第3章『君の笑顔のために』
第73話『ずぶ濡れの心』
ある日、夏休みの課題も一通り終わらせた雄一はランニングに繰り出していた。
午前中でまだ日も高くなく、日差しはそこまで強くない。午後からは雨が降るらしいので空気は少しじめっとしているが、概ね良いランニング日和と言えるだろう。
じきに始まる『特撮連』での撮影に向けて、体調の確認も兼ねた運動。身体は軽快なリズムでアスファルトを蹴り、コンディションは申し分なし。これなら撮影でも十分なパフォーマンスを発揮することができるはずだ。
調子と言えば――
(澄乃、大丈夫かな?)
ふとした瞬間に頭に思い浮かぶのは、自分の想い人のことだ。
花火の下で約束を交わしたあの日から、すでに三日は経過している。今にして思えば、花火に誘われた時に澄乃が口にした『予定が入ると思う』という台詞は、実家に帰ることを指したものだったのだろう。そのことから考えるに、昨日か今日辺りには実家に向けて出発しているはずだ。
ランニングの信号待ちの中、腰に巻いたポーチの中のスマホが気になる。
親との話し合いの結果がどうなったか――気になりはするが、さすがにこちらから進捗を聞くわけにもいかないだろう。あくまで澄乃の家庭の問題であり、下手をすれば彼女を急かす形になってしまう。
『待ってる』と約束した以上、自分にできることは信じて待つこと。そして澄乃が無事に帰ってきた時に、誰よりも早く迎えてあげること。ただ、それだけだ。
今一度心にそう刻み込んで、雄一は街の中を駆け抜けていくのだった。
「ちくしょうめ……」
近所のスーパーの店頭。オーニングの下でスポーツドリンクのペットボトルに口をつける雄一は、曇天の空を恨みがましく睨む。
現在時刻、午前十一時。雨が降るのは午後からという予報だったのに、正午にもならないうちに雨が降り始めていた。雨宿り兼休憩がてらスーパーに立ち寄ってみたものの、雨足は一向に衰える気配を見せない。むしろ、どしゃ降り状態に近付きつつある。
このまま雨宿りを続けても、状況は好転しないだろう。
(しゃーない、走って帰るか)
幸いランニングのために軽装だったし、スーパーと自宅の距離もそこまで離れているわけではない。家に着いてすぐに温かいシャワーでも浴びれば何とかなるだろう。
そう結論付けたところで、ペットボトルをポーチにしまい、軽く屈伸して全力ダッシュへの準備を行う。
スーパーを出てすぐのところにある信号が緑に変わった瞬間、雄一は全速力でその場から駆け出した。
傘を差して歩く人たちをかわしつつ、自宅までの道のりを走り続けていく。とはいえ、さすがに一息で走り切るのも骨が折れるので、適度なところで雨宿りを挟んで呼吸を整える。そうして進んでいき、距離から考えて最後のインターバルになるであろう場所で一息ついていると、そんな雄一の前を一組の親子が通り過ぎていく。
「ねぇママ、さっきのおねえちゃん、あのままでいいのー?」
「んー……大丈夫ですって言われっちゃったからねぇ……。帰りも公園に寄ってみて、まだいるようだったらもう一度声かけてみようね」
「うん、わかったー」
年端もいかない小さな子供と、優しく見守りながら手を繋ぐ母親。仲睦まじい親子の相合傘を微笑ましい気持ちで見送りつつ、呼吸が落ち着いた雄一は再度駆け出した。
自宅までもう少しというところで、小さな公園に差しかかる。簡素な遊具と砂場、それから二台のブランコがあるだけのこじんまりとした場所で、当然こんな雨の日にまで立ち寄る人もいないだろう。
だから雄一も、特に気にすることなく通り過ぎるつもりだったが、先ほどの親子の会話を思い出し、なんとなく公園内を一瞥した。
そして――立ち止まった。
人がいる。ブランコに腰かけてじっとしたまま、傘も差さずに雨に打たれている。自身の身体はもちろん、横に置いた大きめのボストンバッグが濡れるのも構わず、ただひたすらにその場に項垂れたまま。
こんな雨の中、一体何を……?
いや違う。重要なのはそこじゃない。
見間違いでもなければ、あそこにいるのは――
「澄乃ッ!?」
気付いた時にはその名を叫び、雄一は一目散に駆け寄っていた。
「おい澄乃ッ!?」
再度の呼びかけでも、目の前の人物は反応しない。
人違い? そんなわけない。特徴的な紫がかった銀髪はもちろんのこと、背格好から見てもどう考えても澄乃本人だ。何より、今の自分が好きな相手を見間違えるわけがない。
だというのに、私服姿の澄乃は雄一の言葉に一切の反応を見せず、相も変わらず地面の方にじっと視線を向けている。衣服はぐっしょりと水分を含んで下着が透けて見えているのに、それにすら構う素振りもない。
「澄乃、一体どうし――」
業を煮やして屈んで澄乃の顔を覗き込んだ瞬間、雄一は言葉を失った。
見慣れたはずの少女の顔。だが彼女が浮かべる表情は、今まで見たことのないものだった。
輝きが失せた淀んだ瞳。普段は血色の良い肌も青白く、およそ生気というものを感じられない。中途半端に開いたままの口からは今にも魂が抜け落ちてきそうで、白取澄乃という存在そのものが希薄かのような錯覚すら覚える。
「おい澄乃、返事しろって!」
華奢な両肩を掴んで揺さぶると、ようやく澄乃は少しだけ首を傾けてこちらを見てくれた。
ほんのわずかだが、淀んだ瞳の奥に光が灯る。
「……雄……くん……?」
「ああ、俺だ。こんなところで何やって――って、そんな場合じゃないな。とにかく俺の家に来い! こんなんじゃ風邪引くぞ!」
「……ぅん」
微かに頷く澄乃。少なくとも最低限の意志疎通はできる。
こうまで濡れてしまっている以上、ひとまずは雄一の自宅で身体を温めるのが最良の選択だ。
尚も項垂れたままの澄乃に肩を貸して半ば強引に立ち上がらせると、どしゃ降りの雨の中、雄一は帰路を急いだ。
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