第63話『温もりと匂い』

「ご利用ありがとうございましたー」


 受付スタッフの挨拶に押されるように、雄一と澄乃は『サマシャン』を後にする。空を見上げれば茜色に闇が混じり始めたぐらいで、だいぶ長い時間遊んでいたことを物語っていた。体感ではむしろ短いぐらいに感じたのは、施設の充実ぶりか、それとも一緒に遊んだ相手のおかげか。


「はー、楽しかったねー!」


 ちらりと視線を送れば、隣を歩く澄乃は溌剌はつらつとした笑顔を咲かせている。同意するように雄一が「そうだな」と大きく頷くと、さらに笑みを深くして横髪をかき上げた。雄一を待たせまいと手早く帰り支度を整えてきたのか、やや生乾きの髪が肌に張り付く光景は少し艶めかしい。


 あの密着事件からも、雄一たちは『サマシャン』の様々な場所を遊び倒した。無論、いつも通りに戻るまでにはある程度時間を要したが、遊びに没頭していればそれも段々と和らいでいき、最終的には気兼ねなく楽しむことができた。


 波のプールで一泳ぎしたところで時間もそろそろ、澄乃の体力的にも切り上げ時かと思い、充実したプール遊びを締めくくったのである。


「にしても、まさか最後にこれが貰えるとはな……」


「あはは、確かに」


 駅までの送迎バスを待つ傍ら、苦笑混じりの雄一が持つのは一枚の白い封筒。澄乃も同じものを持っていて、外身だけでなく中身も同じものだった。


 その中身は、今日のお昼に『サマシャン』の広報――夏樹の手によって撮影された、まさに恋人のような瞬間を切り取った写真である。事前に話を通していたのであろう、受付でロッカーキーを返却する時に、スタッフから「記念にどうぞ」と言って手渡された次第だ。


 お互いそれぞれ一枚ずつ。実に高画質でプリントアウトされていて、その分見ていると羞恥がぶり返してきそうなので、雄一は早々に鞄の中に仕舞い込んだ。


 ……まぁ、帰ったらホワイトボードに飾るぐらいはしておこう。


「ふふっ」


 澄乃はすぐに鞄に仕舞わず、写真を眺めて嬉しそうに頬を弛ませている。雄一としてはそれはそれで羞恥を覚えるのだが、澄乃の満足そうな笑みには何も言えない。


「――くしゅん!」


 その時、不意に吹いた風に澄乃がぶるっと身体を震わせた。


(意外と肌寒いな……)


 日が落ちてきているのもあるが、今の気温は少し低めだ。日中がプール日和と言えるぐらいに高かったために、その寒暖差がより明確に感じられる。薄着でなおかつプール上がりの澄乃には少し堪えるかもしれない。


 着ていたパーカーを脱いだ雄一は、それを澄乃の両肩にそっとかけた。自分の身体よりも一回り大きい上着をかけられた澄乃が、「えっ?」と弾かれたように雄一を見上げる。


「着とけよ」


「でも、英河くんが……」


「俺が鍛えてるのは白取も分かってるだろ?」


 強調するように自分の胸を拳で叩く。


「……そんなこと言って、また風邪引いたりしない?」


「しないよ。――いやマジでやせ我慢とかじゃないからその目やめてくれません?」


 じとーっと疑わしい視線を向ける澄乃だが、雄一のその言葉で目力を緩め、代わりに柔らかい笑みを浮かべる。


「じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとう、英河くん」


「どーいたしまして」


 改めてパーカーを羽織い直す澄乃。袖こそ通さないが、しっかりと胸の前まで引き寄せて上半身を包み込む。


「えへへ、あったかい」


 ふにゃりと幸せそうな笑みを零す澄乃に、雄一は「……そりゃ良かった」とややぶっきらぼうな返事をするのだった。













「ふぅ……」


 二十一時を少し回った頃、入浴や髪の手入れを終えた澄乃は自室のベッドに腰掛けて人心地ついた。ふと思い出したように鞄を引き寄せると、サイドポケットから白い封筒を取り出し、中に入った一枚の写真を手に取る。


