第12話 すれ違う日々に天使の笑みを

「昨日は迷惑をかけてしまい、本当にすいませんでした」


 レイさんとキスをしたその日の夜。私はバーに行き、ツケにしてもらっていた代金を払い、深く頭を下げていた。


「いいよ、いいよ。昨日はたまたまお客も少なかったし、気にしなくていいよ。まあ、気にするって言うなら、これを機にまた飲みに来てくれたら、それでいいから」

「はい……分かりました。お言葉に甘えて、これからは時々来させてもらいます」

「それで今日はどうしますか? 少しだけ飲んでいかれますか?」

「はい、そうします」


 私はカウンター席に座り、何を注文しようかと考え始める。しかし、悩むことなく飲みたいものはすぐに決まった。


「あの、注文いいですか?」

「ええ、もちろん。それで何にします?」

「えっと……昨日、レイさんに勧めてもらったピンクの飲みやすいカクテルあったじゃないですか? あれ、また作ってもらえますか?」

「大丈夫ですよ」

「じゃあ、それでお願いします」


 マスターは手早くカクテルを作ってくれ、そっとコースターの上にカクテルを置いてくれる。出されたカクテルをさっそく飲んでみる。やはり私好みの甘くておいしいカクテルだった。

 昨日は酔っぱらっていたうえに、精神的にも不安定だったので、味の記憶は曖昧だった。今、こうやって味わいながら飲んでみると、ヨーグルトリキュールの乳製品独特のまろやかさの中にベリー系の果物の風味がマッチしていた。アルコールだということを忘れて、何杯も飲めてしまえそうな気がした。

 そのおいしさと甘さに、レイさんのことを思い出し、笑みがこぼれてしまう。


「あの、マスター。ちょっと聞きたいことがあるんですが?」

「なんでしょう?」

「レイさんのことなんですが、お世話になったので何かお返しがしたいんですけど、本名も何も分からなくて」

「そうですか。申し訳ないですが、私もレイちゃんの本名は知らないんですよ」

「そうなんですか? あの、レイさんって、どんな人なんですか?」


 マスターは少し困ったような表情を浮かべる。きっとマスターにしてみれば、常連客の情報をそもそも話していいのか、話すにしてもどこまで話していいのかと、悩んでいるのだろう。


「もちろん話せる範囲でかまいません。ただ、レイさんには私だけフルネームの本名と住所を知られていて、さらには、近いうちにまた会えるとまで言われたので、気になっちゃうんですよね」

「それはレイちゃんらしい。まあ、そういうことなら知りたくなるのも無理ないですね。そういえば、私も昨日、タクシーを呼んだりと介抱しながら、あなたの名前をレイちゃんが呼んでいたのを聞いたと思うのですが、バタバタしていたのでよく覚えてないんですよね」


 反射的に「すいません」と謝罪の言葉を口にしていた。申し訳なさでいっぱいになってくる。きっと私の人生最大の酒の失敗は昨日ということになるのかもしれない。


「そうですね――私のことは“ユウカ”でいいです。名刺を出して名乗るような場でもないでしょうし」

「分かりました。ユウカさんですね。覚えましたので、どうぞこの店を贔屓ひいきにしてください」

「ええ、もちろん。じゃあ、この店の常連になるための第一歩として、マスターに一杯、昨日の迷惑料を込みでぜひおごらせてください」

「ありがとうございます。お酒を頂いたら、口が軽くなってしまいそうですね」


 マスターは柔らかな笑みを浮かべ、自分用にビールサーバーからビールをグラスに注ぎ、戻ってくる。


「では、いただきます」

「はい、どうぞ」


 グラスを軽く合わせてから、お互いに飲み物に口をつける。そして、マスターはビールを自分の手元に置く。


「そうですね――では、レイちゃんには今度店に来たときに、ユウカさんにレイちゃんのことを話したと伝えることで手を打ちましょうか。きっとユウカさんが相手ならレイちゃんも笑って許してくれるでしょうし。それで逆にユウカさんが何を聞いたのか、また何を話したのかをレイちゃんが知りたがったら、お話するということでどうでしょうか?」

「ええ、それぐらいなら」


 マスターは一度大きく息を吐いてから、レイさんのことを話してくれた。

 マスターは先ほど話したようにレイさんの個人情報にあたる部分は知らないと改めて口にする。本名や住所、どんな仕事をしているのかは分からないそうだ。

 ただ学生時代から店に来ていたようで、そのころから周囲から“レイ”と呼ばれていたそうだ。そして、ざっと五年以上の常連なので、年齢はおそらく二十代半ばくらいとのことだった。


