シタイ?キス:それとも;
九乃カナ
第1話 はじまり
今は夏休み。ガッコウでは、金曜日からはじまる芸祭に向けて準備が進んでいるはずだ。今年は二年生だから彫刻科の出店にしか関わっていない。沙莉は自分の担当分の仕事をすでに終えている。
今日は水曜日で久保田さんの水族館の仕事は休みなんだけど、なにか出かける用事があるといっていた。せっかくの休日なのに相手をしてもらえない。そうなると暇をもてあましてしまう。久保田さんは学生じゃないから、沙莉だけ二ヶ月以上の休みというのも考えものだ。ガッコウで芸祭の準備をブラブラ見てまわるくらいしかすることがない。
出かける気力を沸き立たせようとしつつ、どうにかして久保田さんと毎日会えないものかと思案していると、当の久保田さんからメールが届いた。用事が終わったから帰りに太田に寄ってもよいけど、だって。ただちに、楽しみに待っていると返信した。久保田さんは太田から電車で三十分の館林に住んでいる。館林は久保田さんの職場、国立水族館がある海沿いの町だ。今日どこに出かけているのか知らないけれど。
久保田さんからメールを送ってくるなんて珍しいことだ。メールひとつで気分が浮き立つ。人間は面白い。
のんびりしている場合ではない。クローゼットを全開にする。なにを着て出かけようか。悩ましいけれど、楽しい。もう秋物の服が出回っているはずだ。いいこと思いついた。近いうちに久保田さんをショッピングに付き合わせることにしよう。
久保田さんは生物学の人だ。あまり微妙なオシャレには感心してくれない。それに女の人には弱いみたいだ。コンサバ系のかっちりした感じの方が、安心感をもってもらえてよいみたい。となると、ビジネスウーマンっぽくなってしまわない程度に抑えて、ちょいフェミニンくらいのブラウスにリボンを結んで、八月の下旬にしては重たい感じのフレアスカートか。浴衣はデートの夜にカードを切ってしまったから時間をおいたほうがいいだろう。つぎの夏までお預けだ。
ブラウスにフレアスカート、髪をポニーテールにした。あまり歩かなくていいだろうと見越して、めずらしくヒールの高い靴をはいてきた。
久保田さんが改札に向かって歩いてくるのが見えた。見られていることにまだ気づいていない。デイバッグを左の肩にかけて、肩ひもを左手で握っている。目線は前の人の足元を見ている。大股で歩くから前の人に突っ込まないように気をつけているのだ。改札を通ってはじめて顔をあげた。
「久保田さんから誘ってくれるなんて、めずらしいですね」
「ああ、相内さん。オシャレしてくれたんですね。素晴らしいです」
もう、なんでそんなうれしいことを軽々といってのけてしまうのだろう、たいしたオシャレでもないのに。心にもないから?そうではない。久保田さんは普通じゃないのだ。恥ずかしいことだと思っていないだけだ。思ったことを口に出すことをためらわない。人が常識を詰めている脳のあたりにまで生物学を押し込めているのにちがいない。たぶん、こんなによろこんでいることにも気づいていない。
「お耳にいれておいたほうがいい話があるので寄ってみました」
「なんですか。耳の痛い話ですか」
「一気に警戒モードですね。学習能力が高い」
「ふん、そんなことほめてくれなくていいですよ。どこ行くんですか」
「そうですね、駅の近くで。昔スターバックスだった、いまはキッシュのおいしい普通の喫茶店なんてどうです?」
「そんなややこしい喫茶店があるんですか。普通に喫茶店でよくないですか」
「スターバックス時代もキッシュおいしかった記憶があったもので、そんな説明になりました。普通に喫茶店です」
「じゃ、行きましょうか」
手をさしだす。久保田さんが手を取ってエスコートしてくれる。こんな冗談にものってくれるのがたまらない。いつか久保田さんもたじろぐような冗談をしかけたい。
「今日は太田の警察に行って、この間の刑事さんに会ってきたんですよ」
久保田さんがコーヒーとキッシュののったトレーをテーブルに置く。
「なにかしでかしましたか。まさか女の子に悪さしたんじゃ」
「しません。こないだの挨拶です」
沙莉の向かいのイスにすわった。
「お礼参りですか。うちのが世話になったのぅと」
「そんなわけないでしょう。実は阿久津さんのオブジェ、先に警察で調べてあったんじゃないかと思って」
