鬼の集落 4

 戦場と旅の汚れを落とした鬼は、用意されていたゆったりとした造りの衣服に腕を通していた。


 湿り気を帯びてなお尖ったままの黒髪を軽く手でかいて、脱衣所の壁に立てかけておいた大剣を持ち上げる。

 湯につかったおかげで温まった体に、冷え切った鉱石の体がかすかに白く曇った。


「バーウ、誰かに磨かれたか」


「さぁなぁ。眠っていたので誰が何をしていたかなど知らぬよ。次からは私も温泉につけるように伝えておけ。柔い布で丁寧にこすられるのも悪くはないが、持ち主のそばを離れては心細くてかなわぬ」


「俺はお前の世話を何一つする気はない」


「私がいなければお前は何一つできぬというのに、そんな態度でいいのかえ? 戦場で他の追随を許さぬほどの戦果を挙げられるのも、この世で唯一の特別であれるのも私がお前との契約に甘んじて従ってやっているからだが、そのあたりの自覚が薄いのではないか? お前の元を離れて、もっと従順で将来性の高そうな輩に乗り換えてやってもいいのだぞ?」


 そうすればお前は自由になれるな、などとのたまう大剣を黙殺した鬼は乱雑に大剣を肩にかついだ。


「お前は、俺の物だ。他の誰にも与えなどせん。ましてや、離れる自由など奪い取ってしまいだ」


「偏執的な男は女に逃げられるのが関の山よな。執着され、独占されるは美しき花の常なれど、それにふさわしき態度で私にかしずかぬならば応えてやる義理などあるはずもなし。お前はもうちっと、己の立場をわきまえた言動を」


「黙れ。魔性の怪物が。俺がお前に仕えるのではない。お前が、俺にすべてを奪われるのだ。立場をわきまえるべきはお前の方だ、バーウ」


 険悪な応酬に聞こえるが、鬼も大剣も涼しい顔をしていた。

 彼らにとってはこのやり取りはもはや飽きるほど繰り返した戯れでしかない。


 内容は違うこともあるが、その趣旨は一度も変わったことはない。

 茶番だ、と鬼は嘆息して浴室を後にした。


 視界の端で白い包帯が動いていたが、振り返ることはなかった。



 緻密な模様の織り込まれた袖を揺らしながら、少し湿り気を帯びた足音を立てて鬼は歩いていた。


 向かうのはこの屋敷に滞在する際にいつも使っている部屋。

 もはや鬼専用の寝室となったそこは、北の日当たりが悪い区画にある。


 もっといい部屋がある、というキムテの進言を退けて鬼はその部屋にこだわっていた。


「若様、お戻りになられましたか。すぐにお食事をお持ちいたします。部屋の中でゆるりとお待ちください」

「あぁ。……キムテ、ヤオハらの首尾はどうだ」


 明日の天気を聞くような口調だった。鋭い血の瞳には刃のような光が浮かんでいる。キムテはただ一言「報告は何も」とだけ答えた。


「そうか。赤子には悪いことをしたな」


 軽い音を立てて部屋の戸が閉まる。

 キムテは何も聞かなかった、という顔をして厨に最後の仕上げに入るように伝えるべく足早にそこから立ち去った。



 部屋の中央に置かれた広い机の上に三つの大皿が並べられている。


 湯気を立てているそれらには、香ばしい匂いを漂わせる鹿肉と、鮮やかな緑の山菜たち。

 山菜は焼かれたものと、茹でられたもの、生で食べられるものはそれに加えてそのままで乗せられていた。


 そして、もちもちふかふかの白い饅頭。


 素朴だが、豪勢な素材そのものの味を楽しめる料理だ。


 鬼は食前に、と出された酒を飲んでいた手を止めて並べられた大皿に目を向け、そして戸の前に整列した給仕係を見て、最後にそれをハラハラしながら見守っているキムテへと視線を動かした。


