プロローグ 絶望の淵で

 パチパチと耳にひびだんの熱。

 やわらかくれるしゆあかりに、心地ここちよく鳴るかねの音。

 幸せな笑い声、しんとした雪のにおい、いろの実ととがったすい色の葉。

 まもなくおとずれるはずの、希望の朝が消えたのはいつしゆんのことだった。


 くらやみまもられて、深い深い森を走っていた。

 外出用ではない柔らかなくつの底に小枝がめりっとさるかんしよく。体勢がくずれて不安定になっても止まることは許されない。

 小さなころから、愛する人とともに慣れ親しんだこの森。今日は、いつもの心安らぐ土の匂いは感じない。さつと追い立てるのぴりぴりとしたざわめきに息ができないでいる。

 けもの道ですらもないこのれた葉と木の枝の上を、どれぐらい走ったのだろうか。

(もう、りよくが……)

 すっかり空っぽになってしまった身体からだのせいで、足がもつれて息が切れる。それでも、アレクシアの手を引く力が弱まることはなかった。

だいじようか? 王女」

「ええ」

 彼はいつも、アレクシアのことを『王女』と呼ぶ。

 もう『王女』ではなくなってから一年と少しがつ。その響きに込められた、あたたかい感情がアレクシアはとても好きだった。

 けれど今はそんなづかう声にも強がるゆうはなくて、ただうなずくしかなかった。

 終わりはもう見えている。それなのに、彼へのおもいがじやをしてどうしても命令が下せない。こんなことは、彼女の人生ではじめてだった。

(私たちはじきに追っ手につかまる。クラウスだけをのがしたくても、魔力が空になってしまったこの身体では転移ほうはもう使えない。……私が一人おとりとして残って彼らを引きつけ、クラウスをがす時間をつくる)

「……っつ」

 くちびるみしめ、決意を固めたところでをしている従──クラウスが顔をゆがめた。アレクシアは足を止めてしゃがみ込み、くしゃくしゃの魔法陣を描いた紙を取り出す。

「今、魔法で傷を治すわ!」

「だめだ。さっき、使用人たちを逃がすのに使ってもう魔力は空っぽだろう。これ以上無理をしたら命にかかわる」

「無理をしなくても、もうとっくに関わってるわよ? いいから見せて!」

「……今それを言う場面か……」

 きんぱくしていた二人の空気がいつしゆんゆるんだ。こういうところは、主従関係にありながらも幼なじみの二人である。

(今なら、私を置いて行けと命令を下せるわ)

 アレクシアはするどい視線をクラウスに向ける。

「……行くぞ」

 言葉を発するタイミングをあたえずに、彼はまたアレクシアの手を引いて走り始めた。たった今、顔を歪めていたはずなのにその名残なごりじんもない。クラウスもまた、彼なりの決意を固めた様子だった。

 二人は、このプリエゼーダ王国を治める若き女王とその従騎士である。

 城がおそわれてから、まだ一刻ほど。てつぺきだったはずの守りは内側から崩された。

 けれど、不思議と裏切りへのいかりは収まっていた。死を前にした、しんとして冷たい感情。それが揺らぐかどうかは、アレクシアにとって彼の無事だいだった。

 さっき、アレクシアはこの世界でも有数のどうである自分が持てる魔力をありったけつぎ込んで、使用人たちを安全な場所へと移した。

 自分と専属の従騎士であるクラウスだけが残り、こんな原始的な方法で逃げているのは、彼らへの追っ手をおくらせるためにほかならない。

(彼らのことは協約を結ぶ同盟国の国境まで飛ばした。だからきっと、国境をえてしまえばみな助かる)

 そのせつ

「いたぞ! こっちだ!」

 おそれていた声とともに、しようめいだんが上がった。おぞましいほどの魔力の気配が近づいてくる。

(クラウスは、私が守る)

 もう魔法は使えないことなど、本能で分かっていた。

 けれど、幼い頃から彼といつしよに学んだけんじゆつがまだ残っている。眼光鋭く一歩前に出ようとしたところで、ことさら強い力で引っ張られた。

「……アレクシア」

 アレクシアのうでを痛いほどににぎる、ずっと自分を守ってくれた無骨な手。

 かみの毛が風を切ったしゆんかんに立ちのぼった、彼のほろ苦いこうすいかおり。いつもかすかに感じていた匂いがこれまでになく強まって、やさしくて甘やかな、すべてを許された頃の思い出が胸をかすめる。

(どうして……この想いを一度も伝えなかったのかしら)

 最後の感情は、国を守ることだけを考えて生きてきたアレクシアとしてはびっくりするほどの、少女のようにじゆんすいな想いだった。

 その後のおくは、ほとんどない。

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