第34話 逝く人

 コ、コ、コ…


 喉の奥から絞り出したような音が近づいてくる。

 と同時に、ぬかるみを歩いているみたいな、びしゃっ、びしゃっという音も聞こえてきた。

 結花が手鏡を右手で構えながら、左手で仮面を頭からかぶる。


「お父さん、仮面は持っているよね」


 早口でそう聞くと、緊張した口調で伊勢崎が「ああ」と答えた。そしてお祭りで買うようなプラスチック製のキャラクターマスクをバッグから取り出して、ゴムを頭に回していく。


「里桜は準備いい?」


 結花がベッドの方を振り返ると、里桜はすでに仮面をつけていた。


「こっちは、心配しないで」


 言いながら母親にも仮面をつける。

 両親が襲われて大変なときだというのに、少しも無駄のない動きだった。長年ヒイミさまの呪いと隣り合わせで生きてきたことで、身体に染みついているのだろう。

 結花はキッと部屋の出口を振り向いて、手鏡を持つ手に力をこめた。


 コ、コ、コ…ココココ…


 ドアのすぐ外で、音がした。


 ──来るなら、来い。

 結花がゴクリとつばを飲み込んだ、そのときだった。


 ──ブチンッ


 伊勢崎のかぶったお面のゴムが切れた。


「あっ」


 病室の床に、はらりとお面が落ちる。

 その直後、部屋の空気が一変した。

 凍り付くような寒さ。

 思わず身体を震わせた瞬間、洗面台の蛇口から水が勢いよく流れ出た。


「…来るっ」


 里桜の母親が叫ぶが早いか、洗面台の水が、こんもりと山のようにふくれあがった。


 ザバァァァッ


 盛り上がった水が、バケツをひっくり返したように一気に落下する。その中にヒイミさまが立っていた。


「お父さん、仮面!」


 結花は叫んだ。しかし時すでに遅し。伊勢崎は身動きが取れない。


「ぐ…くそ…」


 ヒイミさまが、2本の腕を伊勢崎に伸ばした。

 伊勢崎の腕が、勝手に持ち上がっていく。


「ダメ…ダメよ、そんなの!」


 結花が右手の手鏡を、ぐいっとヒイミさまに向けた。


「消えて! お願い!」


 ──志緒理さんのときのように。

 しかし、結花の願いむなしく、ヒイミさまは目のない顔でケタケタ笑いながら、やはり2本の腕を伸ばし続けた。


「…どうして? どうしてよ!」

 結花はもう一度手鏡をヒイミさまに向けた。

 ところが、ヒイミさまにはなんの変化も見られない。

「うそ…やだ!」


 ――このままだと、お父さんが死んじゃう!