「本日の夕食は、鹿肉と山菜です! えっと、そちらの饅頭に包んでお召し上がりください!」


 食事を運んできた幼い子どもたちは、声をそろえてあらかじめ教えてもらったのだろう内容を復唱していた。


 きちんと言えたことにキャッキャとにこやかにしている幼子たち。

 それに目元を和ませていたキムテは、鬼の視線に気づいて慌てて表情を引き締めた。


 お辞儀をして部屋を出ていった子どもたちの隠しきれていないひそひそ声を聞きながら、鬼は頬杖をつく。


 部下を見る目は子どもたちを見ていた時と同様、温かい。

 普段の鋭い気配が薄れたそれに見つめられてキムテは居心地が悪そうに身じろぎをした。


「お前が子煩悩だとは思わなかったな」


「若様、子煩悩とはいささか違うと思いますが。いえ、なんでもございません。あぁして子らが笑っている姿は心が和みます。この集落にはこれから子どもたちが増えていくでしょう。ここで生まれた子らが健やかに生きていけるように、いつかこの村の外に出ていけるように力を尽くしたく思っております」


「そうか。お前は自分から苦労を背負い込むのが本当に好きだな」


「わ、若様! せっかくの食事が冷めてしまいます! どうぞお召し上がりください!」


 酒が入った影響か、やはり鬼の言葉はどこか柔らかい。

 鋭い気配を宿した垂れ目も、今は幾分か柔らかかった。


 キムテは慌てて切れ込みの入った饅頭を手に取り、裂け目に肉と山菜を詰め込んで鬼に差し出した。

 それを受け取った鬼は大人しくそれにかぶりつく。


「あぁ、貴重品まで使わせてしまったか。俺に気兼ねする必要はないと、いつも言っているのにな」


 口の中に広がる甘い脂と塩気に苦笑する。

 青の国と戦が始まってしまった以上、塩は今まで以上に貴重なものだった。


 それを惜しみなく使ったのだろう。鹿肉には塩味がちゃんとついていて、食材の甘さを引き立てている。


 口の中で気持ちいい音を立てる山菜と、しっかりとした硬さを持つ噛み応えのある肉。

 そして、それを包み込む柔らかい饅頭の淡白な味が混ざり合っている。


「やはり、単純だからこそうまさが引き立つな」とつぶやく鬼が、自分で饅頭に具材を詰め込み始めたことを確認してから、キムテも自分の分を作って食べ始めた。


「ここには今日を含めて二日ほど滞在するつもりだ。三日後、ミェコマヤ高原で決戦が始まるだろう。ここから俺の足でミェコマヤまでだいたい半日。クィハボの時同様、お前たちを連れて行くつもりはない。待機を続けろ」


「若様が半日もかける場所であれば、我らは二日かかりますな。なるほど、支度も何も間に合わぬと踏んで立ち寄られたわけですか」


「お前たちの存在を今知られるわけにはいかん。最悪作戦のすべてがばれる。向こうにどのような能力を持つ契約者がいるかわからぬ以上、切り札は最後まで伏せておくべきだろう」


「えぇ。青の軍で伝令役に瞬間移動の能力持ちが抜擢されることなど周知の事実。我らの動きどころか存在すら、掴ませるわけにはいかぬことは承知しております。しかし、若様だけを戦場に送り出すことに葛藤があることもまた、承知していただきたい。せめて恨み言の一つでもこぼさねばやっていけません」


「ならば恨み言くらいはっきりと口にしてみろ。俺はお前はおろか、この集落の誰にも恨み言を聞かされたことはない」


 やや乱暴に具材を詰めた饅頭にかぶりついた右腕の様子を肴に酒を飲み始めた鬼に、キムテは何かを言う気も失せてしまった。


 どだい、彼らが鬼に何か恨み言をぶつけることなどできはしないのだ。

 言ってみただけで、その行動の何かを否定することなどできはしない。


 真の忠臣であれば、ここで何か言えるのだろうか。キムテの頭の中に一瞬そんな世迷言が浮かんだ。


「腹もあらかたふくれた。報告を聞こうか」

「はっ!」


 出された酒の最後の一滴を飲み干した鬼は、薄れさせていた鋭さを取り戻した目でキムテを見る。


 緩んでいた帯を引き締められたような心地に襲われながら、キムテはあらかじめ考えておいた順序通りに報告を始めた。


「青の軍が行軍する渓谷の近くにあった集落の者たちは皆、山奥に避難した様子です。奴らが素直に川沿いに進んでくれたことが避難の規模を縮小させたようですね。山の中に入り込んでくる気配もなく、今のところは避難した民も落ち着いていると」


