第4話 図書館と弁当のおすそわけ

 駅まで歩き、いつもの電車に乗り込む。土曜日で遅めの時間帯だからか、普段ほど混雑してはいなかった。そのまま普段降りる駅を通り過ぎ、1駅先で降りる。


 待ち合わせ場所は地下鉄じゃなくてJRの駅だったから、地上に上がってJRの改札まで少し歩く。まだ集合時刻まで20分残っているのに、先輩は改札の近くで所在なさげに立っていた。薄手のジャケットと白いTシャツを着て、ボトムスにはスキニーパンツを履いている。先輩のズボン姿を見たのはたぶん初めてだけど、身長が高くてクールな印象の先輩には抜群に似合っていた。


「おはようございます、先輩」

「おはよう。……なんだか、『こんにちは』はともかく『おはよう』だと距離感が近すぎる気がするわね。かといって丁寧語にするのもどうかと思うし」


 釈然としなさそうな顔で、先輩がそう言った。


「そうですかね? 僕は気にしないですけど。あ、でも『ご機嫌よう』とかもいいかもしれません。先輩はなんかお嬢様っぽい雰囲気ありますし、たぶん似合いますよ」

「私は別にお嬢様ではないけれど。名家の生まれなんてこともないし」

「へえ、そうなんですか。そういえば、先輩の家庭の話って聞いたことなかったですね」

「言う機会がなかったもの。どこにでもある普通の家庭だから特筆すべきこともないし」

「先輩って一人っ子ですか? 僕は妹がいるんですけど」

「ええ、一人っ子よ。……兄か姉ならともかく、久我くんに妹がいるというのは想像しにくいわね」

「それ、よく言われます。ひどいときなんか、僕が弟だと思われたときすらありますし。雪那……えっと、妹は雪那って名前なんですけど、あいつも年齢の割に大人びてる雰囲気があって」

「だったら、間違えられるのも致し方ないでしょう。妹さんは今何年生なの?」

「中学2年生だから、2つ下ですね」


 僕はそう言って、時計を見た。もちろん、さっき見たときから時間が進んでいるわけではない。でも、このままずっと話し込むわけにもいかないだろう。


「そろそろ行きましょうか。歩きながらでも話くらいできますし」

「そうね、そうしましょうか。図書館は駅の東側にあるわ」


 先輩はそう言って歩き始めた。僕はその背中を追って、少し早足で先輩の隣に並ぶ。手が触れ合いそうなほど近いわけではない、たぶん「友達」にふさわしい距離感。それでも、初めてのときに比べれば、僕と先輩の距離は少し縮まっているような気がした。




 人でごった返す繁華街を横目に大通りを歩き、車が通れないような細い道を抜けると、目的の建物はすぐ姿を現した。さっきまで歩いていた場所とは正反対の静かなところで、数分しか歩いていないというのが信じられないくらいだ。


「学校から1駅のところに、こんなスポットがあったんですね。初めて知りました」

「私は3年生だもの。2年間も通っていれば、学校の周辺にも多少は詳しくなるものよ。このあたりは学校からでも歩けなくはないから、たまに散歩ついでに歩いていたわね」


 こうやって先輩の知っている場所を教えてもらうたび、僕が知らなかった先輩の高校生活を共有してもらっているような感覚になる。先輩が美人だとか恋愛実習の相手だとか、そんなことは関係ない。もっと先輩のことを知りたい、いろいろなものを先輩と共有したい。


 だって、「友達」なら、それは全然おかしくない、普通のことだから。



 まあ、たまに先輩を意識してしまうことが一切ないかというと、それはさすがに嘘なんだけど。






 図書館の玄関を通り、階段を上って閲覧席に向かう。席は窓に面しているが、ブラインドが降ろされていてちょうどいい明るさだった。先に歩いていた先輩がその中の1席に座ったので、僕もその右側に座る。


「とりあえず、普通に勉強すればいいんですよね……?」

「ええ、そうね。一応実習も兼ねてはいるけれど、それでテスト勉強がおろそかになっては本末転倒でしょう。私は私で勉強を進めるけれど、質問があれば好きなときに聞いてもらって構わないから」

「了解です」


 とりあえず、先輩がいるうちに理系科目を進めておきたい。数学はこの間にある程度できるようになった気がするし、まずは物理から。






「よく勘違いされがちだけれど、重力の反作用は垂直抗力ではないのよね。AがBに及ぼす力の反作用はBがAに及ぼす力で、力の釣り合いとは全く別の概念なの」

「つまり、垂直抗力は物体Aが受ける力で、重力も物体Aが受ける力ってことですか。でも、それだと、重力の反作用はどうなるんです? 存在しないってことですか?」

「もちろんそんなことはないわね。重力は物体Aが地球から受ける力なのだから、反作用は逆に地球が物体Aから受ける重力、万有引力のことになるわね」

「地球が、物体から重力を受けるんですか?」

「磁石がお互いに引かれるようなものね。地球があまりに巨大すぎて引かれているようには見えないけれど、力が働いていないわけではないの」


 まあ、全然分からなかった科目を1人でやれるはずがなく。結局、最初から先輩に教えてもらいっぱなしだった。先輩の分かりやすい説明のおかげで、1人で悪戦苦闘していたときに比べても、ずいぶんすんなり頭に入ってきている。


