第74話『やり場のない想い』

 雄一の自宅であるマンションの前に辿り着く頃には、本格的などしゃ降りになっていた。未だ足取りの覚束ない澄乃を引き連れたままエレベーターに乗り込み、雄一は乱暴に階数ボタンを押し込む。普段は気にもしないはずの上昇速度も、扉の開閉速度も、今だけは嫌に遅く感じた。


 どうにか自宅の玄関まで辿り着き、澄乃と彼女の持ち物であるボストンバッグを部屋の中へ連れ込んだ。


「とりあえずすぐに風呂沸かすから、その間に少しでも身体拭いとけ」


 洗濯したてのバスタオルを二、三枚引っ掴んで澄乃へ押し付ける。緩慢な動作で頷くだけの澄乃に手を貸したくなるが、それよりも優先順位はこっちだ。雄一は自分の身体を拭くのも程々に浴室へ向かう。風呂のバスタブを手早く掃除し、給湯スイッチを押してお湯を張っていく。十分もすれば浸かるのに必要な量が貯まるだろう。


 風呂の準備を終えて玄関へ戻ると、澄乃はのろのろとした動きで身体を拭いている。その手つきはひどく弱々しく、バスタオルは今にも手から零れ落ちそうだ。


「ごめんな、文句があるなら後で聞くから」


 雄一は使ってないバスタオルを手に取ると、澄乃の頭から被せて髪の水分を拭う。なるべく優しい力加減で、澄乃を労わるようにゆっくりと。タオル越しとはいえ身体に触れるのに躊躇いを覚えるが、今はそうも言ってられない。


「……雄、くん……わ、たし……」


「後にしろ。とにかく今は、休むことだけ考えればいい」


「……ん」


 その言葉だけを返し、澄乃は雄一に身体を預けた。


 後にしろ――それは雄一が自分自身にも向けた言葉だった。


 澄乃に一体何があったのか。何が起きてこうなったのか。今すぐにでも聞きたくてたまらない。けれどその疑問は胸の奥底に閉じ込め、澄乃を労わることだけに全力を注ぐ。


 ほどなくしてお湯が貯まったことを告げる電子音声が鳴り、澄乃を浴室へ繋がる洗面所へと連れて行く。


「脱いだものはそのカゴの中へ。だいぶ身体冷えてるみたいだから、しっかり温まるんだぞ」


「……うん……ありがと……」


「気にすんな。着替えは……俺のジャージとかで良かったら貸すけど、それでいいか?」


「ぁ……私のバッグの中……入ってる、から……」


「分かった。でもバッグも濡れてるから、ダメそうだったら俺のにするぞ?」


 こくりと頷き、ブラウスのボタンに手をかける澄乃。さすがに脱ぐのまでは手伝うわけにもいかないので、雄一は洗面所の扉を閉めてその場から離れた。


 とりあえずこれで澄乃は一旦良しとして、次は自分だ。濡れたランニングウェアを脱いで、部屋着のジャージに着替える。もちろん澄乃が上がった後に、自分も風呂には入るつもりだ。


 ひとまず態勢を整えたところで、玄関先に放置したままの澄乃のバッグに近付く。


 大きめの、二、三日分の着替えが入りそうなボストンバッグ。これ自体が物語る事実に、雄一はぐっと唇を噛み締めた。


 澄乃が何があったのか。実際のところ、ある程度の見当はついている。


 恐らく澄乃は三日前の宣言通り、実家に一度帰った。そして親と話し合いをして……結果はダメだった、ということなのだろう。本人の口からそう聞いたわけではないが、原因なんてそれ以外に考えられない。


「くそっ……」


 そんな悪態が雄一の口から漏れた。


 決裂の可能性があることは少なからず理解していたはずなのに、いざそれを前にすると苦虫を噛み潰したような気分になる。


(澄乃の何がダメだってんだよ……)


 自分の行いを真摯に悔いて、償おうとしているのに。それとも澄乃が起こした“罪”は、そうまでしても許されざるものだというのか?


 正直……そうは思えない。


(今は考えてる場合じゃないな)


 情報の乏しい段階であれこれ考えても意味は無い。とにかく今は、澄乃の心のケアが最優先だ。


 バッグを開けて中身を探る。幸い防水性の高い素材でできているのか、表面はともかく奥の方までは水も沁みていない。すぐに淡いピンク色のパジャマと、それから見慣れない小さめのケースが目に付く。何だろうと思ってファスナーを開けると色取り取りの布地が視界に映り込み、それらが何であるかを理解した瞬間、即座にファスナーを閉じる。


 ……とりあえず寝間着と、その下に着けるもの・・・・・・・・・の用意はできた。さすがに選ぶわけにもいかないのでケースごと持っていくが。


「……ん?」


 洗面所の方へ持っていこうとパジャマを手にしたところで、ふとした疑問を覚えた雄一は動きを止める。


 手にしたパジャマは澄乃の几帳面な性格が現れたのように、丁寧に折り畳まれている。シワも乱れも無く、まるで洗い立てのままの清潔な状態だ。見ればバッグの中の衣服はどれもこれも似たような状態で、だからこそ雄一の疑念はさらに深まる。


 普通、着用した衣服には多少のシワなり乱れがあっていいはずだ。なのにバッグの中の衣服には使用した形跡が見られない。これではまるで出掛けた後というより、出掛ける前のような……。


(……って、だからそんな場合じゃないっての)


 この期に及んで浮かび上がる余計な思考を振り払い、必要なものを持って洗面所へと向かった。ゆっくりと扉を開けて澄乃が浴室内にいることを確認してから、磨りガラス越しに彼女に声をかける。


「澄乃、着替え置いとくぞ」


「うん、ありがと……」


 ちゃぷんと、お湯が跳ねる音。身体が温まったことである程度気分も持ち直したのか、澄乃の声も先ほどより少しだけ明瞭だ。


 だから雄一は思わず、思っていたことを訊いてしまった。


「親との話し合い、ダメだったのか……?」


 口にしてから、しまったと思った。結果なんて澄乃の状態を見れば察しもつく。なのに実は違うんじゃないかと、もしかした別の答えが返ってくるんじゃないかと期待してしまった。


 そんな一縷の望みを託した雄一の問いに――今にもかき消えそうな声が答えた。


「……ぃけなかった」


「え……?」


「昨日、会いに行くってメールして……それで、今日……駅まで行って……そしたら電話、来て……来ないでって……言われ、ちゃった……っ」


 絞り出すような嗚咽混じりの声。深い悲しみが濁流となって雄一に押し寄せ、澄乃の言葉が届くたびに心が息苦しくなる。


「……私……行けなかった……。行けなかったよぉ……っ!」


 その言葉を最後に、浴室からはくぐもった嗚咽だけが響いた。本当なら大声を出して泣きたいだろうに、それを必死に押し殺すように、ずっと。


「――んだよ、それ」


 雄一はその場に力無く座り込む。


 来ないで……?


 散々澄乃からの連絡を無視して、やっと返したと思ったら、そんな突き放すだけの一言で終わり……?


 親子の関係を修復しようと、仲直りしたいという澄乃の想いに――


(向き合うことすらしねぇのかよ……!?)


 拳に力がこもる。口の中に鉄の味が広がる。怒りで気がどうにかなりそうだった。


 話し合った上での結果なら、まだいい。だがこれはそれ以前に問題だ。


 あまりの残酷な結果に、やり場のない怒りだけが募る。


 けれど今の雄一には、それを吐き出す術は見つけられなかった。

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