6(練習中)

 とはいえ、今回のことの鍵が『アガメムノン』にあるのは間違いなかった。犯人(?)は何か理由があってこの劇を選んだのだ。その理由はたぶん、脚本の中そのものに隠されている。例えば、編集の仕方に特徴があるとか。

 わたしは常に倍するほどの時間をかけて台本を読み返した。一部のセリフはそれで自然と覚えてしまったほどだ。街の長老たちの嘆き――「哀れ、哀れと言えば言え/だが良きほうが勝ちますように。」

 読み込みが深まるのはいいのだけど、肝心の謎のほうはいっこうに解けることはなかった。時間はただいたずらに過ぎていくだけである。焦る必要なんてないとはいえ、個人的な精神衛生上にはやや悪影響がある。

 演劇部の活動のほうも、夏休みに入って本格化しつつあった。部長による古代ギリシア演劇についての初頭講座(コロスの役割、当時の舞台装置、物語の背景、etc.)があって、配役や裏方も決定した。

 それによると、わたしは照明係――いわゆる〝スタッフ〟のほうだった。基本的には、それが通常営業なのだ。前回みたいに役を振られることのほうが例外なのである。ついでに、テンパってセリフを飛ばしたことも例外なのである。

 舞台の準備が着々と進んでいくある日、わたしはふと思いたって人を探してみることにした。探すといっても、深山幽谷を訪ねていくわけじゃなくて、同じ学校のどこかにいるはずだった。

 キャストとスタッフはそれぞれの仕事があるので、いつもいっしょにいるわけじゃない。わたしはまず、部の主な練習場所である視聴覚室に足を運んでみた。

 窓にカーテンをして締め切った部屋には、当然のことながら空調がかけられていた。夏の暑気がゆるんで、多少の人間らしさが戻ってくる。省エネのためか、あまりうらやましくなるほどじゃなかったけれど。

 視聴覚室に入って扉を閉めると、外の物音は電源ごとコンセントを抜いたみたいにぱたりとやんでしまう。代わりにエアコンの単調な送風音が耳をついた。息をすると、多少の埃っぽさを感じる。

 後ろの扉から入ったので、練習舞台の光景がよく見えた。舞台のイメージ作り中らしく、役者はみんな台本を持ったまま演技をしていた。それを見ながら、部長が細かく指示を出している。建物の段階でいうと、まだ骨組みもできあがっていない状態だった。

 わたしはきょろきょろあたりを見渡しながら、目的の人物を探す――どこにもいない。おかしい、空気の精にでもなったのじゃなければ、ここにいるはずなのだけど。

 近くの席に座っていた同じ二年の宮坂みやさかくんに、わたしは訊ねてみた。ミニ舞台上では、椛ちゃんが部長の指導を受けている。彼女がこの劇の実質的な主役である、王妃クリュタイメストラ役だった。

「……ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「わっ!」

 やけに熱い視線で舞台を見つめていた宮坂くんは、やけに派手に驚いてみせた。

 自分の声にびっくりしたみたいに、宮坂くんは舞台の様子をうかがう。幸い、注意を引くほどじゃなかったらしく、練習は滞りなく続けられていた。わたしとしても、そんなつもりはなかったのだ――本当に。

「ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」

 とわたしはまず謝罪した。

「うん、いや、僕のほうこそごめん。何か急に声をかけられたから……」

 宮坂くんは自分が悪いみたいに慌てて言う。そういう奴なのだ、宮坂孝太みやさかこうたというのは。あまり得な性格とは言えなかったけれど。

 見ため通りの大人しさで、消極的。親切で優しくて気が利くのだけど、基本的には引っ込み思案。けっこう整った顔立ちをしているわりに、それが目立つことはない。いつも運悪く、月の前に雲がかかっているみたいに。薄幸の美少女の少年版というところだ。

「……それで、何か用なの小森さん?」

 まだ気になるのか、宮坂くんはちらちらと舞台のほうに目をやっている。その様子を見るかぎりでは、必ずしもそれだけが理由ではなさそうだったけど。

「久瀬先輩はどこにいるのかな、と思って」

 わたしは邪魔してごめんね、という調子を言外に込めつつ、小声で訊ねた。

「先輩だったら確か、一人で練習するからって出ていったよ」

 と、宮坂くんはそんなわたしの気遣いなどどこ吹く風で、上の空に答えた。

「屋上のほうに行くって言ってたかな? あそこなら声を出してもうるさがられないし、邪魔も入らないだろうからって」

 教えてくれてありがとう、と言ってわたしは部屋をあとにした。その言葉が宮坂くんに届いたかどうかは不明だったけれど。

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