この世界の端を見に行こうか

takenoko3

第1話 黒の目覚め

「あぁ、千年の眠りから覚めてまた一人は寂しいわ。」


 悠久の眠りから覚めたとは思えない、潤った艶っぽい声が漏れた。

部屋の外は、薄暗い鈍灰色の世界にべったりとした黒い雨が降りしきり、仕切りに紫が走って、轟音が鳴り止まない。明滅を繰り返す部屋で、一人悲しげに下を向いた病的なまでに真白な肌の彼女は、不思議な魅力を携えた薔薇の赤い唇を、少し歪めた。長く黒い睫毛の目元に幽かな美しい翳りがある。まだ重たい瞼を徐に持ち上げ、少し間を置いて立ち上がった。それほど大きくはない寝室の窓べりに寂しそうに腰掛けて、少し埃の被った本に気にもせず肩肘をつき嵐の外を見つめる。壁にかかった、くすんだ金のランプに触れると、静かな紺色の火が点った。照らされた姿には、流れ落ちる漆黒の髪と純黒のドレスが絹白の肌にかかっている。唇に残った黒髪を退け、焦点が窓硝子に映る自分に合った。どこまでも底のない光の消えた暗い瞳と目が合った。


「あの時と何も変わらない。永遠は終わりのない孤独をくれたのでしょう?」


 無表情のまま皮肉めいた悲しみを彼女は言った。幾千年も前、終わりを恐れ、終わりがないことを望んだ。あれほど望んだ永遠は永遠の寂しさを、苦しみをもたらした。眠っている間だけが永遠の孤独を忘れさせてくれる。千年も前、終わりがないことを恐れ、終わりを望んだ。永遠の眠りにつこうと思って。


 暗い暗い黒洞洞とした目が見つめ返す。


 私は、老いることがない、死ぬことがない。生き物としての本来の意味が分からない残酷な存在。底のない暗闇へと延々と続く螺旋階段を転がり落ちる紫紺色の石。あぁ、そう、もっと昔は綺麗な紫紺の魔素色の目をしていた。永遠をゆく中で、何度問いを繰り返しただろうか、何度考えたことだろうか。答えなどでもしない問いを。同じことを、目覚めのたびに思い起こし、私が始まる。


「久遠の時に抗えない。黎明を忘れた夜。」


 私の力を全て失うことで長い長い眠りを手にすることができると私は信じた。持てる魔力を全て使い切るため生物足らざるものを作った。己の力のもとになる原罪を、臓物を捧げることで封印した。そして、冥府の眠りを煽った。


 紫が空の黒を突き刺す。窓に映った自身から目を離す。石造の部屋が寒さを取り戻す。時を舐めるようにゆっくりと目線が変わる。


「おはようございます。敬愛する我が主。我が生みの親。我が姫。お目覚めは良ろしいですか?」

「あなたが私を起こしたのでしょう?ブブ。」


 外の雷光を反射して、黒光する拳骨大ほどの紫紺色の大きな目とおよそ本来のその生き物には相応しくない大きな口を持った、蠅が目の前を飛んでいる。高速で動く羽で羽ばたいていた虫は、窓べりで止まり、深淵を覗くような深い黒の瞳と目を合わせた。黒の瞳は羽の髑髏に見える模様を見ていた。


「お一人では寂しいとおっしゃったではないですか。主、良いお茶を手に入れましたぞ。」

「それは、起きた後に、でしょう?はぐらかさないで答えてくれる?」


 目の前にいた黒い羽虫は既に消え、椅子の後ろに落ち着いた笑みを浮かべた切長の目の燕尾服の長身の男が立っていた。羽と触覚らしきものが生えてはいるが。


「主を起こしたのはこのブブめであるかという問いには、お答えしているつもりです。何故、起こしたのかとお聞きしたいようですが、私めにとって千年ぶりの主との会話なのでございます。もっとも主にとって、昨日の今日のようなことでしょうが。」


 どこから持ってきたのか、白磁に美しい金樹の装飾が施された一式のティーセットを目前に浮かべ、湯気が立ち上る紅い茶を注いだ。ソーサーに乗せ、丁寧な手つきで差し出す。


「ありがとう。」


 赤の接触。適度な温度で注がれた茶が香る。思考の落ち着きを感じる。


「我が主。我が親。我が姫。我が愛する人。そもそも眠りが千年ほどの効力しかないことはお知りになっていたはずです。私めが起こさなくともいずれは目覚めていたのです。」

「でも、あなたはわざわざ私を起こした。」

「はい。部屋を飛び回っていた醜悪な一匹の蠅は、長い時の中で主に与えられた力と知性を正しく理解し、磨くことに努めてきました。同時に長い時の中で、原罪の封印が徐々に弱まっていくことを感じていたのです。他の原罪も同様に感じていることでしょう。私めの暴食は、本能の域で主を求めます。主を食したいと。千年の期限は封印の更新のためではないのですか?でしたら、私めとの契約は永遠に果たされぬのではないですか?」


