第15話 志緒理

 ◇ 16 ◇


 里桜の家に到着すると、私たちは2階にある里桜の部屋に直行した。

 ひとりで帰ってきたと言っていたとおり、家の中はがらんとしていて、生活感が薄かった。廊下も居間も台所も最低限の物しか置いていない。


 部屋の中も同様だった。天井から吊り下げられた古ぼけた電灯と窓をピッタリ覆う分厚いカーテンがあるほかは、真新しい布団と小さなちゃぶ台、あとは段ボール箱が2つあるだけ。クローゼットも姿見もない。女の子の部屋とはとうてい思えない有様だ。

 彼女のご両親は、この町へ戻る娘を、どういう思いで見送ったのだろう。


「これを」


 部屋を見回す私に、里桜が紙袋を差し出した。

 覗くと、黒と白の仮面が入っている。


「さっきも言ったけど、ヒイミさまは仮面をかぶっているひとは襲わない。だから、いつも持っていて」


 里桜が志緒理さんにも紙袋を渡す。


「もともとは、うちの親のものだけど…あのふたりがここに戻ってくるとは思えないし、あげます」

「こんなもので、本当に…?」


 志緒理さんは紙袋から仮面を取り出し、手の中でもてあそんだ。


「わたしの常識なんて通用しないってわかってはいるけど…仮面をかぶれば襲われないなんて…いまいち、しっくりこなくて」

「正直言うと、あたしも理由はよくわかりません」


 里桜が弱々しい声で答える。


「でも、実際そうなんです。気づいたと思いますけど、ヒイミさまには目がありません。なのになぜか、自分のことを見た人を認識して呪ってくる。目ではない別の器官で、顔を認識しているのではないか…っていうのは、うちの親の受け売りですけど、とにかく仮面で顔を隠せば、わからなくなるみたいなんです」


 志緒理さんはあまり納得できていない様子だったが「実際そうなら仕方ないわね…」とボソッと言って、仮面を顔に当てたり外したりした。


 そのときだった。

 ──ガタン、ゴトッ


 階下から、大きな音がした。

 里桜がハッとして「来た…」とつばを飲み込む。


「ヒイミさま?」


 私の質問に里桜がうなずき、部屋のドアをロックする。


「トイレだと思う。ほかに水を張ってある場所はないから」


 志緒理さんが小さく「ひぃ」と息をのんで、震える手で仮面を顔に当てた。


「結花も」


 里桜が私にも仮面を付けるよう促す。

 それから段ボールを開けてロウソクを3つ取り出すと、手早く私と志緒理さんに渡してくる。


「火に弱いってことは伝えたわよね」

「う、うん」

「ヒイミさまに向けて持って」


 里桜がライターで順々に火をつけていこうとする。

 しかし、うまく火がつかない。


「うそでしょ、こんなときに…」


 その直後、階下からバキバキッと木の裂ける音がした。

 志緒理さんがビクッとして、身を縮こまらせる。


「…トイレのドアを破った」


 ぎし、ぎし…


 階段の板を踏む音が聞こえてきた。

 里桜が慌ててライターをこする。

 しかし火花こそ出るが、安定した火にならない。


「もうっ、もうっ!」


 仮面をしていても苛立ちが伝わってくる。

 そのとき、激しくドアのノブが動いた。


 ガチャ。ガチャガチャ


「──すぐそこにいる」


 志緒理さんが怯えた様子で言った。


「終わりよ…火がつかないんじゃ…もう」

「そんなこと言わないでください!」


 しゃにむにライターをこすりながら、里桜が叫んだ。


 ミシ、ミシ――


 ドアがきしみ、わずかに湾曲わんきょくしていく。

 ピンッ、ピンッと蝶番ちょうつがいのネジが吹き飛んだ。


「来るよっ」


 私がそう言った瞬間、ドアが内側に倒れた。

 巻き上がる粉塵ふんじんの中に、ヒイミさまのおぞましい、にんまりとした笑顔があった。

 ぷうーんと魚の腐ったような臭いとともに、喉の奥を鳴らしたような音が聞こえてくる。


 コ、コ、コ…コココ…


 ヒイミさまが、私たちの目の前に、顔を突き出した。

 ひとりひとり吟味ぎんみするように、私たちを見比べていく。

 けれど…。

 腕を持ち上げてこちらの自由を奪おうとはしない。

 確かに、仮面の効果はあるようだった。

 そのとき、ようやく里桜のライターに火がともった。


「ついた!」


 すぐさま里桜が火をヒイミさまにかざす。


「ぐえっ」


 ヒイミさまがのけぞった。

 しかし大きく振ったその腕が、里桜の肩に当たる。


「あっ」


 里桜がライターを取り落とす。

 ライターは二度三度バウンドしながら、ヒイミさまの前に転がった。


 バキッ!


