思い出をデキャンタに閉じ込めて その3

それは、私がまだ小学生の時の話。


 8月、夏休みに私は母の実家がある山奥の村で、母と祖父、祖母の四人で一ヶ月ほど過ごしていたわ。生まれてからずっと市内で育った私にとって、田舎の生活というものはとても新鮮で、毎日が刺激的だった。だけどそんな生活、一週間もすれば退屈な日常に変わってしまうものだった。

 村は過疎化が進んでいて、村の殆どの住人は高齢者で、私と同世代の人はどこにもいなかったの。私はいつも一人、川で遊んでいたわ。川辺の森の木陰がお気に入りの場所で、よくそこで昼寝をしていたの。ハチやアブ、蛇に遭遇しなかったのは、考えてみると、とても幸運なことだったと思うわ。

 こうして私は新鮮で充実した一週間と、退屈で凡庸な一週間を満喫したの。きっとこれから先はもっと、無味乾燥な、怠惰で放蕩的な生活が待ち受けているのかしら。私は市内の暮らしがとても恋しくて泣きそうにもなったわ。苦々しい陽光が生み出す、揺れる枝葉の影を見つめながらそんな事を考えていたの。そんな私に何かが話しかけてきたの。


「お嬢ちゃん、一人で寂しそうだね」


 若草色の肌、大きなくちばし、頭にはお皿が乗っている。私はそれが河童であるとすぐに理解したわ。最初はとても驚いたし、少し怖かったけど、河童と私はすぐに仲良くなった。水遊びや釣り、相撲に虫取り。河童はたくさん遊んでくれた。今でも忘れない、とても楽しかった思い出よ。


「お嬢ちゃん、明日も遊びにおいで」


 それから一週間、私は河童と珍妙奇天烈摩訶不思議な一週間を過ごしたわ。今でも河童には感謝しているの。











「これが私と河童の馴れ初めよ。理解してもらえたかしら、先輩?」


「お、おう」


 四分谷の話はあまりにも現実離れしていた。作り話ならもっとマシになるはずだ。だからこそ彼女は嘘をついていないとも思えた。少なくとも、四分谷は河童と思われる人物と、一週間ほど過ごしている。それの正体が何であるかはわからない。あるいは本当に河童なのかもしれない。

 小さい頃に不思議な体験をした人は少なくない。大抵は大人になると、何かの見間違い、勘違い、妄想だったと記憶を修正する。僕だって幼い頃に不思議なものを見たことがあるが、今では何かの勘違いだったと認めることができる。幼い頃の記憶なんて、都合よく、面白可笑しく書き換えているものだ。


「先に聞いておくが、本当に河童だったのか? それとも、河童のような生き物じゃなかったのか?」


 四分谷の天使のような笑顔は曇り、眉をひそめた。きっと何度も同じ質問をされたのだろう。少し申し訳ない気もしたが、やはり確認をせずにはいられない。


「緑色した二足歩行の生き物を、他の何と間違えるっていうの? 私、そこまで生物に詳しくないので、頭に皿を乗せた、人語を操る生き物なんて河童以外に聞いたこともありませんが。ねえ、先輩? 日本の山奥、川の上流に生息する、河童のような生き物って何かしら? もしそんな生き物がいるのなら、一緒に相撲でも取りたいものですね。」


 四分谷は長年研ぎ澄まされた刀のように鋭い皮肉を僕のこめかみに突き刺してきた。恨みのこもったその声は、今まで同じ質問をしたすべての人間に向かって放たれているようだ。まあ、いわゆる、『地雷を踏んだ』ってやつだ。


「まてまて、悪かった。四分谷はたしかに河童を見た。そして河童と一週間、遊んで暮らしていた」


「そうよ。実際に触れて、会話もした。紛れもない真実よ」


「なら、質問を変えよう。その河童は四分谷以外見ていないのか?」


「残念ながら、私以外の人を見かけると、河童はすぐに姿を消したの」


「その村には、それ以降何度か訪れたりはしたのか?」


「一度もないの。車が無いととてもたどり着けないような場所で、母に何度か頼んでみたけど、過酷な山道を運転する気にはなれないみたいで。本当は私が運転免許を取得して、自分の力で行けるようにすればいいんだけど……ね」


「免許、取れなかったのか?」


「……うるさい」


「あいや、すまぬ」


 事情はだいたい把握した。要するに、四分谷はその母親の実家がある村に連れて行ってほしいのだ。なんだ、河童を見つけるなどと言うから、全国津々浦々、あらゆる河童の伝説を調査するのかと思っていたが、僕が想像していた以上に彼女の願いはシンプルだった。村に行けばよいのだ。そこに河童が居ようが居まいが、そこで自分の思い出にケリを付けたい、それだけじゃないんだろうか。しかし、生憎僕も運転免許は所持していない。出かけるときは電車か、カバオの車なのだ。ならばカバオに頼んで三人でその村へ行くのはどうだろうか。いや、村まで行けたとしても、日帰りで河童を見つけるなんて到底不可能だ。いるかいないかは置いといて、村に行って二、三時間散策をしていなかった、諦めよう、とは彼女はならない筈だ。少なくとも二泊ぐらいは考えておかなければならない。そうすると新たな問題点が一つ、カバオがこのような美女を前に、欲情を抑えていることなどできるだろうか。僕に四分谷の貞操を守ることはできるだろうか。答えはノーだ。あいつは学生時代はラグビー部に所属していた。おまけに柔道三段、空手は黒帯と、本気で戦ったら僕みたいに平凡な男など、歯牙にもかけないだろう。と、なると――。


「なら、夏季合宿だな」


「合宿? そんなのがあるんですか?」


「ああ。毎年夏休みにオカルトスポットに二、三日泊まり込むんだ。去年は廃旅館だったよ。近くにテントを張って三日三晩。暑いし、虫ばかりだし、何も起きないし。もう二度と廃墟はごめんだ。過疎だろうが人が暮らす村のほうが絶対いいしな。今年の行き先はまだ決まってないから、何かその村にまつわるオカルト話でもあれば話が早い。村の名前を教えてくれたら僕が調べておくよ」


「本当にいいんですか? 年に一度の楽しみを私の意向で決めてしまっても」


「急に遠慮するなよ。いいんだよ。僕もカバオも、普通の旅行がいい。オカ研らしく出先に河童がいるくらいで丁度いいんだ」


「なんだか、ありがとうございます」


「いいよ、これは交換条件で、僕と君との契約なんだから。それで、村の名前は?」


「……星川村」


 聞き慣れない村だ。なんだかおとぎ話に出てきそうな名前だな。


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