 自分が雄一に『あーん』をした瞬間を切り取った一枚。そこに写っているのは、まるで仲睦まじい恋人のような二人だった。


「えへへ……」


 実際のところ違うというのは理解しているが、それでも頬がだらしなく緩むのは止められそうにない。また一つ、大切な思い出ができた。


 ひとしきり眺めた後、写真は机の引き出しに大事に仕舞って――近い内にフォトフレームでも買ってこよう――今度は椅子にかけたパーカーを手に取る。


 帰りに雄一が貸してくれたもので、結局最後まで借りたまま終わってしまった。駅での別れ際に返そうとはしたけれど、「今度でいいよ」と言って押し付けられてしまったのだ。


 家に着くまで寒くないように――そんな雄一の気遣いが、たまらなく嬉しかった。


 ちなみに例によって例の如く、雄一からは自宅まで送っていくことを提案されたのだが、丁重にお断りさせてもらった。本音を言えばできるかぎり一緒にいたいけれど、あまり負担はかけたくないし、時には自制しないと気持ちが抑えられなくなりそうだから。


 それにまぁ……今日はただでさえ、物理的に近付くことが多い日だったし。


 甦ってきた羞恥を深呼吸で押しとどめると、手にしたパーカーをじっと見つめる。


 一度洗濯してから返すつもりだが。


(どうせ洗濯するし、ちょっとだけ良いよね……?)


 不意に湧き上がってきた欲望に誘われるまま、澄乃はささっとパーカーを着る。今度はしっかり袖を通して、チャックも閉めて、ついでに室内なのにフードも被ってしまう。


 雄一の私物であるパーカーは当然澄乃には大きく、かなりダボついた感じだ。でも着心地は不思議と良く、雄一との体格の違い――その逞しさが感じられるようで身体の芯が熱くなってくる。


 指が軽く出るぐらいの袖元を鼻先に押し付けて、すんすんと鼻を鳴らす。


(英河くんの匂いがする……)


 今日、図らずも抱き合うように密着した時にも感じた匂い。直接じゃないぶん少し薄く感じるが、それでも胸が高鳴るし、逆に落ち着きもする。


 そういえば、いつかのオリエンテーションで雄一に背負われた時も、同じように彼の匂いに安らぎを覚えていただろうか。


(ひょっとして私って、匂いフェチ……!?)


 突如発覚した自らの性癖に驚くのも束の間、まぁそんなことどうでもいいやと言わんばかりに大きく息を吸い込む。そのまま衝動に突き動かされるようにベッドに倒れ込めば、まるで想い人に抱き締められて眠るようで。


「ふぁぁああ……」


 澄乃の口からどこか恍惚とした吐息が漏れ出た。


 とても良い。このまま眠りにつければどれほど幸せだろうか。なんだかんだお弁当を作るために早起きもしたので、眠気のピークも普段より来るのが早い。


 でも、まだダメだ。


 ランチボックスは水に漬けただけでまだ洗ってないし、パーカーだってこのままだと皺になるかもしれない。ちゃんとハンガーにかけて、明日洗濯しなければ。


 それは、分かって、いるのだけど。


「あと五分……」


 思わず漏れた呟きに口を挟む者はおらず、澄乃の意識はそのままゆっくりと――……。














 後日。


 一緒に夏休みの宿題を片付けようと、生徒に開放されている学校の図書室で、雄一と待ち合わせした時のこと。


「あ、あの、英河くん。これ、この前のパーカー……ありがとう……」


「おお。……ん?」


「ど、どうしたの……?」


「いや……これ、ひょっとして、洗濯だけじゃなくてアイロンまでかけてくれたのか? そのまま返してくれれば良かったのに」


「いやっ、あのっ……ほ、他のもやる予定だったから、ついでにみたいな……!」


「そっか。ありがとな」


「ど、どういたしまして。あ、あはは……」


 幸いなことに、澄乃の渇いた笑いを雄一が気に留めることはなかった。

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