「あー、なんかちょっと分かった気がします」

「このあたりは詰まって当然だから、気に病むことはないわ。蒔菜まきなさんも高木くんも去年の今頃は似たようなところで詰まっていたわね、そういえば」


 御園先輩も部長も詰まったところなら、まあ仕方ないか。


「だいぶ、もやもやが晴れた気がします。やっぱり先輩って教えるのがめちゃくちゃ上手ですよね」

「そうかしら? まあ、確かに人に教える機会は多少あったから、その経験が活きているのかもしれないわね」

「それって、御園先輩とか部長のことですか?」

「ええ、そうなるわね」


 ちょうど一区切りついたから、どちらからともなく休憩に入った。1時間半くらい集中していたから、ちょうどいい頃合いだし。


「そういえば、数学は大丈夫そう?」

「あ、先輩に基礎を叩き込んでもらったおかげで、まあなんとかなりそうです。難易度が高い応用問題は怪しいですけど」

「そう。久我くんは別に頭が悪いわけではないものね。ちゃんとまともに勉強すれば理解してもらえるし、こちらとしては教えやすくて助かっているわ。もう少し手がかかるなら先生に任せるしかなかったけれど」

「そんなもんですか?」

「直接教えていない問題まで解けるようになっているのだから、胸を張っていいと思うわ」


 気分転換ついでに先輩と話しつつ、腕時計を見た。針は11時半の少し前を指している。そろそろ昼食休憩にした方がいいかもしれない。


「ところで先輩、そろそろ昼ご飯にしませんか? ちょうどいい時間だと思いますし」

「そうね、そうしましょうか」


 先輩が頷く。先輩と僕は立ち上がって、階下の休憩コーナーへ歩き始めた。







 僕と先輩が来たときには、コーナーには誰もいなかった。いくつかあるテーブル席のうち1つに座ると、先輩はテーブルの反対側に座った。僕が鞄から弁当を取り出すと、先輩が少し目を見開いたような気がした。相変わらずのポーカーフェイスだったけど、先輩といるうちに微妙な表情の揺れが分かるようになってきた気がする。


「わざわざ弁当を持ってきたの?」

「なんか、そっちの方がピクニックみたいで気分が盛り上がる気がしたので。テスト勉強ってあんまり気乗りしないですから」

「まあ、それは確かにそうかもしれないわね。保護者の人か誰かに作ってもらったの?」

「あ、この唐揚げは母さんです。それ以外のおかずは僕が作りました。まあ、作るといっても手間のかからない料理ですからね」


 弁当の蓋を開けて、先輩に中身を見せる。先輩は興味深そうに僕の弁当を眺めていた。


「これを久我くんが作ったのね……。私は料理があまり得意ではないから、弁当を作れるのは本当にすごいと思うわ」


 そう言いながら先輩が鞄から取り出したのは、サンドイッチとおにぎり2個、そしてお茶のペットボトルだった。


「え、先輩、それで足りるんですか?」

「計算した限りだと、栄養面は大丈夫だと思うけれど。朝食や夕食の分も合わせれば」

「あれですか、ダイエットとかですか? それでももうちょっと食べた方がいいと思いますけど」

「いえ、別にそういうわけではないけれど」


 さすがにちょっと心配になってきた。差し出がましいかもしれないとは思いつつ、先輩に提案してみる。


「お弁当、ちょっと分けましょうか? だいぶ多めに作ってきてるんですけど」


 先輩はしばらく逡巡していたが、やがて頷いた。


「久我くんが気にしないのなら、少しだけ……」



 余分に持ってきた割り箸と紙皿を出して、おかずとご飯を取り分ける。


「なんだか、本当にピクニックみたいね」

「せっかくですし、次はピクニックで使うような大きな弁当箱を持ってきましょうか?」

「それはさすがに悪いわよ」


 自分が作った弁当を人に食べてもらうのだから、当然反応がとても気になる。先輩の様子を窺っていると、やがて先輩はえんどう豆の卵とじを口に放り込んだ。


「美味しい……」

「それは良かったです。作った甲斐がありました」

「生きていれば良いこともあるものね」

「それはさすがに大袈裟だと思いますけど」


 さすがに大袈裟だとは思うけど、それでも褒められて悪い気はしない。これだけ喜んでもらえたのだから、作ってきてよかったと思う。








「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」


 先に食べ終えた先輩がゴミを捨てに行っている間に、ちょうど僕も食べ終えた。先輩の反応をちらちら眺めていたせいで、食べるのが僅かに遅くなってしまったらしい。


「美味しかったわ」

「ありがとうございます。まあ、素人に毛が生えた程度のレベルですけど」

「味がどうでもいいと言うつもりはないけれど、味よりもわざわざ作ってくれたという事実の方が重要じゃないかしら。手料理なんて滅多に食べない私からすると、特に」


 確かに、先輩が男子高校生の手料理を食べる機会はなさそうだ。先輩は一人っ子で兄弟もいないから、なおさら。


「今度、機会があったらまた作ってきましょうか?」

「……まあ、機会があれば、だけれど」

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