第53話『飴と鞭』
雄一が目を覚ました時、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
窓から差し込むのは外の街灯からの微かな光だけ。朧気な視界の中、サイドテーブルに置かれた照明のリモコンを掴んでボタンを押す。パッと点いた明るい光に目を細めて、雄一は身体を起こした。
(白取は……?)
寝る直前まで看病を続けてくれた澄乃の姿を探すが、室内にいるのは自分一人だけだ。キッチンの方からも気配は感じられないので、さすがに帰ったのかもしれない。
と、なんとなく巡らせていた視線がサイドテーブルの上で止まった。用意していたスポーツドリンクのペットボトルの下に一枚のメモが挟まれている。
手に取って内容を確認してみると、それは澄乃からの置き手紙だった。
『英河くんへ。暗くならない内に帰ります。後片付けは終わってるのでゆっくり休んでください。もし明日も体調が悪いようなら看病しにいくので、ちゃんと教えること。お大事に』
達筆な字の下には、うってかわって可愛らしい絵柄で『FIGHT!』とガッツポーズするパンダのイラストが描かれていた。そのささやかな遊び心に思わず笑みが零れてしまう。
ちなみに、“ちゃんと”の部分は二重線が引かれて強調されている。分かっていたことではあるが、雄一が風邪をごまかしたことにはだいぶご立腹だったようだ。
心の中で一度謝罪を述べてから、雄一はベッドから起き上がる。
たっぷり汗をかいた身体からは気怠さが無くなっていて、体調がかなり良くなったことを物語っていた。もちろんまだ本調子というほどではないものの、この分なら熱もそう高くないだろう。試しに体温計で熱を測ってみると、液晶画面には『36.8℃』という数字が表示された。
汗を流すために、適当な着替えとバスタオルを引っ掴んで浴室へ向かう。寝る前に比べればずいぶんと身体も軽い。
薬が効いたというのもあるが、何より決め手となったのは澄乃の手料理だろう。
消化に良く、疲労回復に効果のある豚肉やネギを盛り込んだ雑炊。味も申し分ないどころか想像以上で、たった一食で澄乃の手料理の虜にされてしまった。
如何ほどのレパートリーがあるかは分からないが、きっと他の料理も絶品であることだろう。できれば元気な時にまた食べてみたい。
(まぁ、さすがに高望みか……)
今回振舞ってくれたのは、あくまで風邪を引いた雄一に気を遣ってくれたからに過ぎない。これといった理由も無しに作ってもらうのも気が引けるし、澄乃にとっても負担になるだろう。
たまたま降って湧いた幸運と割り切るしかあるまい。
「晩飯どうすっかなぁ」
シャワーを終えて新しい寝間着に着替えたところで、ちょとした問題に行き当たる。
減退しつつある病原菌にトドメを刺すためにも、夕食後の薬の服用は欠かせない。しかし昼にしっかり食べた分、今はそこまでの食欲を感じていなかったのだ。
補充しておいたゼリー飲料でいいかと結論付けて冷蔵庫を開けると、一つの物体が雄一の目に留まった。
「何だこれ?」
それは汁物の保管で重宝する、底の深い丸型のタッパーだった。物自体は以前に購入したものではあるが、今はこれといって作り置いている品など無かったはずだ。
中身は……スープだろうか?
不思議に思って手に取ると、タッパーの下にまたもやメモが挟まれている。先ほどと同様、澄乃からの書き置きだった。
『昼に余った具材で簡単なスープを作っておきました。良かったら食べてください』
「隙が無いな……」
ここまでくると驚きを通り越して感動だ。
手厚いアフターケアはもちろんのこと、買った食材を余すことなく活用している辺り、澄乃の料理スキルの高さを改めて思い知らされる。
きっと良いお嫁さんになれることだろう。今さらになって、澄乃の料理風景を見ておかなかったことが残念でならない。
それはそれで大人しく寝てなさいと怒られるだろうけど。
とにもかくにも、せっかく用意してくれたのだからご相伴に預かるとしよう。
電子レンジで温め直した後、今度はちゃんと最初に「いただきます」と手を合わせてからスープを口にする。
「うめぇ……」
時間を置いても、やっぱり絶品だった。
翌日の朝。
体温計からも『36.4℃』という太鼓判を押してもらった雄一は、さっそく快復したことをメッセージアプリで澄乃に伝えた。
看病へのお礼、作り置きのスープが美味しかったこと、それと万が一を考えて風邪がうつってないかの確認。五分後ぐらいに既読マークが付いたと思ったら、すぐに澄乃からメッセージが返ってきた。
『電話してもいい?』
了承の返事の代わりに通話ボタンを押すと、短いコール音の後に電話口に澄乃が出る。
『もしもし?』
「もしもし。どうかしたのか? あ、もしかして風邪がうつったとか……?」
『ううん、私は大丈夫。ただ、英河くんの声が聞きたいなーと思って』
「え」
不意打ちの言葉に雄一の身体が硬直する。何だ、その恋人を相手にするような口振りは。
『んー……うん、声を聞いた感じも元気そうだし、体調が良くなったのは本当みたいだね』
(あ、そういうこと……)
単純に雄一がごまかしていないかを確認したかっただけらしい。微妙に残念な気持ちを覚えつつ、雄一はスマホの向こう側の澄乃に唇を尖らせた。
「何だよ、信用してくれてなかったのか?」
『だって前例があるもん。疑うのは当然です』
「そーですね……」
そもそも言い返せるわけもなかった。澄乃からの的を射た指摘には白旗を上げるしかなく、雄一は素直に「すいませんでした」と謝罪する。
澄乃が小さく笑う声が聞こえた。
『でも良かった。英河くんが元気になってくれて』
「白取のお陰だよ。本当にありがとな」
『気にしなくていいよ? 元はと言えば、私の帽子を取ろうとしたのが原因だったわけだし』
「俺が勝手にやっただけだ。それこそ白取が気にすることじゃない」
『でも……。ふ、ふふっ、私たちっていつもこんな感じだね。お互い気にするなーって言い合ってばかり』
「だな」
もはや二人にとっては予定調和。そんな二人だけの共有に得も言われぬくすぐったさを感じてしまい、雄一は気持ちをまぎらすように頬を掻いた。
『ところで英河くん』
電話越しで澄乃が居住まいを正すような気配がした。
『昨日私が言ったこと、覚えてる?』
「ん? ……ごめん、何だっけ?」
『色々と言いたいことはあるけど……治ってからね?』
「…………」
にっこり。
昨日のとっても穏やかな笑顔が頭に浮かび、雄一の頬がひくっと引き攣る。
「……えっ、いや、それに関しては今さっき謝ったんじゃ……」
『英河くん』
「や、あの、本当に反省してるんで……もうこういうことはないように心掛けるから……」
『英河くん』
「はい」
それからしばらく、澄乃からお説教と風邪予防に関する諸注意などを懇々と説明されることになった。
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