06 害虫、増殖中
◆8
一時的な睡眠から目覚めた蜘蛛の動きは素早かった。気が付いた時には、どこへともなく姿を晦ましていたのである。
この時、周囲の誰もが、顔を蒼白にして倒れた鋼鉄の白百合に気を取られており、蜘蛛が逃げた方角すら分からない有様であった。
「私、あまり虫が得意じゃないの」。確かにスカーレットは、ことあるごとにそう言っていた。
しかし、社内外で害虫に出くわした時も、魔竜討伐に際して昆虫型の脅威と相対した時も、彼女は決して取り乱すことなく、淡々と処理を実行していたのだ。少なくとも、人の感情を読むことを得意とするレンリの目にさえ、表情の変化は一切読み取れなかったと言うのに。
しかし、そこはやはり勇者ともて囃される才女である。脅威が逃げたと騒ぎになるやすっくと立ち上がり、棒立ちになっている人間たちに的確な指示を飛ばしていった。
周囲の状況の確認、怪我人の手当、自警団への通報。まさしく、見事な切り替えの速さ。気迫に満ちたその様は、つい先刻激しく動揺する姿を公然で披露した事実を、人々の記憶から綺麗さっぱり消し去った。
その日からだ。街の至るところで小さな蜘蛛が目撃されるようになったのは。
体の色や大きさに多少の差異はあれど、皆一様に街角や建物内を徘徊し、時には隊列を組んでどこかしらを目指して移動している。大抵の社員は、驚いたり呆れたりする程度で、目障りではあっても無害な彼等を無下にするようなことはしなかった。
だが、中には、出くわす者全てを物言わぬ骸に替えてしまう者もいる。
「またなの?」
辟易した様子のシャルネの声。彼女の足元には、凍りついたままの小蜘蛛が無造作に転がっていた。シャルナがほうきと塵取りを持ってやってくると、小さな悲鳴を上げながら、
オフィスの隅に置かれた大きなゴミ箱の中には、息を吹き返すことのない蜘蛛たちが、僅かずつ熱を帯びながら山となって存在していた。社長がオフィスに戻ってくる度に、その数は増えていく。
「お姉ちゃん、また!」
「もう! 全然仕事にならないじゃなーい!」
「私、もう嫌ー」
閉口する双子の横で、レンリが本をデスクに叩きつける。いつの間に登ってきたのか、デスクの端を歩いていた蜘蛛が足元に落下していった。
「無害とは言っても、これだけちょろちょろされると迷惑ですね。一カ所に集めてから生き埋めにしたら静かになりますかね」
「レンリさん」
「あんたって、たまに結構物騒なこと言うわよね。できるもんならやってほしいぐらいだけど」
「おいおい、どうにかならねえのかよ?」
「こっちもだ。今日だけでもう10匹は外に出したぞ」
「私の資料室に蜘蛛の巣を作ろうなんて、いい度胸」
「いやー、大量大量! でも、錬金中に背中に登ってくるのはやめてほしいよなあ。また壁を壊しちゃったら、今度こそボスに追い出されるかもしれないんだからさあ」
キッチンや錬金室、資料室から閉口した様子の社員たちが出てくる。誰も彼も、仕事に支障を来し始めている。
オリエンス商会は、宛ら蜘蛛の楽園と化していた。
「もう、ほんとにどうにかならないわけ?」
「さすがに数が多すぎますよ」
「このままでは、地獄より出でし8本足の使者に全てを支配されてしまうぞ。臆するでない! 守るのだ、我等がアルカディアを!」
「ガスパー、あんたちょっと黙っててくれる?」
「はい」
「蜘蛛の唐揚げでも作ってみっか?」
「殺虫ミストと言うのがある」
非常に高い背丈に隆々とした体躯、金髪赤目のコック、ガルオン・ロエール。そして、比較的細身な体系と、それに不釣り合いな豊かな胸部を持つ機械技師の女性、アンナリーゼ・シャーリット。
「蜘蛛なんて食べたがる社員がどこにいるんですか。それより、アンナリーゼさん。その殺虫ミスト、買いましょう。経費で落ちますよね?」
「そうね。背に腹は代えられないわよ」
レンリが興味を示すと、普段は金銭管理にシビアな会計士のシャルネが二つ返事で了承する。藁にも縋る思いが、社員全体の中に流れていた。
「どこで買えるの? アンナちゃん?」
「グリンフォードにある会社の通信販売。今日ミミアで注文すれば、明日には届くはず」
「それじゃあ、今日だけ我慢すればいいのね?」
「よかった。今日だけなら、何とか頑張れそうです」
「届いてもいないのに、喜ぶのはまだ早いかと」
ほっと胸を撫で下ろす双子へ、レンリはぼそりと水をさす。
だが、彼の忠告は正しかった。カルパドールからの注文が殺到し、殺虫ミストは一時的な在庫切れとなっていたのである。
入荷次第配送される手筈は整えたが、それがいつになるか分からないのでは、社員の焦燥は募るばかりだ。
その夜、レンリは、ベッドの中で一人考えていた。
先日路地裏で出くわした大きな蜘蛛と、町中を闊歩している大量の小さな蜘蛛。両者は、まず無関係とは思えない。
あの大きさでは、移動するにも身を隠すにも難儀するに違いない。場所さえ絞ることができたなら、見つけ出すのは容易だろう。
そして、あの蜘蛛ならば、壁を登ることで妖精園にも難なく侵入できる。
あの大蜘蛛さえ捕捉できれば事態は好転する。そんな独りよがりの核心を抱きながら、レンリは微睡みの中へと沈んでいった。
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