「もったいぶった割には、レイちゃんのことをほとんど教えられなくて、すいません」

「いえいえ、話してもらっただけありがたいです。こういう店での常識は分かりませんが、きっと呼び名と、味や人の好み以上のことを知るのは難しいでしょうし」

「そう言ってもらえると助かります」


 マスターの話を自分の中で整理しながら、レイさんが年下かもしれないという事実に、ひっそりと衝撃を受けていた。

 そして、レイさんとの再会を望むなら、しばらくはこのバーに通うのが最善のように思えた。そもそもこの店以外の接点がまるでないので、街中でバッタリということには期待できない。またあんなことがあった手前、レイさんがふらりと私の部屋にやってくるとも考えにくかった。

 そのまましばらく飲みながら待ったが、その日はレイさんには会えなかった。


 それから私は週の半分くらいは仕事終わりなどにバーに通い、少しだけ飲んで帰るというのが習慣となりつつあった。目的はもちろんレイさんとの再会のためだったが、半月経っても会うことはできずにいた。


「いらっしゃい。しかし、ほんとユウカさんとレイちゃんはすれ違ってばかりだね」


 マスターは私がカウンター席に座るとそう話しかけてきた。どうしてですか、と尋ね返すと、


「いやね、レイちゃんはユウカさんが帰った後に来たり、来なかった日に限って早く来たりと、こちらからするとなんで会えないんだろうと思うばかりなんですよ。レイちゃんにはユウカさんが会いたがってるとは伝えてはいるんですけどね」


 と、苦笑いを浮かべる。


「それでレイちゃんから、なかなか会えないお詫びに一杯奢らせてとカクテル指定で言われているのですが、どうしますか?」

「そうなんですか? もちろんいただきます」

「かしこまりました」


 マスターはそう言うと、カクテルを作り始める。リキュールを入れてシェイカーを軽やかに振る。私は強い酒が苦手なので、自分向けの酒でシェイカーを使うとは思ってもいなかったので、どんなカクテルが出てくるのかと少し不安になる。しかし、レイさんが私好みでないものを指定するはずがないので、すぐにどんなにおいしいものだろうかと期待が強くなっていく。

 そして、氷を入れたロンググラスにシェイカーからカクテルを流し込み、それをさらに何かのジュースで割り、バースプーンで混ぜ、コースターの上にそっと出してくれる。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 出されたカクテルに口をつけると、最初に今まで飲んできたものより強いアルコールを感じるがすぐにフルーティーな風味と甘みに置き変わる。その甘すぎずさっぱりとした飲み心地と味に思わず、笑みがこぼれてしまう。


「私には少しアルコールがきついですけど、すごくおいしいです。これは?」

「エンジェルフェイスというカクテルをリンゴジュースで割ったものですよ。ユウカさんの好きなアプリコットリキュールを使ったカクテルで何かないかって、レイちゃんが考えたんですよ」

「これをレイさんが……」


 レイさんが私のためにと思うと、顔に出そうなほど嬉しくなってしまう。


「あと、レイちゃんからカクテルの名前にもなってるエンジェルがユウカさんにピッタリだからと言っていましたよ。もちろん天使という意味ではないよともわざわざ付け加えていたのですけど、ユウカさんはなんのことか分かりますか?」

「いえ、見当もつきません」

「そうですか……私はレイちゃんに理由が知りたかったら、ユウカさんに聞いてと言われていたので、期待していたのですが、残念です」


 マスターはわずかに肩を落としながら言う。きっとレイさんの言うことだから、深い意味か面白いエピソードがあると思っていたのだろう。しかし、私には本当に思い当たる節がないのだ。

 スマホを取りだし、エンジェルを検索して意味を調べてみる。

 『天使』という意味以外には、『神の御使みつかいい』とあるがこれは天使とほぼ同義だ。他には、『天使のような人』と出てきたが、わざわざ天使ではないと付け加えていたそうなのでこれも違うのだろう。『心も姿も美しい女性』ともあった。これはどうだろうかと考えるが、レイさんは私のことをかわいい人と口にしていたのを思い出し、きっと違うだろうと除外した。

 次に出てきたのは、『聞き分けのいい子供』とあり、苦笑いをしてしまう。きっとこのことを指していると、直感的に感じた。聞き分けがよすぎるから、今までの恋愛において、あなたは損をしてきたんじゃないのというメッセージと、会えなくてもちゃんとバーに来て文句も言わずに待っていてえらいね、というレイさんらしいダブルミーニングだろうか。ということは、このカクテルはそんな私へのご褒美とも言える。

 さらにページをスクロールして出てきた、『財政上の後援者、パトロン』とあり、もう笑うしかなかった。レイさんは単語一つでこうも的確に私を表現しようとしてくるなんて、と驚き以上に感心してしまった。


「何か分かったんですか?」

「ええ。まあ、レイさんは私をエンジェルのような人だと皮肉って、ご褒美をくれ、慰めてくれたというところでしょうか」

「どういうことです?」


 私はマスターのその言葉には笑って、それ以上は答えないようにした。

 レイさんは会えなくても、こうやって間接的に私を楽しませるというか笑わせてくれる。そんな人は今までに会ったことがない。

 時間が経つごとに、レイさん会いたいという気持ちや想いがどんどん強くなっていった――。

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