第4話 自由
靴下を丸めたまま脱ぎ捨てていた。その形のまま朝になっても、夜になっても同じ。
一人暮らしの醍醐味。
母親が見たら怒り出しながら靴下をのばして洗濯機に放り込んでいるだろう。
ソファがどうしても欲しいから買ったソファベッド。ソファにする事なくベッドの形でいること、二年。
今日は、もう寝ていたい。
あの後、コンビニの制服を着た香山が私を優しいと断言して勝太を諌めた後。
勝太は私を引っ張って、痛いよと言っても引っ張って、外に出て、歩みを止めたかと思えば、私は殴られるのかと身構えるほど怒っていた。
「さっきの男、なに」
いつもはそんな目をしないのに。いつもはそんな声を出さないのに。
男って、ずるい。安穏とした声と顔つきで、私のことを好きだの可愛いだの言っていたくせに。
自分の気に入らない事があれば、こんな怖い姿で私を責める。
それで、私は自分でびっくりするくらい、怯えてしまう。
怯えた私を見て勝太は満足そうに、柔らかく私に触った。
指が耳たぶに触れて、
「俺の知らない所には行かないで」
と言った。
私はうんだかいやだか曖昧な声を出して、キスを受け止めていた。
今日は、もう寝ていたい。
窓の外は快晴。空は真っ青に色づいているし、雲もひとつない。
その代わりに少し暑かった。
キャミソールがベタつく位、寝汗をかいている。昨日はお風呂にも入らなかった。
メイクはどうにか落としたはず。
でも、メイクを落として洗顔を済ませたら、涙ばかり出た。
勝太はきっと私のことが好きなんだろうな。
そう思ったら、涙が出た。
お昼過ぎにようやく私は起き上がった。
人間はそんなに好き勝手眠れないようにできているんだな。猫見たくは行かない。
頭はぼんやりしているけれど、お腹は空いてたまらない。
シャワーを浴びて、適当に全てを洗い流した。タオルで全てを拭きあげた。
でも、ワンピースばかりのクローゼットを開いて、辟易した。
一番楽なシャツワンピースを着込んで、レギンスを履いた。
マスクをしてすっぴんを誤魔化し、ついでに帽子もかぶる。
勝太の嫌いな帽子。ラッキーストライクのロゴデザインの刺繍がされた野球帽。
いいじゃない。私、これが好き。
全身鏡なんか見ないまま、今日は外に出る。
勝太と会う約束はしていない。
連絡も、しない。通知をオフにするのは、初めてだった。
私、勝太のこと、嫌いになっちゃったのかな。でも、その前に、好きだったことってあったかな。
小さく疼く想いを押し込めて、ドアを開けた。
行く宛なく遊歩道を歩いていると、純喫茶同好会に辿り着いた。
素通りしたっていいのだけど、素通りするのは悪い気がした。
ふみ子さんがいつも通り笑って迎えてくれる。
「果歩ちゃん、今日は同好会、集まってないけど、香山が居るよ」
香山が居るよ。
香山はその言葉の通り、カウンター席で私を一瞥して会釈した。
垂れた眉の形に、安心した。
なんで、会って少ししか経っていないのに、安心するんだろう。
「コンビニで、働いてるの?」
私が訊くと、香山はアイスコーヒーの赤いストローを咥えて啜る。口から離して右手はピアスを弄りはじめた。
「うん、あそこの店長と知り合いでね。たまに、働いてる」
そっか、と答えてから、私は自分の左手薬指を触っていた。
いつだったか勝太が、恋人になってくださいと言って指輪をくれた。
それはしっかりした小さなケースに入っていて、小さな石が煌めいていたから、返事をすぐにした。
しっかりした彼氏。しっかりした愛情。しっかりしたお付き合い。
そんなものに憧れていたから、指輪をつけた。
指輪をつけたら、勝太は一年経った頃にネックレスをくれた。
ネックレスはやっぱり上品な造りで、しっかりして、いた。
しっかりした優しさ。しっかりした常識。しっかりした服。しっかりした指輪。しっかりした愛情。しっかりした日常。しっかりしたデート。しっかりした食事。
「ねえ、あれって果歩さんの、これ? 」
親指を突き出して、からかうように香山が言ったから、全てのしっかりが、崩れていきそうだった。
なんで、こんなに心が軽くなるのだろう。
「ううん。恋人」
だけど私はまだ、笑えない。笑えない恋人。
「ふうん。なんか、合わないね」
え?なにが?
「果歩さんってもっと、自由でしょう」
赤いストローに口をまたつけて、目を細めて啜っている。蝶々が花の蜜を吸うみたい。
香山の右手にも左手にもついているシルバーリング。
どれも、しっかりしていない。そんな感じだった。
いつのまにか泣いていたのは、コーヒーに酔ったのだろうか。声を上げて泣くなんて、何十年ぶりだろう。嗚咽して、涙がどんどん、あふれ落ちる。
私は、自由なのか。勝太は、檻に閉じ込めようとする。看守みたいだよ。怖いよ。嫌だよ。ここから出して欲しい。
「どうしたの、香山がなんかした? 」
ふみ子さんが慌てて駆けつける。エプロンで濡れた手を拭きながら。
香山は頬杖をついて、あーあ、泣いちゃった、といった顔で少し笑ってる。
快晴の空から日差しが、窓を透かして降り注ぐ。
私は、自由なのか。
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