第64話『苗字か名前か』

 澄乃と二人、学校の図書室で夏休みの宿題に取り組んでいた日のこと。


「やっほー、お二人さん」


 休憩がてら購買地下の自販機コーナーを訪れた二人が出くわしたのは、缶コーヒー片手にスマホをいじる紗菜だった。


「おっす。紗菜は部活か?」


「そんなとこ。今日はもう終わったけどね」


 時間はお昼を少し過ぎぐらい。午前中だけの活動だったということだろう。


 紗菜と会話を続けつつ、雄一は立ち並ぶ自販機の一台に小銭を投入する。


「そっちは? 二人とも部活には入ってなかったよね?」


「図書室で夏休みの宿題。白取と一緒にな」


「ほう、一緒にね」


 何やらニヤリと口角を歪める紗菜だが、自販機下の排出口から缶の炭酸飲料を取り出している雄一はそれに気付かない。一方気付いた澄乃は、ほんのりと頬を染めて苦笑を浮かべた。


「一緒にやるのはいいけど頼り過ぎないようにね。あんまり雄一を甘やかしちゃダメだよ、澄乃?」


「ふふ、大丈夫。英河くん真面目だから、紗菜ちゃんが心配するようなことにはならないよ」


「……ん?」


 訝しげな視線を向ける雄一に、きょとんと首を傾げる澄乃と紗菜。


「どうしたの、英河くん?」


「いや、いつの間に名前で呼び合うようになったんだなと……」


 二人が一緒にいるところを見たのは、試験明けに雅人も含めた四人で外食した日が最後だったろうか。その頃はまだ苗字で呼び合っていたはずだが。


「まぁ、色々とねー、澄乃」


「そうだねー、紗菜ちゃん」


 示し合わせたように美少女二人は笑い合う。雄一が知らない間に色々あったのだろう。


 交友関係をとやかく言うつもりはないし、仲が良いのは大変よろしいことなのだか、なぜだか少し疎外感を感じてしまう。そんな感情が少し滲んでしまった「ふーん」という雄一のややそっけない返事に、紗菜はキラッと目を光らせた。


「どうした雄一? 嫉妬かな、嫉妬しちゃったのかな?」


「そんなんじゃねぇよ。女子同士で仲良くするのは普通のことだろ」


「あははっ、拗ねない拗ねない!」


 やけに楽しそうに背中をバシバシと叩いてくる紗菜。地味に痛いので適当な力加減で振り払うと、少しだけ距離を離した彼女が雄一と澄乃を見比べた。


「というかさ、二人は名前で呼び合ったりしないの?」


『……え?』


「な・ま・え。わざわざ一緒に勉強するぐらい仲良いんだし、名前で呼び合っても全然おかしくないと思うけど?」


「それは……」


 チラッと横に視線をやると、同じタイミングでこちらを向いた澄乃と目が合う。少しだけが頬が熱くなった。


 お互いの呼び名に関して、今まで特には気に留めなかった。澄乃がどうかは知らないが、少なくとも雄一はそうだ。気に留めなかった故に、呼び名が名前に変わったとしても別に構わないはずなのだが……想像すると気恥ずかしいものを感じてしまう。


 なぜだ。それこそ紗菜のことは名前で呼んでいるのに。


「というわけで、試しに呼び合ってみよう」


 微妙な居心地の悪さを感じていると、パンと手を叩いた紗菜が雄一たちを強引に促す。その勢いに流されるままに澄乃と顔を向かい合わせると、先に動いたのは澄乃の方だった。


「……雄一、くん?」


 ――ドクンと、雄一の胸が大きく高鳴る。自分の名前を呼ぶ薄い桜色の唇に、どこか甘さを感じるその声音に、胸の奥がざわついて仕方がない。


 期待の込められた藍色の瞳がこちらを見上げてくる。


「……す、澄乃?」


 つっかえながらの不格好な言葉。けれど目の前の少女はふんわりと頬を弛ませて、「うん」と嬉しそうに返事をしてくれた。


 その魅力的な表情は、直視するにはあまりにも厳しい。度合いで言えばプールで密着した時の方がよほど恥ずかしいはずなのに、どうしてこんなにも胸の奥がざわついてしまうのか。


