第2話 友人ギャビンは女を好む

■その2 友人ギャビンは女を好む■

 

 私が5つになったばかりの、夜はまだ外套を必要とする季節だった。

あの夜、私はまだ髪の色があった父とともに見知らぬ場所に立っていた。

理由は覚えていない。

ただ、視界に入る全てが汚れていたことと、鼻を突く悪臭を覚えている。

視界一面が灰色だった。

それは、ペンのインクをそのままだったり、水で薄めてみたり・・・そんなものをぶち撒けたようだった。

足元の石畳は見る影もなく剥がれたり、欠けたりと一枚として無事なものが無い上に、むき出しの土や雑草、塵や汚物が広がり、その中に大小の動物だったモノと、それらに集る小さな虫も、そこかしこに見えていた。

等間隔に建っている家屋は全て朽ち始め、ドアや窓から逃げる途中で力尽きたであろう者や、外壁を背に座り込んでいる人々がいた。

 私は幼いながらもこの場所は『死』が溜まっていると分かった。

それが怖いと感じたのか、父の手を握ったのを覚えているが、そんな私にかけてくれた父の言葉は覚えていない。


 その光景をどのくらい見ていたのか?

今思うとそんなに長くはなかったかもしれない。

あまりの非日常に、幼い時間的感覚は麻痺していたのだろう。


 そんな世界に、不意に響いた音は覚えている。

軽い木の杖のコツコツという音と、少し高いしわがれた声。

何を歌っているかは分からなかったが、その声は一件の家から出てきた者が発していた。

灰色のローブで頭から爪先まで覆われた躰は、腰のところでくの字に折れ曲がっていた。

そして、その背格好には大きすぎるのではないかと思えた杖には大小様々な石が埋め込まれ、それを持つ手は寒さが厳しい時季の枯れ木のようだった。

それはまるで、その頃母がよく読み聞かせてくれていた物語に出てくる魔女の様で、私は目を放せずにいた。


 魔女はドアのすぐ近くにうずくまっている男の髪を鷲掴みにすると、いとも簡単に上を向かせ、空いた口に何かを入れ、話しかけていた。

話しかけていた言葉は覚えていないが、まるで歌のように聞こえたことは覚えている。


「お前は何を望む?」


歌調子のまま、魔女は私達の方を向いた。

顔は覚えていない。

ただ、あの濃淡のインクで書いた世界の中で、唯一覚えている色だった。

それは、とても濁った緑の瞳だった。





 「起きてる?

寝てるなら、瞼はしっかり閉じてなよ」


 綺麗なアーモンドの形をしたアンバーの瞳が、今見ていた夢を覗き込むように飛び込んできた。

シオン・エルマンは深酒をして意識を手放すと、覚醒する間際のおぼろげな意識に古い記憶が入り込むのが常だった。

しかし、今日は違った。

たらふく飲んだのは酒ではなく、氾濫した川の水だ。


「あの中に飛び込んで、よく死ななかったもんだ」


 濁った緑がアンバーに代わり、それもスイっと視界から外れた。

見慣れた部屋はランプの明かりで仄かに照らされ、今が何時なのか分からなかった。


「・・・飛び込み

・・・子どもは?」


 自分が意識を失う前に何をしたのか思い出したシオンは、躰を起こそうとしたが、筋肉の動きが付いてこなかった。


「無事だよ。

水は飲んでいたけれど、命に関わるような大きな怪我もなかったよ」


 程よく筋肉をつけた長身を、近衛兵のものによく似た制服に包み、腰からサーベルを下げた青年ギャビン・ノウルは、腰まで伸ばしたストレートの髪にブラシをかけながら答えた。

このアーモンド色の髪を、ギャビンは気に入っていた。


「川の水なんか飲むものじゃないよ。

美味しくないだろう?

寄生虫ぐらいは覚悟しておくんだね。

規則通り暫くはここで寝泊まりだけれど、タイミングが悪かったよ」


 女性たちが好む、整った顔をおどけて歪め、ギャビンは続けた。


「今日はリアムとアデイールが来る」

「確か、予定では二日後ではなかったか?

・・・私は丸二日、眠っていたのか?」


 それなら、この体中の倦怠感も頷けた。


「丸四日。

最近、休暇が取れなかったから、ちょうどよかったんじゃない?

二人の到着は、天候が悪くて遅れてる。

うちの村と隣町は大した被害はなかったよ。

地形に感謝だね。

 ただ、国境境のあちらの村はずいぶん痛手を負ったみたいだ。

鼠がこちらに移動してこなきゃいいんだけれど。

 ああ、子どもは一日で目を覚ましたらしいよ。

あの子、隣の国の子どもだろう?

ここで面倒を見ることは出来ないからね。

大丈夫、ちゃんと連絡をしてくれたよ。

ありがとうって、伝言と・・・」


 使っていたブラシで、ギャビンはチョイチョイとベッド脇を指した。


「これは・・・蜂蜜か?

こんな貴重なものを?」


 サイドテーブルに、小さな小さな透明の小瓶があった。

シオンは手に取り、ランプの光を当てながら瓶を傾けると、中の金色の液体がゆっくりと動いた。


「お礼だってさ。

あの子、五人姉弟の末っ子長男だったらしいよ」

「男でも女でも、命の重さには代わりない」

「そう言えるのは、この村だけだ。

このご時世、無事に成人を迎えられるのは・・・って、って、そんなフラフラした体で、何をしてるのさ?」


 立ち上がり、寝間着を脱ぎ始めたシオンに、ギャビンは呆れた顔で聞いた。


「帰宅して、花の様子をみてくる」

「いやいやいやいや、ちょっと待ちなさいよシオンちゃん。

君、ここがどんな村で、自分が何のお仕事しているか、分かっているよね?ね?」


 ギャビンはフラフラと身支度を進めるシオンの肩を掴み、思いっきりベッドに押し倒した。

 

「二人が到着するまでには戻る。

使用人たちとの接触もしない。

なにより、隣だ」

「いやいやいや、そんな話じゃないでしょうよ。

 川に入っていない俺もね、一応用心してここから出ていないわけよ。

この四日、お前に付き合って、女の子の所にも行っていないわけ。

なのに、当事者のお前が、フラフラここから出ていいわけないでしょうよ。

お前押し倒すより、女の子押し倒したいわけ。

ここ、一番大事なポイント!

 最低限の人数だけれど、ここの使用人だって同じ。

お前の邸には既に連絡済みだから、花の世話は使用人がいつものようにやってくれてるって。

分かるだろう?

 まぁ、ご飯ぐらい運んで来てやるからさ、いい子に待ってなよ」


 一気に捲し立て、シオンの体から力が抜けたのを感じて、ギャビンは肩の力を抜いた。

そして、おどけて言いながら、ギャビンは腰のサーベルを鳴らし、部屋を出ていった。

 

 その足音が聞こえなくなると、シオンは予備の私服に袖を通し、足元をふらつかせながら部屋を出た。


「シオン、それとちょっと困ったことが・・・」


 二人分の軽食をトレーに乗せ戻ってきたギャビンは、人気のない部屋を見渡して、軽くため息を付いた。


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