃないかぁ」


全く関心の無さげな貞平に対して、


「ちなみに、それを見たのは、何時頃だったんだい?おじさん達に、詳しく聞かせてくれよ」


と、目を細めて宅間がやさしく尋ねる。


「ええっと・・夜八時ぐらいかな・・。その友達は他の友達と二人で広瀬神社で遊んでいて、遅くなっちゃったんだって。それで、急いで自転車乗って山道を下りていたら、突然、真っ黒で大きなものが、木と木の間を飛んでいたんだって」


青い帽子を被った小太りの少年がぶっきらぼうに答えた。


「なるほど、木と木の間を黒い物が横切ったのか・・。うーん・・。ムササビとかモモンガーとかそう言った小動物と見間違えたんじゃないかな?」


宅間が諭すように言うと、隣にいた黄色帽子を被った背の低い少年が、ムッとしたように話す。


「違うよっ!その友達がはっきり見たんだってっ!こんなに大きな体で、目が吊り上がっていて、口から血を流して、黒い羽根で飛んでいたんだって言ってたよ」


「夜八時だろう?どうして、山奥で、そんなにはっきり見えるんだ?」


貞平が眼鏡の奥から涼しげな眼を向けて、訝しげに尋ねる。赤い帽子の少年が話を引き継ぐ。


「その日は、満月だったんです。月明かりと自転車のライトがあるので、坂道を下りている時に、その黒い物体がはっきり見えたって言ってました」


「ふーん。月明かりと自転車のヘッドライトだけか・・。もしかして、それは本当に、お化けかもしれんなぁ」


貞平はそう言って、口をへの字に曲げて、手を前に垂らすと幽霊の真似をした。宅間が、呆れた顔をして言う。


「また、そうやって、非科学的な事を・・。小学生をからかうんじゃありませんよ」


「まあ、確かに幽霊の仕業かもしれんねぇ・・」


と、先ほどまで黙って聞いていた平松のおばちゃんが口を挟んだ。


「おいおい、そりゃぁ、おばちゃん、どういう意味だい?高校を出るまで、この町で生きてきたけど、そんな話は、聞いたことないぜ」


「そうだねぇ。おそらくタカ坊は知らないだろうねぇ。何せ、今から四十五年も前の話だからねぇ」


「それは、どんな話なんです?」


と、宅間が興味深々そうに、前に出て来た。少年たちも平松のおばちゃんの話に静かに耳を立てて聞いている。興味のない貞平を除いては。


「それがね、今から四十五年前。当時、氷上山には神隠しの伝説が残っておってねぇ。陽が暮れた後に、氷上山に登る子供は、神隠しに遭うから絶対に登ってはならんって言われていたんだよ。でも、ちょうど、今時分の暑い日の夜だったかねぇ。夜遅くまで、一人で広瀬神社で遊んでいた小学校六年の男の子が突然、行方不明になってねぇ。それは、町中が大騒ぎになったんよ」


宅間と三人の少年が息を固唾を飲んで見守っている。


「その時の事は、よう覚えているよ。私の子供も、同じ年くらいだったからね。あの時は、氷上山だけじゃなく、この町中を探したんだけど、結局、その子は見つからなかったんだよ。ところがねぇ。それから一年が過ぎて、夏の暑い日がやってきたんだけど、夜遅くに氷上山から下りてきた人が見たそうだよ。”助けて。助けて。”っていう男の子の声と、森の木と木の間を白い帽子を被った黒い影が揺らめいている姿を」