「えー、そしたら久保田さんの手品バレてたってことですか?あのミイラみたいな刑事さんに?」
「だって、警察ですよ?徹底して調べるわけです。鑑識の人だっています」
刑事さんの顔を思い出す。厳しそうではあったけど、頭よさそうという印象はない。
「それに、ブツから阿久津さんの指紋が検出されない。阿久津さんが亡くなったから捜査が入りましたけど、そうでなければ警察を警戒する必要ないわけです。そんな状況で指紋つかないように気をつける人なんていません。あのアトリエで見つかったら言い逃れできないんだし。というわけで、不自然なところもあったんですよ」
「で、刑事さんはなんていってたんですか」
「未来のある若者だからって。きちんとした大人が見てれば、間違いを起こすこともないだろうから目をつぶってくれたんだって。恐れいっちゃいました」
きちんとした大人は自分のことだと指さした。そんなことアピールしなくてもわかっているのに。子供なんだから。
「えー、本当かなー」
「自主的にブツを渡したから、大目にみてくれたんじゃないですかね。私にも娘がありますっていってましたよ」
「ラッキーだったってことですか」
「そう、あの刑事さんのおかげでお咎めなしってことです」
「わたしもなにか、顔をだすとかしないとですか?」
「余計なことしないほうが、刑事さんも助かるんじゃないかな。イレギュラーなことだから」
「そうですか」
「でも、やさしい大人のおかげとは思っておいたほうがいいです」
「はい」
「じゃ、耳の痛い話はこのへんでおしまい。キッシュを食べてください。おいしいですよ?」
「やった。いただきます」
キッシュは軽く温めてあった。チーズの風味が口いっぱいに広がって、ジャガイモがほろほろとほどける。ベーコンを噛みしめると塩味と旨味が加わる。コーヒーは苦みを押さえて軽い感じで、食事のお供によい。
「久保田さんはわたしを幸せにする天才ですね」
「おほめいただき、光栄です」
「金曜日は休みとってくれたんですよね?」
「なんです?それ。なにか約束しましたっけ」
奈落の底に突き落とされた。全身複雑骨折。全治半年だ。
「芸祭。芸大の学園祭初日です。土日は無理。金曜なら休めるかもって。言いましたよね」
「相内さん、言葉がかわいそうです。そんなに噛みついたら」
「かわいそうなのは、あわれな子羊のわたしです。かわいい衣装を着たわたしを見てもらいたかったし、わたしが作った衣装だって見てもらいたかったし、一緒にいろいろ見てまわりたかったのに」
芸祭では、どの出店でも店員が自前の衣装を着るのだ。屋台も自分たちでデザインし、制作する。沙莉は当日の売り子担当で、凛ちゃんの衣装を作った。
「久保田さんはわたしを地獄にたたきこむ天才でもありますね」
「そこまでですか。衣装は後日見せてもらうというわけには」
「いきません。わたしの衣装は凛ちゃんが、凛ちゃんの衣装はわたしがつくったので」
「凛ちゃんというのは、彫刻科の人ですか。ほかの人まで巻き込めませんね」
「もういいですよ。水曜しか休めない久保田さんに期待したのがバカでした」
久保田さんは苦しそうにしている。
「金子さん、九月に赤ちゃん生まれるんですよね」
「ほう。それで」
「赤ちゃん生まれたら、きっと二三日休みたいと思うんです」
「そりゃそうです」
「お願いしてみますか」
「本当ですね」
「夏休みも終わるはずだし」
「そうです。大学くらいなものです、九月も休みなんていうのは。水族館なんてすっからかんですよ、きっと」
「確定じゃありませんよ?明日頼んで明後日ですからね」
「赤ちゃん生まれたらお祝いにいきましょう。そうだ!銀のスプーンですよ。咲名ちゃんに手伝ってもらって銀のスプーンをつくります。きっとよろこびますよ。パパはペンギン担当ですか?」
「専属じゃないですけど、ペンギンも担当してます」
「決まりです。いやー、急にやる気がみなぎってきました」
「はあ、期待しすぎないでください」
「きっと大丈夫です。そんな気がします」
「おそろしい思い込み力ですよね、まえの事件のときといい」
インド人がつくるインドカレーを夕食に食べて、久保田さんとは駅で別れた。
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