第17話 父娘

 ◇ 18 ◇


 真っ青なボディに太陽の光を反射させて、志緒理の車が遠ざかっていく。

 手を振って見送るうち、結花の心に、ひっそりと孤独感が忍び寄ってきた。ぶるっと震えて、小走りで玄関へ向かう。ノブに手を伸ばしたとき、ある思いが脳裏をよぎって、ふと動きを止めた。


 ──また家の中でヒイミさまに襲われたら…。


 お風呂場の残り湯はそのままにしてあったはずだ。また私の番になっていれば、ヒイミさまは、あそこから自由自在に現れるだろう。


「大丈夫よ。大丈夫。まだ、その時間じゃない」


 結花は自分自身にそう言い聞かせると、ふぅと息を吐き出してから、勢いよくドアを開けた。


「ただいま」


 あえて大きな声で言って靴を乱暴に脱ぎ捨てる。

 玄関脇の壁に縦に3つ並んだスイッチをパチパチパチと押していく。玄関、廊下、階段の天井にへばりついた薄闇が、白い蛍光灯の明かりにかき消された。


 それからスンスンと鼻を鳴らして空気の匂いを確かめる。ヒイミさまが来ているなら、あの独特の魚臭さが漂っているはず…。けれど、いまのところ異常はないようだった。


 結花はホッと胸をなで下ろすと、すぐさま浴室に向かい、残り湯を排水した。ゴボゴボとお湯が流れていく音を背にして、今度は破壊された曇りガラスの破片を拾う。


 全部拾い終わると、昼食にと母親が用意してくれたペペロンチーノがキッチンに散乱したままだったのを思い出した。


 すっかり冷えて油が固まり、見るからにギトギトのペペロンチーノは、ひどくまずそうだった。床に這いつくばるように広がった様子が目も当てられないくらい醜い。無残な様子が死を連想させる。なんとも言えない憂鬱な気分になりながら、結花はキッチンペーパーを何重にもかさねて、すべての麺と具材をかき集めていった。


 ゴミ箱にペペロンチーノを捨て終えると、結花は2階の自室に向かった。クローゼットからスポーツバッグを引っ張り出して、手当たり次第に服と下着を突っ込んでいく。何日分必要なのか、見当もつかなかったから、とにかく入れられるだけ入れた。それから1階に下りて、最低限のメイク道具と、電動歯ブラシをバッグの中に放り込む。こんもりと膨れあがったバッグを見下ろして、結花は思わずおかしくなった。


