第90話『伝え合って、奪い合って』

「私は、あなたが好きです――」


 告げられたその言葉は、全ての音を押し退けて雄一に届く。音どころか周囲の景色すらも遠くの世界のように感じられてしまい、ただ目の前の少女一人にしか意識を割けない。


 きゅっと唇を引き結び、潤んだ瞳でこちら見る澄乃。不意に吹いたそよ風で銀髪がさらさらとなびき、ほのかなオレンジで浮かび上がる彼女の輪郭を相まって、幻想的なまでに綺麗だった。


 およそ現実のように思えない光景。けれどこれは紛れもない現実だと告げるように、澄乃は明瞭な口調で言葉を続ける。


「思えば、雄くんはずっと私のことを助けてくれた。男の人に言い寄られた時も、怪我した時も……お母さんの時も。いつも私に手を差し伸べてくれて、本当に嬉しかったの」


 好き。


「気付けば雄くんのことばかり考えるようになって……遊園地も、プールも、お祭りも、雄くんと一緒にいられると、全部全部楽しかった」


 好き。


「助けてくれたから……なんて言うと現金かもしれないけど、それでも私は、優しくて、カッコ良くて、本当のヒーローのようなあなたが好きです」


 大好き。


 言葉の一つ一つに込められた想いが雄一に届くたび、甘美な刺激が蜂蜜のように身体全体に沁み込んでいく。


 好きな人から好きと言われる――言葉にすればたったそれだけの事実が嬉しくてたまらない。


 澄乃が一歩踏み出し、互いの距離を詰める。吸い込まれそうな藍色の瞳はまるで星空のように煌めいていた。


「だから……だからお願いします。私と、付き合ってください……!」


 いじらしい願いの後に差し出されたのは、小さな白い手。小刻みに震える手はまるで寒さに耐えているようで、ひどく頼りなくも見えた。


 未だ雄一の思考は蜂蜜の沼にはまったままで覚束ない。けれど彼女の震えをすぐにでも止めてあげたくて、気付かない内に手が動き、口からは正直な気持ちが吐露された。


「はい、喜んで」


 言葉と共に、澄乃の手を優しく握る。ほっそりとしていながらも滑らかで柔らかい感触に、胸の奥が高鳴った。


 ゆっくりと顔を上げた澄乃は目を瞬かせて雄一を見上げる。


「えっと……それは、OK……ってことでいいの?」


「あ、ああ、もちろん……」


 先ほどのはほとんど無意識の返事。改めて聞き返されると少し言葉に詰まってしまう。


 そんなたどたどしい返事を聞いた澄乃は――急にふらっと崩れ落ちた。


「うおっと!?」


 反射的に澄乃の背中に片手を滑り込ませ、倒れ込む寸前のところでその細い体躯を抱き止める。あまりに突然のことで勢いまでは完全に殺し切ることができず、抱き抱えたまま座り込む形になってしまったが、何とか澄乃を庇うことはできた。


「おい澄乃、大丈夫か……!?」


「ご、ごめん……。何か、腰、抜けちゃって……」


 雄一の腕の中で澄乃は目をぱちくりとさせていた。ばつが悪そうでも笑みを浮かべているあたり、少なくとも急な体調不良というわけではなさそうだ。


 雄一が胸を撫で下ろしていると、澄乃は抱き抱えられたまま半信半疑の眼差しで雄一を見る。


「あの、もう一度確認なんだけど……付き合ってくれるんだよね? その……恋人、として」


「……ああ。むしろ、こっちからお願いしたいぐらいだ」


「……良かったぁ」


 全身を弛緩させた澄乃は安堵したように口許を緩める。目元にはじわりと涙の玉が浮かび、泣き顔ですら綺麗だと思えるほどだった。


「何も泣くことないだろ」


「だって、それだけ嬉しいんだもん。それに……もし断れたらどうしようって、不安だったし……」


「そんな――」


 わけないだろ、と続けようとして気付く。


 自分はどうしようもないぐらい澄乃のことが好きだけれど、あくまでそれは雄一の中の気持ちだ。人は真の意味では、相手の気持ちを完全に理解することなどできはしない。だからこそ、伝えたいことは言葉を尽くして相手に伝えようとするのだ。


 こと告白という行為において、大事なのはまさにそこだろう。


 表面上はどれだけ仲睦まじくしていようと、本当の気持ちは一歩踏み込まないと伝わってくれない。そしてそれは、とても勇気が必要な行いのはずだ。


 澄乃はその一歩を踏み出してくれた。自分の腕の中にある確かでありながらも儚い存在が、どれだけの不安を乗り越えてそうしてくれたことだろう。


 それは嬉しくもあり、同時に自分が情けなくも思えた。澄乃はヒーローみたいだなんて言ってくれたけど、まだまだ自分は臆病で、勇敢な彼らには並び立つことはできない。


 それでも、臆病は臆病なりに、せめてもの意地は通すことにしよう。


「澄乃」


 決意を込めて、その名を呼ぶ。


「俺も、澄乃が好きだ。一人の女の子として、本当に好きだ」


 誠実な言葉には誠実な言葉でこそ返すべきだと思い、藍色の瞳の奥の奥まで見通すように目を合わせる。


「だから、俺と付き合ってください」


 締めくくりの言葉の後、軽く頭を下げる。一拍置いてから上げると、呆けたように雄一を見上げていた澄乃はやがて、大輪の花が咲き誇るような満面の笑みを浮かべた。


「はい、喜んで」


 さっきの自分と台詞が同じなのはわざとだろうか。でもそんなことよりも、互いの想いが通じ合ったことが嬉しくて仕方がない。


 笑顔の澄乃に釣られて顔を綻ばせたところで――雄一ははたと気付く。


 今の自分たちの体勢――座り込んだ状態とはいえ、澄乃を横向きに抱き抱えたまま。言うなればお姫様抱っこに近い体勢だ。当然それだけ身体は密着していて、制服越しでも柔らかな感触が腕や足から伝わってくる。


