入れ子箱

六畳庵

入れ子箱

 平淡な黒い空に小さな白い月がこうこうと浮かぶ夜、男は文机に向かい筆を動かしていた。

 だらしなく着た浴衣に、もはや整える気のない頭髪。狭い部屋を原稿用紙の束がますます狭くしていた。

 締め切りは明日の早朝である。それまでにあと一遍書かなければならぬ。これから徐々に沈んでいく月を……もとい、今の時分までに原稿を仕上げなかった己を恨みながら、男は文字を綴る。



入れ子箱伝説


 昔むかしのことである。

 ある小さな村に、ゐよという女がおった。明るくて子供好きな女だったが、自身の赤子を失ってから、どうにも様子がおかしかった。

 ある日の昼、ふらりとゐよが外に現れた。


 ゐよ姉だ! 久しぶりに遊んでもらおう!


 初め、村の子供たちは寄っていこうとしたが、ゐよの異様な雰囲気に気づいて立ち止まった。野良仕事に忙しい大人たちも怪訝そうにゐよのことを見ている。

 前に比べてずいぶんと痩せたゐよは、俯いてふらつきながら子供たちの方へ歩いてくる。


 りん……りん……


 一歩進むごとに鈴の音がする。ゐよは、小さな鈴がたくさんついた箱を抱えていた。蓋つきの大きな箱だった。

 ……そういえば、死んだゐよの赤子は小鈴という名前だったかね。

 畑から様子を窺っている男がふと思ったとき、ゐよが箱の蓋を開け後方へ投げ捨てた。


 入れ! さあここに入れっ!


 血走った目で叫びながらゐよは、子供に掴みかからんばかりに走ってきた。悲鳴をあげて逃げる子供たち。慌てて家から畑から、その親たちがとびだしてくる。


 ゐよは村の男衆によってすぐ取り抑えられた。そして酷く暴れるので村では手に負えないと、その日中に役人に手渡された。

 小さな子供は何が何だかわからず泣き、普段彼らの世話を任されている兄、姉も優しかったゐよの変わり様に呆然とするのみであった。


 きっと箱に子供を入れて願でもかければ、小鈴ちゃんが生き返ると思ったのよ。

 自分の娘を亡くして狂ってしまったのね。可哀そうに。

 村の若い娘たちはそんな風に噂した。


 なぜゐよは〈入れ子箱〉を知っておった?

 あれはもう儂らしか知らん禁忌じゃろうて。

 老人たちは誰にも聞こえない場所で囁いた。


 その晩のことである。

 村長むらおさの息子である一太は、昼間のことが思い返されてどうにも寝付けなかった。仕方なく体を起こしてふと見れば、庭には大きな箱……ゐよ姉が持っていた箱がある。とにかく大きな箱だったので処分に困り、とりあえずはと長の家に置かれたのだ。明日どうにかすると大人たちは言っていたが……。


 たしか、ゐよ姉がみんなを追い回していた時、みんなは逃げることに精一杯で誰も箱の中身など気にしなかった。ことが落ち着いてから一太が見たときには、すでに箱の蓋は閉まっていた。

 なにぶん一太も今年七つの子供である。箱への恐怖より、その中身への好奇心が勝った。

 

 ゐよ姉は、何をしようとしてたんだろう。


 一太は庭へ出て箱の方へ寄ってみた。大きな満月のおかげで周りの物はよく見える。両手でなんとか重い蓋を開けた。背伸びして中を覗き込む。箱には何も入っていなかった。

 ……なんだ。

 拍子抜けした一太は、急に眠気を感じてあくびをする。家に戻ろうと箱の淵から手を離したとき、


 入ってくれぬのか?


 後ろから声。驚いて振り向くと、夕刻役人に連れていかれたはずのゐよがいる。今までに見たことのないくらい恐ろしい顔をして。

 一太はぞっとして後ろに下がろうとしたが箱のせいで下がれない。さらにゐよに肩を掴まれてしまって動けない。小さな肩に指が食い込む。


 い……た、い。


 一太は、なんとか言葉を口に出した。痛くて、怖くて、涙が出る。


 ふっと、指の力が弱まった。


 ゐよの手は肩からずるずると滑り、腕を弱々しく握るだけになった。 ゐよはかがんで一太と目線を合わせてくれる。そして、悲しい目で微笑みながら、疲れたという風にゆっくりと一太の頭を撫ぜた。


 一太はその仕草に含まれた感情をくみ取るには幼すぎた。

 ただ、この人は悲しい人だと感じた。


 お腹に赤ちゃんがいる間は遊べないから、生まれたらまた会ってちょうだいねえ。

 じゃあ、そのときはその子もいっしょに遊ぼうねえ。


 ずっと前、そんな会話をした。そしてそれは、実現しなかった。ゐよは狂ってしまった。生まれたばかりの子を亡くす辛さに耐えられなかった。


 一番悲しいのは、ゐよ姉なんだ。

 おれがこの人にできることはなんだろう?