 何日か前の自分なら、東京に行くとなれば、こんなふうに適当に服を詰め込んだりはしなかっただろう。田舎者に見られないように、もっと時間をかけて吟味したはずだ。


 …まあ、見た目に気を遣っていられる状況でもないのだが。


 とにかく、これで準備は完了。あとは里桜と志緒理のふたりと合流するだけ。

 あ、でも、書き置きくらい残していかないと、さすがにまずいか。

 結花はスポーツバッグを廊下に下ろすと、電話台の抽斗ひきだしからメモ帳とボールペンを取り出そうとした。

 そのとき、スマホが震えた。

 スカートのポケットから取り出して画面を見る。里桜か志緒理からの電話だと思ったが、違った。


「もしもし、お父さん? どうしたの」


 思わずすっとんきょうな声が出てしまった。この時間に父親が電話してくるなんて珍しいことだった。いや、珍しいというより、初めてのことかもしれない。


「おう、結花か。その、なんだ。元気か」


 父親の声は、若干上ずっているように聞こえた。


「え? まぁ、元気と言えば元気だけど…いや、どうだろ」

「元気じゃないのか」

「いや、なんて言うか…そんなことを聞くために電話してきたの?」

「…ダメか?」

「ダメってことはないけど…いまちょっと急いでるんだよね。用がないならあとにしてくれると嬉しいんだけど」


 間髪いれずに父親が聞いてくる。


「急いでるって、どこか行くのか」

「うん…。東京に行ってくる」


 言いながら、メモ帳とボールペンを抽斗の中にしまった。


「東京? どうしてまた」

「話せば長いんだけど…だから、いまそれを説明している時間がないっつうか…」

「お母さんは知っているんだろうな?」

「いや、まだ話してない。というより、話す時間がないの」

「おいおい。そんなのダメだろ。家出と変わらんぞ、それは。だいたい、なんでそんなに急ぐんだ」


 父親の声に少しだけ怒気が混じっているのがわかった。


「…言っても信じないと思う」

「どういう意味だ、それは」

「そのまんまの意味。ねえ、もういい?」


 スポーツバッグを玄関まで運ぶ。


「よくない。あのな、お母さんに言ってないってことは、東京に行くのは突然思い立ったんだよな。でもおまえ、今日葬式に行ってたんじゃないのか? 野村朔太郎とかいう先輩の。葬式に行ったその日に、どうしてそういう考えになる?」


 父親の言葉に、結花は思わず「えっ」と驚いた。


「…どうして知ってるの? 私、話してないよね。お母さんに聞いた?」

「いや。そうじゃない。さっき野村くんの家に電話をしたんだ。そうしたら葬式をやってたと。おれが名乗ると、同じ名前の女子高生が弔問に来たと。聞いたら陸上部の後輩らしいと。そうなりゃ、おまえだってわかる」