 パニックになりかけた結花の肩を、里桜がつかんだ。

「結花、あたしがやる」

 言うが早いか、里桜がぐいっと歩み出て手鏡をヒイミさまにかざした。

「さあ、自分で自分を呪いなさい!」

 するとどういうわけか、ヒイミさまの動きが止まった。


 ──グゲエェッ


 苦悶の声を上げて、ヒイミさまが風船のようにふくらんでいく。


「おおっ、おお…」


 伊勢崎が身体の自由を取り戻して膝をついた。


「お父さん!」


 結花が伊勢崎に駆け寄る。

 その瞬間。


 ──バチンッ


 ヒイミさまが破裂して、赤黒い液体が四散した。病室の天井や壁はもちろん、結花や里桜、伊勢崎の全身にも液体が付着する。


 鼻が曲がりそうな悪臭だった。

 結花が「うっ」と顔を背ける。

 ややあって、液体は細かい霧となって蒸発していった。と同時に、悪臭もなくなっていく。


「…消えた、のか? 呪いが」


 伊勢崎が首を押さえながら言う。


「た、たぶん」


 蒸発していく液体を見つめながら結花が答える。


「でも、どうして…」


 ──鏡なら、私も使ったのに。


「あたしじゃないとダメなのね」

 仮面を外しながら、里桜がつぶやいた。

「え?」

「きっと、ヒイミさまを消せるのは、木手良の血を持つ者だけなのよ」

「そうよ…里桜」

 里桜の母親がベッドで身体をよじる。

「伝える前に…あいつが来てしまったから、言いそびれたけれど…よく気づけたわね」

「ママ、じっとしてて」


 里桜が母親の仮面も取り去る。


「八丈島で志緒理さんを助けたときは必死で気づかなかったけど、いま、結花が鏡を使ったのを見て、もしかしてと思ったの。助けられて良かった…」

「本当に、ありがとう」

 伊勢崎が立ち上がって頭を下げる。それから床に落ちたキャラクターのお面を拾い上げて、「もっとちゃんとした仮面を用意するべきだった」とため息をついた。

「でも、これでお父さんの呪いは解けたんだよね?」

 結花が自分の仮面を外してリュックにしまう。

「ええ…」

 ベッドの上で里桜の母親がうなずく。

「あなたの呪いは解けました」

「そうか…」


 伊勢崎が嬉しいような嬉しくないような、複雑な表情を浮かべる。


「お父さん、嬉しくないの」

「いや…。おまえの呪いはまだ解けていないんだろ。それじゃあ、な」

「ああ、うん…」

 確かにそうだ。私は次に襲われるまで、いまのところ呪いを解く方法はないのだ。

 結花がリュックを持つ手に力を入れたのを見て、里桜の母親がフゥと息を吐いた。

「結花ちゃん、お願いがあるんだけど、いいかしら」

「…はい」

「里桜のこと、お願いね。この子、不器用で…気が強いから、きっと友だちになってくれるひとは少ないわ…。だから…」

「ちょっと待ってよ、ママ」


 里桜が口を挟む。


「そんな言い方しないで。まるであたしを置いてどこかへ行っちゃうみたいじゃない」

「そうですよ」


 結花も同意する。


「手術は成功したんです。元気になってください」


 すると里桜の母親は、もう一度フゥと息を吐いた。今度はさきほどよりも、深く、長い息だった。


「いいえ、それとこれとは別なの」

「別? 別って、どういうことよ、ママ?」

「──ママね、わかるの。昔から」

「わかるって…?」

「死ぬかどうか」


「え?」

「昔から、誰かが死ぬときには、そばに黒いひとが立っているのが見えていたの」

「──ちょ、ちょっとなにを言っているの?」

「聞いて。今日の晩…そのひとが、うちに来た。だから、私もパパも…死ぬ運命だとわかった。それで、あんなことになって…。でも、そこに…里桜。あなたが来た。それで…ああ、これは…まだ死ねないって思って…お願いしたの。話をする時間が欲しいって。それができたら、私も行くからって。手術が成功したのは…その時間稼ぎのため…」

「やめて、ママ」

「…手招きしている。もう時間切れね」

「なに言ってるのよ。やめてってば。そんなこと言わないで」


 里桜が首を横に振って否定する。


「そんなひと、立っていない!」

「ううん。立っているの」


 里桜の母親が、再びフゥと長い息を吐いた。


「このあいだ、リビングで言ったこと、覚えているかしら…。いまは大丈夫って…言ったでしょう。あなたたちのそばに…黒いひとがいなかったから…大丈夫だって…わかったの…」


 里桜の母親が、フゥ、フゥ、と息を吐き続ける。


「ママ、辛いの? しっかりして!」


 里桜がそう叫んだ直後、心拍を示す電子音が乱れた。

 その途端、里桜の母親が激しく咳き込み、真っ白な掛け布団に鮮血がほとばしった。


「ママ!」

 里桜が母親にすがりつく。その脇で伊勢崎がナースコールに飛びついた。

「誰か! 来てください!」

 心拍を示す電子音が、危機を伝え続ける。

「ママ、逝かないで! 一人にしないで!」

「た…おす…のよ…あれを…」

「ママ!」

「できる…のは…あなた…だけだか…ら……」


 それが、最期の言葉だった。

 里桜の母親はもう一度血を吐くと、ぐったりして動かなくなった。

 あっという間の出来事に、結花はなにも言うことができなかった。

 容態の急変について、医師たちは揃って首をかしげた。

 致命的な外傷はないはずだった。手術は成功。このまま徐々に回復していく──誰もがそう思っていたからだ。

 原因不明。

 現代医学の限界としか言いようがなかった。


(続く)

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