 一太はくるりと振り返って、箱の縁に手をかけ、体を持ち上げる。

 驚いたゐよが手を伸ばす。手が届く前に、一太の姿は箱に消え、


 ひとりでに蓋がしまる。


 ゐよが箱へとびつく。ゴトリ、と。箱の中から音がした。どれだけゐよがもう一度開けようとしても、箱が開くことはなかった。もう箱の中からは声ひとつ、物音ひとつしない。満月が無表情に、女と箱を照らすばかりであった。


 朝になった。いなくなった一太と消えた箱、どちらも見つかることはなかった。人々はこれを、入れ子箱伝説と云う。



 ここまで書いて、男は大きく伸びをした。ずっと筆を握っていたため手が痛い。窓を見る。空高くで澄ましていた月は、地平線近くで消えそうになっていた。空の色ももう黒とは言えない。だがなんとか間に合ったのだ。原稿受け渡しの時間まであと半刻ある。

 寝るか……。

 しびれる足を伸ばして立ちあがった男の目に、異様なものが映った。

 箱。部屋の隅に、大きな箱。

 一瞬で眠気が吹き飛ぶ。いや、自分はすでに眠気に耐えられず寝ていて、ここは夢の中なのではないか……?

 散らばった原稿用紙とその束を避けつつ箱に近づく。こんなもの、部屋に置いた覚えはない。ちょうど先刻まで自分が考えていた物語に登場した箱と同じような造り、いやまったく同じものが、今、目の前にある。

「なぜ……?」

 呟いてみる。もちろん応答する者はいない。しばらく呆然としていた男は、覚悟を決めて箱の蓋に手をかけた。

 ギィ、と音をたて開く箱。

 その中には…………。



「終わりましたか、先生」

 後ろから声をかけられ、万年筆を置いた男はうざそうに返事をした。

「ああ今書けた」

 原稿を渡す。

「はい、どうも。あと、締め切りは守ってくださいといつも言ってるんですが」

「遅れたのはたったの二時間じゃないか」

「充分困ります!

ほんとにこれからは守ってくださいよ!」

 もはやお決まりになった言葉を言いながら、編集者はコオロギが鳴く中を帰っていった。玄関口で見送った男はふう……と息をつく。これで仕事は終わりだ、と思うと急に空腹を感じる。もう夜遅いが洋食店は開いているだろうか。久々にビフテキが食べたい。

 まずは着替えようと男が部屋へ戻ると、部屋の、隅に、大きな、箱、が。

 先程まで自分が書いていた小説。最後、主人公の小説家が自分の部屋で見つける箱。それが今、何故かここにある。

 おかしいのは目か、頭か?

 男は吸い寄せられるように箱の方へ寄り、蓋に両の手をかけて……。



「くわあ~!」

 大きく伸びをした私は、書いた話を上書き保存して、ワープロを閉じる。あとは見直すだけ。なんとか部誌の締め切りに間に合いそうだ。あ~、作品を書き終えたこの瞬間はほんっとにすがすがしい! 気分がハイになってきたのでキャスター付きの椅子にもたれかかってくるくると回る。

 何回か回っているうちにふと気づいた。

 高校の教科書と本とぬいぐるみで溢れた自分の部屋……その隅に、見慣れない古い大きな箱があることに。

「…………なんで」

 ループ、してない?

 主人公の部屋にある箱。

 ずっと繰り返して、繰り返して。

 〈入れ子箱〉

 それは、私が作った空想の話。

 入れ子箱。

 それは、箱の中にひとまわり小さな箱が入った箱。

 これも、誰かが作った空想の話?

 私も、誰かが書いた話の登場人物?

 入れ子箱の内側の箱の中から、外の世界を見ることは、不可能。

 私は……私は、何番目だ?

 何番目の箱だ?

 頭が、痛い。怖い。怖いのに、私の足はまっすぐに箱へと向かう。

 そういうシナリオだから。

 おそらく、私より内側の箱にいた登場人物がそうしてきたように。

 はこがちかづく。hるい、おおきnはk。わたしはsれn手wnばs……。




…………。








……………………。










 そうしてまた、誰かが物語を書き終える。

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