第32話 帰郷

 ◇ 29 ◇


「シートベルトが締まっているか、今一度ご確認ください」

 というアナウンスとともに、ジェット機のエンジンが唸りを上げる。結花は、窓際に座った里桜の横顔を見つめた。


 あれから…。


 木手良が…つまり《猿》が…母親の実家だったことを知った里桜は、瞳に宿る闇をよりいっそう濃くして、すぐさま「東京に戻ります」と低い声で宣言した。


「戻って…問い詰めます。母を…そして父を」


 その言葉は決意に満ちていて、誰も異論を挟むことが出来なかった。もちろん、異論などあるわけもなかったが。

 とはいえ夏は繁忙期らしく、飛行機のチケットを取るのも簡単ではなかった。気持ちばかりがはやって、結局東京に戻れないという状況も覚悟したが、民宿の女将さんがあちこち手を回してくれて、どうにかキャンセル待ちを2席確保できた。それで里桜と結花が戻り、森繁と志緒理は島で円筒鏡について調べ続けることになったのだ。


「結花、ごめんね」


 ジェット機の轟音に紛れて里桜がポツリと言った。あやうく聞き逃してしまいそうな、か細い声だった。


 ──まるで彼女の心細さを象徴しているよう。


 結花はなにも言わず、里桜の手をギュッと握った。

 すると里桜が痛いほど握り返してくる。


 ──どんな気分だろう。家族が元凶かもしれないなんて。しかもそれを知らないまま戦っていたなんて。


 結花は、足立という男が亡くなったニュースを見たときの、里桜の母親の笑顔──あの底知れない表情を思い返して鳥肌が立った。


「結花、覚えてる?」

 里桜が怯えた表情で結花を見る。

「東京で、素麺を茹でていたとき…ママ、言ったでしょ。『いまは大丈夫』って。あのとき、気づいていれば…」

「無理だよ。そんなの、無理だった」


 実際、無理だった。疑う理由がなにもなかったのだから。


「そう、だけど…でも……」

「里桜の気持ちはわかるよ。でも、なにか事情があったんじゃないかな」

「事情があれば、ヒイミさまを拡散してもいいっていうの? 朔太郎を殺してもいいって?」


 先輩の屈託のない笑顔が脳裏をよぎって、結花は一瞬口ごもった。


「そういうわけじゃないよ。先輩をあんな目に遭わせたのは、絶対に許せない。でも、森繁先生も言ってたじゃん。私たちが八丈島に行くとなれば自分の正体がばれるかもしれない。それでも行かせてくれた。そこには、なにか意味があるんじゃない?」

「…そうだね。ほんと…どういうつもりなんだろう。納得できる話が聞ければいいけど」


 里桜はそう言って、自分の膝の辺りを見つめた。


* * *


 羽田空港の到着ロビーを出て、エスカレーターを地下1階まで降りると、結花と里桜は京急電鉄の乗り場へと急いだ。


 急行で品川まで約20分。JRに乗り継いで渋谷まで出て、東急田園都市線に乗り換える。

 渋谷駅は、夕方の帰宅ラッシュまっただ中の時間帯ということもあり、ホームから改札にいたるまで、どこもかしこも人だらけだった。結花は激流のような人の流れに飲み込まれそうになりながら、里桜に手を引かれて、なんとか中央林間行きの急行列車に乗り込んだ。


 すし詰めという表現がぴったりなほどの混み具合。足を少し動かすのにも苦労する。もしこんなところにヒイミさまが現れたら、逃げるどころか、仮面やライター、手鏡を取り出すことすらできないだろう。


 頼むからいまは来ないで。

 そう願うと同時に、こんなふうにも思う。


 ──こんなところに、水たまりがあるわけない。


 右隣のおじさんの体重をもろに肩で受け止めながら、結花が里桜をチラッと見ると、里桜も同じことを考えていたのだろう。「そうよ」とでも言うような表情で、小さくうなずいた。