「そうか。混乱が生じていないのならそれでいい。村は破壊され、食料は盗み出されているだろうが生きていればどうとでもなる。今が夏の初めでよかったな」


「そうですな。青の軍に別動隊はなく、山狩りを始めた様子もないのでひとまず安心していいかと。次に、青の国にはなった鳥ですが、無事に青の王都『スセイ』についたようです。また、青の王都『スセイ』には魔石の契約者は見られず、兵の数もおよそ王都らしくないとのこと。このまま決行させますが、よろしいですか」


「そうか。くれぐれも油断はしないようにムロク集に影をつなげさせて伝えろ。罠の可能性もある。青の契約者が何らかの策を講じていることは賭けてもいい。目標を確保したのち、最速でシュキセに届けるように」


 キムテは部屋の調度品の影になっている床に一瞬目配せをする。人の気配が一つ消えたことに鬼は目を細めただけで、次の報告を促す。


「最後になりますが、ムロク集に新たに加わったものが三名おります。状態が悪化している者も何名か確認されており、中には光の下に出てこれぬ者も出始めております。蝋燭の火であればまだ耐えられるそうですが、日光の下にはもう出られぬかと」


「……そうか、見舞いを何か持って行け。それから、悪化した者には夜の役目でもあてがってやれ。野獣は夜行性のものが多い。うまくいけばいい獲物を捕らえてくるだろう」


「承知いたしました。しかし、若様。彼らに見舞いの品は必要ありますまい。あの一言で、我らは皆、救われるのですから」


「相も変わらずお前たちは無欲だな。報告は終わりか? ならばもう下がっていいぞ」


 きれいに盛られていた料理が消えた大皿を下げに来た幼子たちと共にキムテは部屋から退出した。


 大皿を複数人で持ち上げて、えっちらおっちらと掛け声をかけながら危なっかしく歩く子どもたちを見守る。


「わかさま、ご飯いっぱい食べてくれた! お母さんたちよろこんでくれるね!」

「うん! お肉もお野菜もおまんじゅうもいっぱいあったのに、全部なくなってるもん! 絶対に喜んでくれるよ!」

「僕もお肉食べたかったなぁ」

「だめだよ! お父さんに怒られるよ!」


 口々に楽しそうにおしゃべりをする子どもたち。

 それを咎めることもなく、キムテは厨の女中たちがなぜ幼子たちに給仕をさせたのかを考えていた。


 鬼は幼子が給仕をしたところで怒ることがないことぐらいは、ここにいる大人たちは全員知っている。

 だから幼子に給仕をさせたこと自体を攻めるつもりはない。


 しかし、あえて幼子に給仕をさせた意味を考えずにはいられない。

 意味もなく鬼のそばに自分の子どもを近づけることは考えにくかった。


 女中たちに聞くよりは子どもたちに聞いた方がいいか、とキムテはひとまず子どもたちを説き伏せて大皿を持つ代わりに、と何を言われたかを聞いてみた。


「お母さんたちが、わかさまに顔を見せてあげなさいって言ったの」

「自分からは会いに来られないだろうから、自分たちからあいさつに行きなさいって言ってました」

「今しか会えないだろうから、この機会に一度お目通りしておきなさいって」


 本当に幼子たちの顔を見せるためだけに給仕係をさせたらしい。

 本心はまた別のところにあるかもしれないが、もう詮索する気も薄れたキムテはそうか、と頷いて子どもたちと厨へと歩いて行った。

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