 ヒイミさまがライターを思いきり踏みつける。


「そんな…」


 里桜が膝をついた。

 ロウソクに火をつけないと、ヒイミさまを消せない。

 消えないということは、ずっとこのままにらみ合いが続く…。

 無理だ。耐えられそうにない。

 いくら仮面をしていても、この緊張感をずっと保ち続けてはいられない。


「どうするの…」


 思わず、私はそう言った。

 ヒイミさまがグイッと顔を近づけ、なめ回すように見てくる。あまりの圧迫感と魚臭さに、私は顔を背けて息を止めた。


「どうしようもないわ…」


 ささやく里桜の声が聞こえる。


 ああ、このまま……。

 このまま私たちは……。

 私の心に、諦めの気持ちが満ちていった。

 そのとき不意に、志緒理さんが叫んだ。

「そっか。スマホがあった!」


 ──いきなり、なにを言っているの?


 私と里桜が驚いて振り向くと、志緒理さんはまるで別人のようにてきぱきと手を動かして、スマホの後ろのカバーを外していく。


「なにを…?」


 呆気にとられる私を見もせずに志緒理さんは、「そいつの注意を引いておいて!」

 と手を動かし続ける。


「は、はい」


 私は志緒理さんの考えがわからなかった。

 ──しかも注意を引くって…。

 いきなりそんなことを言われても…なにも方法を思い浮かばない。


「走ろう!」


 迷っている私の隣で、里桜が突然、部屋の外に向かって駆け出した。


「里桜!」


 私が声を上げると、ヒイミさまはジャンプして里桜の前に立ちふさがる。その隙に、志緒理さんがスマホの裏からバッテリーを取り外して、床に放った。


「それをどうするんですか」

「こうするの、よ!」


 志緒理さんがちゃぶ台を持ち上げる。

 そして天板の角を、思い切りバッテリーに振り下ろした。

 ビシッと音がして、バッテリーの表面に亀裂が入る。

 直後、バッテリーから火が噴き出した。


「えっ」


 驚く私を横目に、志緒理さんが素早くロウソクに火をつける。


「さあ、殺せるものなら殺してみなさい!」


 ロウソクを右手で掲げながら、志緒理さんがヒイミさまに近づいていく。

 ヒイミさまは明らかにたじろいだ様子で、一歩、二歩後退した。

 私もロウソクに火をつけ、志緒理さんに続く。いつの間にか里桜も隣にいた。

 ヒイミさまはフーッフーッと獣みたいな息を何度か漏らしてから、壁に溶けるようにしていなくなった。


「き、消えた…」


 私は膝をついて座り込んだ。


「なんとかうまくいった…」


 私の隣にへたり込みながら、志緒理さんがホッとした様子で言う。


「スマホのバッテリーはリチウムイオンだから、外から衝撃を与えると燃えちゃったりするんだよね」

「よくあの状況で、それを思い出しましたね…」

「いやぁ、ピンチになると燃えちゃうタイプで…って、まだ燃えてない?」


 私と志緒理さんが慌てて部屋を振り返る。

 バッテリーは凄まじい勢いで火を出し続けていた。


「焼けちゃう焼けちゃう」


 志緒理さんが上着を脱いで火にかぶせる。

 しかし、火の勢いは収まらない。


「なんかない? 使えるもの!」


 志緒理さんが叫ぶ。

 ヒイミさまのことを考えると水は使いたくない。

 でも、ほかに使えるものは見当たらなかった。

 いったいどうしたら…。

 頭を抱えたそのときだった。


「どいて」


 背後から白い粉塵が飛んできた。

 振り返ると、里桜が消火器のノズルを炎に向けている。

 激しい噴射が収まったときには、炎は完全に消えていた。


「しょ、消火器、あったんだ」


 志緒理さんが心底ホッとした様子で言うと、里桜は消火器を放り投げて座り込んだ。


「ありますよ。火を使わなきゃいけないってわかっているんで。あんな方法があるなんて、驚きましたけど」

「意外と知られてないけどね。ポケットとかに入れてたスマホが突然発火したりするのって、たいていは電池が傷ついたせいなんだ」

「へえ。全然知りませんでした。さすが理系のひとですね」


 私が言うと、志緒理さんはまんざらでもない様子で「えへへ」と笑った。

 その笑顔につられて、私も里桜も笑った。


「まあ、そもそも火をつける前に消し方も考えておいて欲しかったですけど」

「言えてる。めっちゃ焦げ臭い」


 恐怖から解き放たれたせいだろうか。私たちは意味もなく笑った。

 生きていることを喜び合いたかったのだ。

 それがたとえ、束の間の安息でしかないとしても。


 絵美からLINEが届いているのに気づいたのは、しばらくたってからだった。《見ちゃダメってどうして》


 あっと思った私は、すぐさま絵美に電話をかけた。

 けれど…突然音声に雑音が混じり、絵美の声が聞こえなくなった。


「とにかく水から離れるの。聞こえてる? 絵美!」


 何度もそう繰り返した。でも、いっこうに応答がない。

 たぶん、もう…きっと。

 私はギュッと目を閉じた。

 絵美の話では、奈央も死んでしまったらしい。

 いいようのない喪失感。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 …里桜の言葉を借りれば、彼女たちを殺したのも、あの仮面の男たちということになるのだろうか。