「いや、そもそもなんでお父さんが先輩のお宅に電話をするの?」


 結花は玄関に腰を下ろし、髪をかき上げた。


「…死に方に不審な点があったからな」

「だけど、お父さんの管轄じゃないよね」

「野村くんは、な」

「…野村くんは?」

「あのな、結花。おまえの同級生で菊池絵美って子が、プールランドで亡くなったんだ。自分で自分の首を絞めて」


 亡くなった、という言葉に、結花の身体がビクッとこわばる。


「その少し前、浅沼奈央って子が、高速道路のパーキングエリアで、同じように亡くなってる。…知ってたか?」

「…うん」

「友だちだったのか?」

「…うん」

「おまえには、なにもないよな?」

「え?」


 ないよな、という言い方が引っかかる。


「どういう意味…?」

「急に東京に行くとか言い出すし、同級生や先輩が変な死に方をしてるから、気になってな」


 結花はなんと答えるべきかわからなくなり、沈黙した。

 父親が声を潜めて続ける。


「あんまりこういうことを言うのはよくないんだが、実はプールランドで事情聴取をしていたら、妙な証言があってな」

「…どんな?」

「白い化け物を見たっていう奴らがいたんだ。絵美ちゃんの死ぬ直前、プールの底で」

「…えっ、うそでしょ」


 結花は絶句した。

 背中にじわっと汗がにじんでいく。


「なにか知ってそうだな?」


 父親が優しく聞いてくる。

 もちろん、知っている。というよりも、渦中にいる。

 それを父親に言うべきか、結花は迷った。なにしろ常識の通用しない話だ。理解してくれるとは思えなかった。

 けれど、放っておくこともできない。


 なにも伝えないままでいれば、犠牲者が増えていくだけなのは目に見えている。

 悩んだ挙げ句、結花は父親を信じてみることにした。


「実はね、お父さん。その化け物は、ヒイミさまっていうの」

「ヒイミ…? なんだ、それは」

「見たひとを呪い殺す怨霊。絵美も、奈央も先輩も、ヒイミさまに呪われてしまったの」


 一瞬、間があった。


「…呪いだって?」

「そんなもの、ないと思うでしょ。でも、あるの。その、証言したひとたち、幻覚を見てなかった?」

「幻覚?」

「そう。ヒイミさまに呪われると、すぐに幻覚を見る」


 父親が、ううむと唸った。


「確かに、なにか変なものが見えると言っていた。もしかすると危ない薬でもやっているのかと思ったんだが…」

「違うのよ、お父さん」


 結花は目を伏せた。そのひとたちのことが不憫ふびんだった。会ったこともないひとたちだが、対処法を知らない以上、あの恐怖から逃れることはできないだろう。


「そのひとたちは、もうすぐ死ぬ。最短で1時間後。自分で自分の首を絞めて、ね」

「死ぬって、おまえ…」


 父親が電話の向こうで声を失っているのがわかった。


「──私の言うこと、信じる?」


 長い沈黙のあと、父親は低い声で答えた。


「信じるもなにも…でも、結花がふざけているわけではないのは、わかってる」

「うん」

「だけど…どうしてそんなに詳しいんだ?」

「それはね。私も死にかけたからだよ」


 電話の向こうで、ガタッと椅子から立ち上がる音がした。


「そうなの、お父さん。私も、ヒイミさまに呪われたの」

「なん、だと…」


 絞り出すような声。


「私は、なんとか助かったけど、まだ呪いは続いている。いつまた襲われるかわからないの。だから、急いで東京に行く必要があるの」

「行かせるわけないだろう! そんな話を聞いて、どこの親がみすみす行かせる」

「そう言うと思った。だから言いたくなかった。でもね、お父さん。ここにいてもなにも変わらない」

「そんなことはない。お父さんが守る」

「できないよ。相手は普通の人間じゃないんだよ」

「普通じゃないならなおさらだ。それにいま、助かったって言ったじゃないか。なにか方法があるんだろ?」

「私が知っているのは一時的な対処法なの。このままだと、いつかは呪い殺される。私を守ってたらお父さんだって危ないんだよ。でも東京に行けば、呪いを解く方法が見つかるかもしれないの。私は、そこに賭けたい。ううん、賭けなきゃいけない」


 結花が力強くそう宣言すると、父親は、大きく息を吐いた。


「…止めても無駄って感じだな」

「うん。もう決めたの」

 結花がこくりとうなずく。父親はもう一度大きく息を吐いてから、諦めたように「まったく」とこぼした。

「言い出したら聞かないな、おまえはホントに…」

「ごめん」

「もういい。けど…東京とはな。わかってるのか? 遠いんだぞ。どうやって行くつもりだ? アテなんかないだろう?」

「それがね。野村先輩の幼馴染みで、佐々木志緒理さんってひとがいるの。そのひとが通っている大学の先生なら、なにかわかるかもって。それで車を出してくれることになって」

「ほう」

「あとは同じクラスの奥山里桜って子。里桜はヒイミさまに詳しくて、私が助かったのも彼女のおかげなんだ。彼女は東京にご家族がいるから、お世話になるかもしれない」

「そうか。ひとりじゃないなら少しは安心だけど…くれぐれもみなさんに失礼のないようにな」

「わかってる」

「それから、佐々木さんと奥山さんの連絡先は、一応メールしておくこと」

「…うん」

「ほかには…そうだな。なにかしてほしいことがあったらすぐに言うこと。遠慮しなくていいから」

「…それじゃ、仮屋町」

「ん?」

「仮屋町に《猿》っていう家があるみたいなの。そのひとたちを調べてもらえない?」

「猿?」

「干支の猿。仮屋町には12の家があって、そのうちのひとつ。20年くらい前からいろいろやっているみたいなんだ」

「いろいろって?」

「誰かを呪い殺したり…とにかく危険なこと。できる?」

「もちろん、できるさ。危険は慣れているしな。そっちのほうは、任せておけ」

「うん」


 結花がスマホの時計をチラッと見る。そろそろ出なければいけない時間だった。


「じゃあ、お父さん。そろそろ行かないと」


 結花がスマホを耳から離す。


「…なにかあったら、すぐ電話しろよ。いや、なにもなくても毎日電話しろ」


 通話口から、父親の声が漏れた。

 結花は小さくうなずいて、スマホの通話口に口を近づける。


「わかった。お母さんには、お父さんからうまく伝えておいてくれる?」

「…そうするしかないだろうな。こんな話聞かせたらひっくり返る。適当に言っておくよ」

「うん。じゃあ、行くね。バイバイ」


 赤い通話オフボタンを押す。

 その途端、父親の声がなぜか愛おしくなり、結花はスマホのお尻を指でなぞった。それからそっと両手で抱え込み、誰に言うでもなくつぶやいた。


「ありがとう」


(続く)

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