 一瞬、宅間と少年たちの背筋が冷たい氷を入れられたように震えた。ただ、貞平だけが余裕な表情を浮かべている。平松のおばさんが目を閉じて、重々しく言った。

「もしかしたら、その子の霊が、あんたらの友達に山を早く降りろって言いに来たのかもしれないね」


「そ、そ、そうかもしれないですが、ただ、ちょっと恐ろしい話ですねぇ。は、早く見つけて、成仏してもらわないと・・」


宅間と少年たちが互いに、頷きあっている。


「そうか。そんな話があったのかぁぁぁー。呪いだぁぁー!」


『ぎゃぁぁぁー!』


 突然、貞平が大声を上げながら、両腕を上げて襲うような仕草をしたので、全員が一瞬、顔を引き攣らせて凍りついた。


「ちょ、ちょっと、止めて下さいよ。もう、悪戯坊主は卒業したでしょう?」


「本当だよっ!タカ坊!もういい加減卒業しなさいっ!」


宅間と平松のおばちゃんにたしなめられ、舌を出す貞平が真顔になって言う。


「さて、そろそろ、体も冷めたし、お暇(いとま)しようか?」


「ええっ?!まだ、アイス食べてませんよ。ああっ!いつの間に食べたんですか?」


「お前が必死で、昔のおとぎ話を聞いている最中だよ。まあ、こっちは残してやったから、食べながら行けばいいだろう?」


「まあ、そうですけど・・」


「じゃあな、平松のおばちゃん。元気でな」


 貞平が店の開き戸を開けて、軽く敬礼をしながら、出ていく。


「ああ、タカ坊。じゃあね。また、いつでも寄りなさいよ」


「ああ、すみません。どうも・・、あっ、ちょっと・・」


宅間も会釈をして店を飛び出した。


「全くもうっ!早いんだから・・。それにしても、田舎って凄いなぁ。幽霊とか、蝙蝠人間なんて、そんなのがいるんですねぇ」


宅間の想像力に貞平が呆れた顔をして言う。


「おいおい、いい年した大人が、そんな話を信じてどうするんだよ。錯覚と言うものがあるんだよ、子供にはさ」


「えっ?それじゃ、彼らが嘘をついていると?」


「いやいや、そうじゃないさ。子供の頃は、好奇心が旺盛だし、想像力も豊かだろう?」


「ええ、まあ、確かに」


「つまり、夜と言う辺りが暗い状態は、誰しも少なからず不安や恐怖心を持っている。そして、夜に木の枝に引っかかった黒いゴミ袋を見ただけで、蝙蝠とか黒いお化けと錯覚したり、電柱の陰に隠れている駐車禁止の標識を殺人鬼と錯覚したりするもんだってことさ」


「なるほど」


「おばちゃんの話も、事件の一年後に、誰かが悪戯をしたとすれば、簡単に説明がつくしな」


「そんな貞平さんじゃないんだから・・」


「ああ、思い出した!宅間っ!さっきの話は内緒だぞっ!いいなっ!絶対だからなっ!」

「ええ、まあ、そうですね・・。考えておきます」


「なにっ!忘れないと、今日の夕食と泊りは無しだっ!」


貞平が宅間のシャツの襟をつかんで睨んでいる。


「ええっ?!また、そうやって人の弱みに付け込むんだから・・。まあ、田んぼに大きな穴を掘って、トラクターを落とした事以外は、忘れますよ」


「むしろ、それを忘れて欲しいんだけどなぁ・・」


貞平が宅間のシャツから手を離して、しょぼくれるような仕草をしている。


(全く・・。今日の貞平さんは完全に童心に帰ったみたいだなぁ)


「まあ、いいですよ。何も聞かなかったことにしましょう」


「そうかっ!よっしっ!それじゃ、早速出発だ」


(やれやれ・・。)


 二人は貞平の実家に向けて歩を進め始めた。真夏の強い日差しがアスファルトをジリジリと照りつける中、扇子で仰ぎながら、大小の背中が遠ざかっていく。


 だが、二人は先ほどの小学生の話を想像力の賜物と考え、聞き流した事をのちに後悔することになるのである。そう、この時、既に氷上山に潜む黒い悪魔は既に動き出していたのだ。そして、惨劇の火蓋は切って落とされる。

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