小説「透明な嘘」

有原野分

透明な嘘

 まさか、本当に透明になっているなんて思いもよらなかった。重たい頭をすっきりさせようと、洗面台に立って、事の異変に気がついたのだ。鏡に、私は写っていなかった。ただ、SF映画でよくあるような、服だけが浮かんでいたのだ。自分の肉眼では自分の腕や脚は見えるのに、なんとも奇妙で、狐に抓まれたのか、狸に化かされたのか、取りあえずは二日酔いの気だるさも喉の渇きもクリア―に感じなくなっていた。

 昨夜はずいぶん飲んだ。一人で飲む酒は、なかなか色んな意味で酔える。私が自分を化かしながら飲んでいると、ふいに隣から生肉臭いハイエナのような匂いが漂ってきた。ハイエナの匂いなんて嗅いだ事もないのに。

「こんばんは。ナニガシさんですよね、お久しぶりです」

 名前を呼ばれたので振り向いてみると、そこには見ず知らずの、いかにも紳士風の男が坐っていた。見覚えも記憶もないが、「お久しぶりです」と言われれば、きっと知り合いなのだろう。私が頭の中で必死に思い出そうとしながら、いや、どうも、お久しぶりですね、などとフワフワした返事をしていると、紳士風の男が、

「おや、お忘れですか? でも無理もありませんか。以前にお会いしたのは、大分昔の事でしたから」

 と言ってきたので、私のフワフワ感はどこに行っていいのか分らず、潔く諦めることにした。昔なら仕方あるまい、それに向うから声をかけてきたのだから、きっと私に好意をもっているのだろう、と都合よく私の思考はまとまった。確かに、私にも一度どこかで会ったような、そんな懐かしさもあった。男の首には、銀の十字架がぶら下がっていた。そして、さっき匂ってきた生肉の匂いは、この男からではなく、自分自身の口臭だったことに気がついた。

 話は戻るが、確かに私の肉体は透明になっていた。なんという不気味で不可解な事態にもかかわらず、私の頭は意外にも落ちついていた。夢や幻ではない事は勿論の事、原因もはっきり分っていた。昨日の紳士に言われた通りだったからだ。そうだ、昨日、私達は意気投合して色々語り明かしたんだ。紳士は、最近は暇で仕方がない、テレビもつまらないものばかりだ、と愚痴をこぼしていたな。でも、バラエティのドッキリ企画は最近一番のツボだとも言っていた。だから私は、紳士の持っていた「透明になれる薬」もどっきりだと思っていたんだ。

「実はですね、ここだけの話なのですが、私、軍の科学長――、薬を開発――、人体実験も成功し――、裏の社会――、政治家に――、研究は中断――、一般人としてのモニター――、謝礼の方も――、では、また後日伺いますから。ただし、誰かに見つかった時には、速やかに帰宅して下さいよ。まあ、何をするかはあなた次第ですけどね」

 オカルトは嫌いだが、軍とか政府とか裏社会が出て来ると、なぜか興味を魅かれてしまう。

 そうして私は、騙されなかったのだ。透明だ! 物にも触れる! しかし、肝心の継続時間をコロっと忘れてしまったのだ。しかし私は、直感的に、数十時間は大丈夫、と確信していた。根拠のない確信は、時に頭を空っぽにしてくれる。さあ! 何処に行くべきか! 

 全裸で歩くには、少々肌寒かったが、別にどうでもよかった。家の目の前で繰り返した実験で、私は街に飛び出す決意ができた。女風呂――いや、古典すぎる。やはりここは金だろう、うん、まずは金があれば、女風呂なんて自前で作れるさ――、と邪気のある童心の囁きで、私は銀行の前の交差点に立っていた。すると、信号を渡って来るある一人の女が私をチラとみて「キャー!」と悲鳴を上げてしまったのだ。何か事件かと思ったが、明らかに私を見ている。目が合っている! 

 走った、走った、家までもうダッシュ。家の前に着くと、もうすでにパトカーが止まっていた。万事休すか、と荒い息で落胆したが、ふと、パトカー以外の車も止まっていた。――救急車だ。私は不思議に思い、またこの騒動は私の事では無いんじゃなかろうかとも思い、手で前を隠しながらそっと遠目で見ていると、一人の男が運ばれていた。

 私だった。私が、運ばれていた。その時、後ろから肩を叩かれた。

「昨日はどうも。私ですよ、ええ、どうでしたか。最近、私達はどっきりにハマっていましてねえ」

 ああ、なんて透明な嘘をつく死神なんだ。もっと見えるように言ってくれよ。私の回想は、これで終わりである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小説「透明な嘘」 有原野分 @yujiarihara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