 そう思うと、私はいたたまれない気持ちになった。


 その後私たちは、ネットの掲示板やSNSに《ヒイミさまの対処法》を載せていくことにした。


 水から離れること。仮面などで顔を隠すこと。そして火を用意すること。


 思いつく限りのサイトに、手分けして投稿していった。

 先輩の動画がある以上、ヒイミさまに襲われるひとは、今後爆発的に増えるかもしれない。そのときに少しでもこの情報が役に立つのではないかと思ったのだ。


「だけど、やっかいね」


 私のスマホを覗き込みながら、志緒理さんがつぶやいた。


「水の中から来るとなると…どうしても防ぎようがないもの。だって、人間は水なしでは生きていけないんだし…」

「確かに、そうですね」


 私が同意して続ける。


「それに火っていうのも、意外と面倒ですよ。いまは喫煙者も減っていますし、ロウソクだって普通の家にはないんじゃないですか?」

「そうね、うちもないかも」

「ですよね。うちは父がたばこを吸うのでライターはあると思いますけど、どこにあるかは知りませんし」

「そういうこと、わかった上で《猿》のやつらはやっているのよ」


 里桜がスマホを素早く操作しながら言う。


「だけど、もっとも悪質なのは仮面よ。だって考えてもみて。ヒイミさまに呪われたら最後、一生仮面を持ち歩かなければいけないのよ。それがなにを意味するか…」

「…仮屋町の住人と同じになるわね」


 志緒理さんが答える。


「そうです。差別してたひとたちが、今度は差別される側になる」

「…呪われたら最後、か。死ぬか、差別か。選ぶしかない」


 里桜がふと手を止めて、ため息をつく。


「ヒイミさまの呪いが解けない限りは…ね」


 そう。

 火も仮面も、対症療法にすぎない。

 呪われている限り、いつヒイミさまが来るか怯えながら生きなければならないのだ。


「呪いを完全に解く方法、か」


 ため息しか出なかった。


「ヒイミさまが火を怖がるなら、焼き殺せたりしないのかな」


 私がそう言うと、里桜が小さく首を振る。


「どうだろう。やってみる価値はあるけど、なかなかリスキーかもね。こっちも焼け死ぬかもしれないし」


 そのとき、急になにかを思いついた様子で、志緒理さんが立ち上がった。


「じゃあさ。ダメ元で、わたしの大学の先生に相談してみない?」


 私と里桜が振り向く。


「先生、ですか?」

「うん。わたし、まだ1年だから、一般教養っていって、いろんな科目を履修しないといけないのね。その中に民俗学っていうのがあって」

「民俗学…」


 聞き慣れない学問だ。


「その先生が、心霊現象とか都市伝説とか呪い? そういうオカルト分野を研究しているひとなの。森繁先生って言うんだけど」

「その先生が、なにか知っているかも、と?」

「うん。仮屋町が呪いを生業とする町だったのなら、学問的に価値があるでしょ。なにか、伝承とかが残っていてもおかしくはないわ。あんまり期待はできないけど…なにもしないよりはマシじゃないかな」


 志緒理さんの言葉に、里桜は少し考えるそぶりを見せる。


「大学は、東京よ。里桜ちゃんはご両親がいるからいいとして、結花ちゃんは大変だと思うけど…どうかな」

「結花はどう思う?」


 里桜が顎に手を当てて私を見た。

 私は少し俯いて考える。


 ──頼みの綱は、ひどく細くて頼りない。けれど、なにもしないのは、負けに等しい。


 私は里桜と志緒理さんを交互に見て、言った。


「行きましょう」

「決まりね」


 志緒理さんがパチンと手を打つ。


「わたしはスマホのバッテリーをいくつか買い込まなきゃだし、結花ちゃんも準備があるだろうから、あとで合流しましょうか」

「どうやって行きますか? 電車だと、ひとが多すぎますよね。下手したら犠牲者が出る」

「そうね。だから車を出すわ。ちょっと遠いけど、それしかない。集合場所は、あなたたちの高校にしようか。時間は17時。いい?」


「はい」

「問題ありません」

「わたしが言うのもなんだけど、くれぐれも気をつけて」


 私たちは、力強くうなずきあった。


(続く)

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