百人一首の情景
Fuyugiku.
第1首 天智天皇_看護師
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
仮眠室に入ったのが午後五時くらいだったから、四時間ほど休めたことになる。院内からは慌ただしさを感じなかった。大声や走る音が聞こえなくても、忙しい時には雰囲気で分かるものだ。声色や動線が必ず違う。今朝、クラスターで入院が決まった十数名の受け入れがあり息つく暇もなかったが、どうやら大きなトラブルもなく仕事をルーティンに乗せることができたようだった。
身支度を整え、部屋を出てナースステーションに向かった。
「あ、佐々木さん。もういいの? 食事もとっていったら? 」
すぐに声をかけてくれたのは、勤続二十年を越えた婦長の永田さんだった。
「すみません。ご心配おかけしました」
「いいのよ、それより無理せず休む判断ができたのは大事なことよ。こんな時だから、余計に」
私は日勤を無事に勤め上げたが、忙しすぎてほとんど記憶がない。気付いたら午後四時を過ぎていて、その頃には吐き気を催すほどの頭痛と怠さで完全に参っていた。夜勤への申し送り後、倒れ込むように仮眠室へ向かった。婦長はああ言ってくれたが、やはりこんな時期だからこそ、体調管理ができていなかったことを申し訳ないと感じていた。返事をできずにいると、婦長はカウンター越しに私の腕に手を添えて軽く力を加えて撫ぜた。
「仕事に対して責任を感じるな、とは言わないけど、あなたが一番責任を持たなければならないのは、あなた自身に対してなんだから」
婦長は言い終わると少しだけ疲れた顔をした。患者の無鉄砲な行動を聞くたびに感じる憤りが、ずしりと心にのしかかった。
病院を出ると、外はもう真っ暗だった。
駅のそばまでくると会社員であろう人が疎らにいた。しばらく前まで、夜勤に向かう夜中に通ると、駅前の居酒屋は賑わって店から漏れる明かりと笑い声が街中を活気づけていた。アルコールの匂いさえも漂うようなそんな街だった。今は街の空気が心なしか澄んでいるように感じて、緑も大してない街中にも関わらず、深呼吸してしまいたくなった。そんな空気を運ぶ風も、心地よかった。
残業を終えたのだろう中年のサラリーマンたちが穏やかに笑い合っていた。いつもなら仕事の疲れをビールで流していただろうか。早くに店を閉める飲食店の経営者たちは、苦しい生活と、いつ終わるか分からない不安を抱えているだろう。
正しい世界なんて考えたこともないけれど、みんながそれぞれ何かを耐え忍び生活している世界が、悲しくて、少しだけ美しく感じた。
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