 さすがに離れるべきかと思い、澄乃の身体をそっと遠ざけようとする。


「……や」


 しかし、可愛らしい反抗がその動きを遮った。


 雄一の胸元をぎゅっと握った澄乃は、甘えるような上目遣いの視線を送ってくる。


「恋人になれたんだし、もうちょっとこうしてたいです……」


「……おう」


 晴れて恋人となった少女の頼みは、もちろん断れるわけがない。改めて華奢な身体を引き寄せると、澄乃は「んー……」と満足気な声を漏らし雄一の胸板に頬擦りをしてくる。それどころか、少し首を伸ばしてすんすんと控えめに鼻を鳴らし始めた。


「ちょ、ちょっと待て……! 汗臭いだろ、俺……」


 日が落ちてきたとはいえ、九月も始まったばかり。気候的にはまだ蒸し暑い日々が続いている。それにこの恋人との密着状態。高鳴る鼓動が血流を早め、それに比例して発汗量も増していく。


 だが澄乃はそれを気にも留めず、余計に雄一の首元に鼻先を近付けた。


「そう? 私は好きだなぁ、雄くんの匂い。こうしてると落ち着くし」


「……俺はドキドキしっぱなしなんですけど」


「私だって、たぶん雄くん以上にドキドキしてるよ? でもそれ以上に落ち着くの。……ふふっ、何か変な感じ」


「さいですか……。もう好きにしてくれ」


「じゃあ、そうしますっ」


「ぬぉ……!?」


 言うが否や、澄乃は雄一の背中に手を回して抱き付いてきた。力加減こそまだ緩いものではあるが、より一層澄乃の身体の感触――特に胸のあたりにもたらされる得も言われぬ柔らかさが雄一の理性をガリゴリと削っていく。


 やはり大きい――ではなくて、これは相当にマズい。いい加減どこかで区切りを付けないと、頭が茹だっておかしくなりそうだった。


 と、頭では分かっているのだが、満足気な吐息を漏らす澄乃を前にすると何も言えない。何より、雄一の心の大部分もこの状態が続くことを望んでしまっているのだ。


 なけなしの理性が鳴らす警鐘は意味を成さず、結局澄乃と抱き合ったまま時が過ぎていく。しばらくするとある程度堪能したのか、少しだけ身体を離した澄乃はまた雄一の顔を見上げた。


「雄くん、すっごい照れてるでしょ?」


「……好きな人とこうしてりゃ、当たり前だろ」


「ふふっ、結構恥ずかしがり屋さんだよね」


 わざわざ確認されなくても、自分の頬に熱が集まっているのは百も承知だ。それでも面と向かって認めるのは気恥ずかしくて顔を逸らしたままでいると、不意に雄一の頬に柔らかい温もりが触れた。


 澄乃の手によって強引に彼女の方へ向かされると――


「だーい好きっ」


 真っ正面からぶつけられたのは、あまりにも甘過ぎる想い。


(……ふざけんな)


 人の気も知らないで。一体どれだけ我慢していると思っているのか。


 これ以上顔を合わせたら我慢できない予感があって、だから途中から顔を逸らして耐えていたというのに、そんな努力はものの見事に打ち砕かれた。


 もう限界だった。


 頬に添えられた澄乃の手を最低限優しく払い除けると、お返しと言わんばかりに彼女の頬に手を添える。すべすべの肌を軽く撫でて、くいっと顎を持ち上げる。


「澄乃」


 名前を呼んで、ゆっくりと顔を近付けていく。


 雄一が何をしようとしているのか悟ったのだろう。さしもの澄乃も目を見開いて、頬どころか顔全体を薔薇色に染め上げていく。


「……嫌なら、言ってくれ」


 正真正銘の最後通告。欲はあっても、澄乃が嫌がることだけは絶対にしたくない。大事にしたいからこそ、今ここで澄乃が拒絶したとしても彼女への恋情が薄れることはない。


 その意味を込めて見つめていると――澄乃は静かに、その瞳を閉じた。


 控えめに突き出された桜色の唇に、自分のそれを重ねる。「んっ」とか細い声を漏らして身体を震わせたのは一瞬、胸にもたれかかってくる澄乃を優しく抱き締めて、唇を触れ合わせ続ける。


 瑞々しくて、柔らかくて、そして熱い。重ねるだけの拙いキスでも、もたらされる幸福は十分過ぎるほどだった。


 やがてどちらからともなく顔を離すと、恍惚とした表情を浮かべた澄乃は感触を確かめるように人差し指を唇に当てる。ぺろりと、口許に残ったクリームを舐め取るように薄ピンクの舌が動いた。


「あ、あはは……ファーストキス、奪われちゃった……」


「……ご馳走様でした?」


「……お粗末様でした?」


「いえ、結構なお手前で……」


「ふふっ、何それ」


 くすくすと可笑しそうに笑った澄乃が、雄一の頬にまた手を添える。


「もう一回。今度は、私から……」


 返事をする間も無く唇を奪われる。


 二回目のキスは、ほんの少しだけ、大人びたものになれた。

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