第7首 阿倍仲麿_中国人2


天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出し月かも

 

 ドサリと荷物をソファーに投げおく。

 一週間に渡る香港出張が最終日を迎えた。今日はホテルで一泊して、明日の朝一番のフライトで日本に戻る。無駄なこの一泊を本来なら会社は許してくれないのだが、香港支店のマネージャーがせっかくの初香港なんだから、ゆっくり堪能してほしいと話をつけてくれたそうだ。当初は特に深く考えもしなかったけれど、香港での滞在が一日、二日と経つごとに増える未読メールと増える宿題に、終盤にはさっさと日本に帰りたいと思うようになっていた。しかし、最後のタスク(アテンドしてくれたホープさんも、そう思ってただろう)の夜景は思いの外、感動した。

 一人の仕事、オフィスの照明、そういう突き詰めれば一人の人間が作り出した光があの美しい景色を作り出しているのだなと思うと、自分の仕事もそういう風に誰かの元に届くのだろうかと、がらにもなくそんなことを考えた。きっとアルコールのせいだ。

 もう一度、その情景を見たいと窓に近づく。

 当然のように、見えるのは百万ドルの夜景どころか、街の街灯すらまばらで道路に落ちているゴミすらも見えるほど地面に近い景色だった。まぁそうだよなと思い、空を見上げると星なんてひとつも見えない。唯一、朧げな月だけが浮かんでいた。

 月は世界中どこから見ても同じに見える。子供の頃、それがとても不思議に感じていた。地球は公転していて自転もしている。月も地球の周りを自分も回りながら周っている。それなのに、地球から見る月はいつも同じ面というのは、どんな奇跡なのかとただただ凄い偶然だなぁと思った記憶がある。もちろんきっと偶然ではないのだろうけど、知らないから楽しめるということもある、と未だに理由は調べずにいる。怠惰、とも言う。

 今見える月も、日本で残業帰りに見る月と同じ模様をしていた。厳密にはぼんやりして良く見えないのだが、黒い影にうさぎの存在を認めることができる。同じ模様のはずなのに、今夜の月は何故かよそよそしく感じた。旅行先の街中で、偶然知人に会ったときに似ている。嬉しさと、いつもと何かが違って見える知人への新鮮さと違和感。相手のプライベートを垣間見たということが、そんな気持ちにさせるのか、あるいは旅行先という状況がそうさせるのか分からない。少なくとも目の前の月に関していえば、プライベートなんてないのだから、きっと自分が香港にいることが月を変容させているのだろう。

 アルコールを抜こうと、鞄からペットボトルを取り出し一気に半分近くを飲み干した。

 これから香港出張は増えるだろう。ひょっとしたら香港赴任なんてこともあるかもしれない。その頃になったら、月は日本で見る月と同じ顔を見せてくれるだろうか。

 

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