 穏やかな雰囲気はなくなり、悲の表情を隠せていないブブの顔には、焦りも感じられる。紅茶は湯気を立てず、半分を切っている。


「私の原罪のうち、暴食は実際には私の原罪足り得ていない。私の胃腸を捧げたけれど、他の原罪ほど私の罪の元にはなっていないから。更新に気づいたなら、あなたが私を食するという契約は果たされないということはわかったでしょう?代わりに私も果たされないけれど。」

「我が主。我が愛する者。我が求める者。原罪足り得ないから、唯一自由を与えられたことは分かっています。同時に、あなたの永遠の孤独の共演者になることも。」


 紫色の瞳は、黒の後ろ姿をじっと見ていた。紅茶の残り葉が、紅の底で貯まっっている。黒色の瞳は、紅の輪を転がしていた。


「ごめんなさい。千年の孤独を与えてしまって。終わりの来ない絶望を感じさせてしまって。」


 黒はどんな表情であるか分からないが、雷が止んで、どっペリとした雨だけが降り頻る外の静かな世界の微かな鈍色の光で、どこか悲しげな姿が浮かんだ。


「我が主。我が生きる意味。我が孤独の友人。真実は語られなくとも良いのです。私めはそういう存在なのです。私めは、あなたに頂いた生の意味を知り、応えねばならないのです。」


 何百年も考えた自身の考えに、千年も生きた自分の意味で、悲しみは消えた。果たされない契約に縛られていたとしても、孤独だとしても、本能が求めていたとしても。


「あなた、ブブは…。いえ、私は死を恐れ、生を恐れ、また死を恐れてしまった。もう、原罪は目覚めてしまっているのでしょう?それに、気づいたから私を起こしたのでしょう?

「御もっともでございます。主。しかし、それ以上に事態は悪いようです。ここ百年ほどは、今まで管理してきたこの石造の小屋を離れ、世界を転々としてまいりました。主がお造りになった魔物は人間と対立しています。」


 瞼を一段階落とした黒が、首をかたげてブブを見る。威圧感に気圧され、一歩下がる。


「初めの頃は、世界に突如として現れた魔物と人間は住み分けができていたようです。しかし、突然魔物が凶暴化し、人間の世界を襲うようになってしまったようです。しかも、最近は傲慢などの原罪の目覚によって、魔物の活動がさらに活発化しています。」

「…。」

「私めも気付くのが遅すぎました。ここの管理に影響が出ないだろう残り百年で見た世界なのです。」


 自身の行動が後世に残した反動が大きく、焦りと苛立ちで黒目は幽かに揺れる。同時に、人間的な感情の起伏があることにも驚く。


「私は何がしたかったのか、自分で自分が分からない。」


 私は眠り、起きても力はない。ブブ一人で何か出来ることがあるわけでもない。ブブは、情報収集に徹するしかなかっただろう。私を起こしたのは、最後の頼みの綱なのかも知れない。いつの間にか強く握っていた椅子から、力を抜いて、口を閉じた。


「紅茶をお注ぎいたします。」


 またどこから取り出したのか、白磁のティーポッドを取り出し、紅の茶を注いだ。


「今、力のない私にできることはない。でも、私自身の身勝手な行いが世界に異変を作ってしまったなら、それは違う。魔物が人間を襲うはずがない、封印はそんなに柔ではないと思う都合のいい自分が居続けながら。原罪を封じたつもりでも、永遠からなんとしても逃れたいという強欲や私なできるという驕った傲慢、、、全て私の罪だ。」


 拳は強く握られ、白肌に仄かな赤みが宿る。一人でなくなったことが、久しく感じなかった感情を思い出させたのかもしれない。自己への怒り。永遠はひっそりと影を潜めていなければならなかった。過ちに気づかないで犯す過ちは重い罪で、一人では気づかない。自身の尻拭いを果たし、ブブに報いよう。私を食べさせて、暴食の輪廻へと落ちよう。


「我が主。我が道。我が光。私めはこの生に感謝したいのです。私めはあなたを最高の状態で食したいのです。主は、原罪を受け入れ、過ちを正し、主の永遠に答えを見つけてください。まずは、世界をその目でご覧になる必要があるでしょう。私めは、どこまでもついてゆきます。」


 外は雨が上がったが、曇天が続く。しかし、次はどこへいくべきかを示すように曇天の隙間から針のような光が漏れる。


「行こう。」


 黒は立ち上がった。細部が華やかに、ささやかに作り込まれたレースの長いスカートが揺れ、後を追って黒髪が揺れる。黒の瞳に少し紫が戻り、ごく僅かだが深い黒の奥で光を放っている。瞳は、世界の奥を見ている。


「過酷な旅になるでしょう。仲間も必要になるでしょう。西に光が見えます。まずは、ウィルド王国はどうですか?風の詩が聞こえる、草原と陽樹の地。お目覚めにぴったりでしょう。現在の世界について、道中お話しいたします。」


 長身の若い見た目の紳士は、またもやどこから取り出したのか先の折曲がったツバの広い黒い帽子を、恭しく跪いて目前に捧げる。彼女は振り向いてそれを受け取り、扉の方へ歩みを進めた。帽子を深く被り、こちらを振り向く片目の紫紺の光はまたほんの少し輝きを増したように見えた。少し、ほんの少し口端が上がっていた。






 
































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