 逃れるようにそっぽを向くと――今度はニマニマと意地の悪い笑みを浮かべる紗菜と目が合う。


 澄乃からの名前呼びの衝撃が強くて、彼女がすぐ近くにいることをすっかり忘れていた。


 二つの笑みに晒された雄一は、羞恥を隠すように缶ジュースのプルタブを開けて勢い良くあおる。


 炭酸の強い刺激に、当然むせた。











「あ、そういえば、今年の花火大会はどうする?」


 ゲホゲホと咳き込む雄一の背中を澄乃が甲斐甲斐しくさする傍ら、ふと思い出したように紗菜が尋ねる。


「ああ、今年はそろそろだっけか?」


 ようやく呼吸の落ち着いたところで澄乃に礼を言うと、雄一は納得するように呟く。ただ一人、澄乃だけは二人と違ってきょとんと疑問符を浮かべていた。


 そんな澄乃の様子に、紗菜は「あ、そっか」と言葉を漏らす。


「澄乃が引っ越してきたのって去年の冬だから、知らなくて当然か」


 紗菜は手にしていたスマホをいじると、ややあってからその画面を澄乃へと向ける。


 納涼花火大会――そんな見出しの下には、夏の夜空に咲く大輪の花が映し出されていた。


「この近所で毎年やっててさ、結構大規模で人気の大会なんだよ。それに合わせて近くの神社でお祭りも開催。去年は雅人も入れて三人で行ったんだけど、今年は澄乃も一緒にどう?」


「花火……。日にちは?」


「えーっと、今年は……十八日だね。花火の打ち上げ自体は夜だけど、お祭りは夕方ぐらいから始まるかな」


 紗菜から伝えられた日付を繰り返し呟きながら、スマホを取り出した澄乃は画面に指を走らせる。予定を確認しているのだろうけど、その表情は少し思案顔だ。


「あれ、ひょっとして予定入ってる?」


「うん、まだ確定してるわけじゃないんだけどね。でも十八日なら……うん、大丈夫。私の方の予定はたぶん、花火大会の二、三日後になると思うから」


「じゃあ澄乃は決定ね。雄一は? サークルの予定とか大丈夫?」


「撮影はぼちぼち始まってるけど、俺が本格的に絡むのは八月の最後の方。というわけで俺も問題なし」


「オッケー雄一も決定と。雅人には私の方から声かけとくね」


「頼む」


 予定が決まったところで、紗菜はスマホの方に視線を戻した。早速雅人にメッセージを送っているのだろう。


「花火大会かぁ……ちゃんと行くのは初めてかな。英河くんは毎年行ってるの?」


「そうだな。それこそ別に用事でも入らない限りは」


 早くもワクワクと目を輝かせている澄乃に、雄一は微笑ましいものを見る目でそっと苦笑を浮かべる。


 ――ちなみにだが、名前呼びの件は一旦保留となった。慣れるにはまだ時間がかかる。澄乃は少し不服そうに頬を膨らませていたけれど、もう少しだけ待って欲しい。


(花火大会か……)


 花火大会、そしてお祭りと言えば、浴衣という単語も自然と浮かぶ。もしかして、澄乃の浴衣姿を見れたりするのだろうか。


(いや、さすがに厳しいか)


 少し失礼な考えかもしれないが、プールに誘われるまで水着を持ってなかった人間が、浴衣を持ち合わせているとは思えない。仮に持っていたとしても、着付けだなんだと色々な準備だっている。そう易々と期待していいものでもないだろう。


 一抹の落胆を心の底に沈め、雄一もスマホのスケジュールアプリに花火大会の予定を書き込むのだった。


「…………」


 ――紗菜の瞳の奥に、妖しい光が宿っているとも知らずに。

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