第78話『やっと言えた、たった四文字の言葉』
「お母さんがあの時止めていれば、お父さんは死んでなかったかもしれないのに――ッ!」
瞬間、澄乃の目に映る世界が止まったような気がした。自分はもちろん、今まで駄々をこねていたはずの母も凍り付いたように動きを止めている。
音すらも彼方に遠ざかった完全な静止空間。
そんな中、墓地近くの寺からゴーンと鐘の音が聴こえて、澄乃は我に返った。
――何を言った?
――何を口走った?
――ワタシハイマ、ナニヲイッテシマッタ?
疑惑が確信へ、そして確信が恐れへ移り変わる。
違う、そんなつもりで言ったんじゃない――そう後悔した時には、もう遅かった。
気付いた頃には、澄乃は尻餅をつくように地面に倒れていた。頬には鈍い痛みが残るばかりで、暗闇に閉ざされたような思考が無駄に時間をかけて、母に叩かれたのだという結論を引き出す。
澄乃は痛みを確かめるように頬に手を当て、それが現実のものであることを認識し、嫌にのろのろとした動きで顔を上げた。
そこには手を振り抜いた姿勢のまま、黙ってこちらを見下ろす母がいた。
これまで一度たりとも見たことのない、本来だったら実の娘に向けるはずのない表情。憤怒、嫌悪、憎悪、失望、恐怖、悲嘆――様々な負の感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜて濁った瞳が澄乃を捉え、それだけで澄乃は地面に縫い付けられたように動けなくなる。
せめて謝ろうと口を動かそうとしても、喉の奥からは一向に言葉が出てくれない。
母のせいで父は死んだ――そんな言葉の後に、一体何が言えるというのだ。
そんなつもりじゃなかった? じゃあ、どんなつもりだったというのか。
自問自答を延々と繰り返すばかりの澄乃。
やがて母はそんな娘を見限るように顔を背けると、何を言わずに墓地を後にした。
遠ざかっていく背中を……澄乃は引き止めることができなかった。
「……バカでしょ、私?」
全てを語り終えた澄乃は、ぽつりと自分を卑下した。
「お母さんのせいでお父さんが死んだなんて……本当に何言ってたんだろうね。そんなこと、あるわけないのに……」
自嘲気味に顔を歪めた澄乃の言葉を、雄一はただ黙って受け止めた。
実際、結果論みたいなものだろう。もしかしたら澄乃の言う通り、彼女の母が引き止めていれば結果は変わったかもしれない。止めるまでいかなくとも、ほんの一分でも出発を遅らせて現場に到着する時間が変わっていれば、別の可能性があり得たかもしれない。
けれど、やはりそれは結果論なのだ。何が正解だったかなんて誰にも分からない。そもそも消防士自体が危険と隣り合わせの職業で、死の影はいつでも近くにあった。もっと残酷な言い方をしてしまえば、死に別れのタイミングが早くなっただけに過ぎないかもしれない。
そんなこときっと、過去の澄乃だって分かっていたはずだ。
「雄くん、聞いてくれてありがとね。私のこと……酷い女だって思ったでしょ?」
なおも自嘲気味に笑いながら、澄乃が尋ねてくる。その瞳からは今にも涙が溢れ出しそうで、なのにそれを必死に押しとどめて、壊れかけの笑顔を浮かべていた。いっそ非難することを望んでさえいるような、そんな想いが雄一に向けられている。
……彼女は戻ろうとしている。少し前の、「私なんか」と自分を卑下していた頃の彼女に。
あんな姿、もう見たくないから。
そう思った雄一の手は――自然と澄乃に伸びた。
「え……?」
雄一の両腕の中で澄乃が小さな声を上げた。初めて自分の意志で抱き寄せた身体は、小刻みに震えている。油断すれば今にも消えてしまいそうに儚くて、雄一はより一層力を込めて澄乃を抱き締めた。
彼女の心を癒すように、そっと頭を撫でる。
「……や、めて」
澄乃はふるふると首を振った。
「優しく、しないで……。私の話聞いたでしょ? 私、すごく酷いこと言ったんだよ……? お父さんも、お母さんも傷付けて……なのに逃げて……」
「いいんだ」
「え……?」
「辛かったら、我慢しなくていい」
はっと息を呑む音が聞こえた。けどそれも一瞬のことで、澄乃は雄一の腕から逃れようともがき始める。
「そんなの、ダメ……。 ダメだよ、許されるわけないよ……っ! 私は本当は、誰かに優しくしてもらう資格なんて……っ!」
今にも感情が爆発しそうな声で、澄乃はしきりに言う。許されるわけがないと。
そうなのかもしれない。澄乃の言ったことは確かに残酷で、きっと他の誰も、彼女自身も、決して許そうとはしないのかもしれない。
それでも――
「俺が許す」
少なくとも自分だけは、そんな彼女を慰めてあげたいと思った。罪を認め、それに立ち向かおうと足掻き、傷付いてしまった彼女のことを。
その言葉がトリガーになったのか、やがて雄一の腕の中から小さな嗚咽が聞こえてきた。それは少しずつ大きくなって、いつしか抑えきれない大きな泣き声へと移り変わる。
雄一は心も身体も全て使って受け止めるように、澄乃の儚い身体を抱き締め続けた。
「なぁ、澄乃はこれからどうしたい?」
彼女がひとしきり泣いた後、雄一は静かに尋ねた。
こちらを見上げる澄乃。涙で濡れる藍色の瞳を、雄一は正面から見返す。
本当は泣き顔なんて見るものじゃないけど、彼女の嘘偽りのない気持ちが知りたかったから、その瞳の奥に宿る心に問いかける。
――自分は決して、画面の向こうのようなヒーローにはなれない。
彼女の前に立ち塞がる壁に対して、一撃の下に打ち砕くこともできなければ、一息で飛び越えることもできやしない。
けど、それがどうした。
一撃でダメなら、何十、何百、何万と拳を振るおう。
飛び越せないのなら、彼女を背負ってよじ登ってでも超えてみせよう。
たとえどんな困難が待ち受けていたとしても、「助けてくれて、ありがとう」と、そう言って浮かべる君の笑顔を何度でも見たいから。
だから――俺はただ、君のヒーローであり続けたい。
「わた、し……」
澄乃の唇が小さく言葉を紡ぎ出す。
「このままじゃ、ヤダ。ちゃんと謝って……仲直りして……もう一度お母さんと笑えるようになりたい……っ!」
大丈夫。
「でも怖くて……一人じゃ、行けなくて……」
大丈夫だから。
「だから……だから……っ!」
他でもない、雄一自身がそれを望んでいるから。
「――――たす、けて」
今にして思えば、彼女からその言葉を聞いたのは初めてだったと思う。
きっと、ずっと心の奥底に封印していたのだろう。自分はその言葉を口にする資格が無いと。
だからそれは、本当に小さな小さな叫びで、少しのそよ風が吹いただけでも消えてしまいそうな、囁きにも満たない願いだった。
でも、大丈夫。
その声はちゃんと――
「ああ、任せろ」
届いているから。
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