07 方針転換
◆9
翌朝。レンリは、眠い目をこすりながら、スカーレットの自室で朝食のフレンチトーストを口に運んでいた。
一人用の作業机に二人分の椅子を無理矢理並べて座っているため、傍から見れば非常に窮屈そうだ。しかし、身動きをする度にぶつかる半身の温かさや、時折鼻孔に届く甘い髪の香りが、レンリをこの上なく幸福な気分にさせるのだった。
だからと言って、彼がそれで満足しているかと言えば、応えは否だ。朝のこの時間は、恋人として彼女と過ごすことのできる、唯一の時間と言っても過言ではないからだ。
「今日も一日営業ですか?」
「そうね。ただ、今日はあまり遠くまでは行かない予定だから、お昼は帰ってこられるかもしれないわ」
「夜は?」
「何もなければ終業までには戻るわ」
朝食を共にした時は、いつもこのような会話を交わす。
だが、彼女の言葉通りになることの方が少ない。昼は大抵帰ってこないし、夜遅くまで帰らない日もざらだ。早く帰ったかと思えば、食事を疎かにして部屋に籠ったり、残業中のセレンと打ち合わせをしたりと、その動きはとにかく読めない。
その時、少し離れたところで耳慣れた電子音が鳴り響いた。
「ごめんね」
レンリが後ろに下げた椅子の隙間から、華奢な体をするりと滑らせると、寝室の方へと姿を消した。そのままの姿勢で待っていると、すぐに機械を耳に当てた彼女が戻ってくる。
「お世話になっております。こちら、オリエンス商会の……はい。はい。当社にですか? ええ、それはもちろん、構いませんけれど」
笑顔の裏に何かの感情を押し隠したような声色だった。こうして、また厄介事が自分たちに降り掛かる。それは、予感や直感などではなく、強い説得力を持った核心であった。
「ねえレンリ。ちょっと残念なお知らせがあるんだけど、聞く?」
「聞きたくありません」
「妖精食い事件の調査が我が社に一任されました」
「はあ? なぜ、今更。自警団が匙を投げたとでも言うんですか?」
「深刻な緊急事態の発生につき、自警団がこの件から下りることになったそうです」
「深刻な緊急事態? そんなもの聞いたことありませんけど。ずいぶん物騒な話じゃないですか」
「魔法教会側も、その件に優先的に人員を割かなければならないから、他に回せる人もなし。とのことです」
「自警団と魔法教会の人員を総動員しなければいけないような事態? 前代未聞ですよね。それで、一応聞きますけど、受けたんですか?」
「もちろん。助け合いの精神よ。頼られて悪い気はしないじゃない」
「助け合いだなんて、思ってもいないことを。どうせやるのは僕等なんでしょう?」
「ご名答」
「はあ」
レンリが本日初の溜息をついた時、控えめなノックの音が二度、室内に木霊した。レンリは素早く立ち上がり、座っていた椅子を壁際に片付ける。
「スカーレット、レンリ、おはようさん。朝からすまないな」
入ってきたのは、すでにスーツに着替えているセレンだった。彼は、しばしばこうして朝食の最中に訪ねてくる。その度にレンリと鉢合わせているのだが、そのことについて詮索をしてきたことは一度もないのだった。
「おはようございます」
「おはよう、セレン。どうしたの?」
「スカーレット、君にお客様だよ」
「こんな朝早くに誰かしら? 約束はしていなかったと思うんだけど」
怪訝な顔で立ち上がり、据え付けられた鏡の前に向かうスカーレット。客人に察しのついているレンリは、内心で嘆息しつつデスクの上を片付け始めた。
束の間の平穏は、こうして終わりを告げたのである。
「勇者殿! やはりあなた方しかおりません!」
肩を怒らせたウィルトンの第一声が、これであった。
「自警団は何の力にもなってくれませんでした。奴等には、初めから我等市民の暮らしを守ろうという気などなかったのです!」
この数日でさらに心痛を極めたらしい男は、憤慨と悲嘆と落胆とをごちゃ混ぜにしたような、悲痛な面持ちであった。事情を知る者として同席を許可されたレンリは、同情半分諦め半分と言った心地で成り行きを見守っている。
「ええ、存じております。連絡は受けました。魔法教会からの命により、本件は、我が社で担当させていただくことになりました。早急に解決できるよう尽力いたしますので、何卒よろしくお願いいたします」
「おお! そう言ってくださると思っていました。やはりあなたは勇者殿だ! 市民を救う正義のヒーローだ! 勇者殿のお力をお借りできるのなら、エイミーガーデンの未来も明るい」
「あなた方のお力になれるよう、微力ながら、誠心誠意尽力いたします」
意思の強そうなサファイアの瞳が、目前の男を真っすぐに見据える。根拠のない希望を揺るぎない確信に替えてしまう、力強くもどこか危うさを秘めた光。
また一つ、彼女の背負う者の重さが増えた。所詮は非力で無責任な願望だと言うのに。
「それで、犯人の処遇ですが。風や氷でざっくり切っても、炎や雷でこんがり焼いても構いませんが、形だけはちゃんと残しておいてくださいよ」
「なぜです?」
我が意を得たりと態度を大きくする男に、レンリは苛立ちの滲んだ問いを投げかける。
「エイミーガーデンが再建した暁には、当園の可愛い可愛い妖精たちを蹂躙してくれた極悪非道な不届き者として、特設会場を設けて展示するのですよ。脅威を倒したあなた方の雄姿とともにね。あとは、予算を設けて世界中に宣伝すれば、客の入りも上々でしょう」
つい先刻まではしおらしくしていたと思えば、希望を見出した途端にこの変貌ぶりである。その立ち直りの速さこそが、経営者には必要な素養なのかもしれないが。とは言え、レンリは、彼の企てを二つ返事で了承するわけにはいかない。
「あのう、そう言うのはちょっと、やめていただきたいんですが」
「なーに、大衆が喜ぶよう改良を加えさせていただきますのでね。真に迫った文章と、それらしいイラストで現実感を出してね。あなた方のことだとは、誰にも分かりやしませんさ」
高を括って大口を叩くウィルトンに、中級魔法の一つも打ち込みたい気分になる。そのような欺瞞でごまかせるほど、世間の目は甘くはないと、レンリは何度も痛感させられているのだ。
「そういうことだから、レンリくん。この案件の調査、お願いね」
意気揚々と帰っていくウィルトンを見送り、自動扉が閉まった瞬間に、スカーレットは隣に立つ社員の肩をぽんと叩いた。
「くると思いましたよ」
俯き加減で応じるレンリは、しかし、すでに事件のあらましを脳内に展開し始めていた。
「頼りにしてるわよ。真実を見抜くあなたの目を」
「ご期待に沿えるかどうかは分かりませんよ」
「もちろんそれでいいのよ。そんなこと、誰にだって分からないんだから。そうでしょ?」
その口元に浮かぶのは、純然たる笑み。降り掛かる重圧に動じない彼女は、まさに勇者と呼ぶに相応しい。
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