 三軒茶屋駅の改札を出て《キャロットタワー方面》と書かれた階段を上ると、西の空が赤く染まっている。

 5分ほど歩くと、横断歩道の向こうに、里桜の家のマンションが見えてきた。赤信号になり、立ち止まった結花の隣で里桜が目を細める。

「電気、点いてる」

 結花は里桜を見つめた。ごくりとつばを飲み込んで、里桜が目を閉じる。まるで祈っているかのような表情。その顔を見ていると、真相を知るのが怖くなってくる。


 ──私、ついてきてよかったんだろうか。ことがことだから、里桜を一人にしないほうがいいと思ったけど…余計なお世話だったんじゃ…。


そんな思いに気づいたのか、里桜がふと結花を見返した。

「結花」

 少し、声が震えている。

「大丈夫って言って。そうじゃないとあたし…」

「…大丈夫」

 結花が里桜の目をしっかりと見据える。

「里桜。大丈夫だから」

 言葉とは裏腹に、そんなわけはないとわかっていた。


 ──これから判明する真実は、きっと私たちの心をめちゃくちゃにする。でも…。でも。大丈夫と信じ込まなければ、里桜はきっと、この横断歩道を渡れない。


「大丈夫だから。私がついてる」

 結花が大きく、ゆっくりと、首を縦に振る。里桜は、すうっと大きく深呼吸をすると、「うん」と前方を向き直った。

 言葉というのは不思議なもので、口にした瞬間に力を持つ。

 だからこのとき、結花と里桜は「大丈夫」と口にしたことで、どんな困難にも耐えられる強さを身につけた気がした。


 けれど…。


 マンションの2階に上がり、部屋のドアを開けたとき、結花と里桜は思わずぎょっとして固まってしまった。むせるような血の臭いが、部屋の中からあふれ出てきたからだ。


「ママ! パパ!」

 里桜が靴のまま部屋の中に飛び込んでいく。結花は一瞬怖じ気づいたが、ドアの前で立っているのも余計に怖い気がして、おそるおそる里桜の後に続いた。

 まず目についたのは、廊下に散乱する手鏡の破片だった。戸棚は開け放たれ、そこかしこに血痕が走っている。


「ママ、パパ! どうしたのよ、いったい!」


 廊下の奥のリビングから里桜の声が飛んでくる。

 なにか起こったのだ。とてもよくないことが。

 リビングに近づいていくにつれ、血の臭いが濃くなっていく。

 結花は手で鼻と口を覆った。


「ママ! パパ!」


 再び里桜の声が聞こえる。

 リビングを覗きこむと、里桜の両親が大量の血を流して横たわっているのが見えた。そして二人のちょうど中間に、髪を振り乱し、半狂乱で叫んでいる里桜がいる。


 結花は、あまりのショックにめまいがして、すぐさま顔を背けた。どうして。なぜこんなことに?


「り…お…」

 そのとき、かすかな声が聞こえて、結花は再びリビングを見た。

「ママ? ママ!」

 里桜が母親に覆い被さる。

「に…」

 母親が必死になにかを言おうとしている。

「なに? なんなの、ママ!」

 か細い声だが、結花にもハッキリ聞こえた。


 ──にげて。


 逃げて?

 次の瞬間。背後に人の気配を感じた。


「誰!」

 結花が勢いよく振り返る。廊下に、仮面の男が立っていた。

「ひいっ」

 仮面の男は結花に飛びかかり、馬乗りになった。そして、赤く光るナイフを振りかぶる。


「うわああ!」

 リビングから里桜が駆けてきて、男の腕を押さえた。一瞬、男の動きが止まる。しかしすぐに里桜を振り払うと、男はもう一度ナイフを振り上げた。


 今度こそ、やられる!

 結花は覚悟して目を閉じた。

 そのときだった。


「やめろっ!」という怒声とともに、大きな音が響いた。


 ──バンッ


 びっくりした結花が、おそるおそる目を開ける。男の肩からじわりと赤黒い血がにじみ出てくるのが見えた。


「くそっ…」


 そう毒づくが早いか、男はナイフを捨てると、一目散にリビングの窓へ向かって突進した。


「待て! 動くな!」


 玄関から怒号が飛んでくる。しかし男はお構いなしに窓を開けてベランダへ出ると、飛び越えるようにして姿を消した。いったいなにが起こっているのか、結花はまったく事態を把握できなかった。


「くそっ、この臭い…! そこの人、大丈夫ですか」

「は、はい…」


 結花がぶるぶる震えながら身体を起こす。すると、すぐ後ろで息をのむ音が聞こえた。


「ゆ、結花? おまえだったのか」


 ──結花?


 名前を呼ばれて初めて、結花はその声を知っていることに気づいた。まさか、と思って背後を見る。そこに立っていたのは──


「お父さん!」


 拳銃を構えた伊勢崎警部補、その人であった。


「結花、どうしてここに」

「え、えっと里桜が…」

「いや、その話はあとでいい。ここにいなさい。いいね」


 結花がうなずくのを見ると、伊勢崎は銃口を下に向けてリビングに入った。その瞬間、足を止めて眉間にしわを寄せる。


「こりゃあ…」


 嘆くようにそう言うと、伊勢崎は拳銃をホルスターにしまい、里桜の両親の脇にしゃがみこんだ。そして二人の首元に指を添える。その腕に里桜がすがりつく。


「パパとママを助けてください…!」


 伊勢崎は里桜の真剣な瞳を真っ直ぐに見返した。


「君が里桜ちゃんだね。残念だけど…お父さんは、もう…」

「そんな…」

「でも、お母さんは、まだ息がある。すぐに救急車を呼ぶんだ」

「は、はい!」


 里桜が自宅の電話に飛びつくのを横目に見ながら、伊勢崎が母親に応急の止血処置を施していく。


「結花! タオルでも服でもなんでもいい。血を止めるものを持ってきてくれ!」

「う、うん!」

「頑張れ…。里桜ちゃんのお母さん! 諦めないで!」


 伊勢崎は里桜の母親に向かって、何度も何度も「頑張れ」と繰り返した。


「救急車、呼びました!」


 里桜が受話器を置きながら叫ぶのと、結花が両手にタオルを抱えて戻ってきたのは、ほぼ同時だった。


「よしっ、じゃあ里桜ちゃんと結花は止血を続けて! こうやって、上から傷口を圧迫するように! わかったね」


 伊勢崎は二人にお手本を見せると、すぐに立ち上がって男が飛び出ていったベランダに向かった。びょう、と風が吹いて伊勢崎の頬を撫でていく。男が飛び降りたと思われるあたりに目をこらすと、アスファルトの上に荒縄が捨てられているのが見えた。


「あらかじめ逃走経路を用意してやがったんだな…」


 ──となると、プロの犯行。結花が助かったのは奇跡みたいなものだろう。あと一歩遅ければ…間違いなく、やられていた。


 ああ。

 伊勢崎はその場にうずくまりたい気持ちを、必死にこらえた。


 (続く)

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