第52話『今はまだ』

 カチャカチャと、食器や調理器具の重なる音がキッチンに響く。スポンジ片手に昼食の後片付けに勤しんでいた澄乃は、大振りな土鍋に取り掛かろうとしたところで淡く微笑んだ。


 綺麗さっぱりと空になった土鍋。雄一の風邪も考慮すれば少し残るぐらいかもと思ったのに、予想に反して全て平らげられてしまった。


 消化に良いとはいえ量が量だ。風邪を引いた身体に無理はさせない方がいいのではと心配したけれど、雄一は「美味いから仕方ない」と言って食べる手を止めなかった。


 もりもりと雑炊を食べる雄一の姿を思い出して、澄乃は一段と笑みを深める。


 一通りスポンジで汚れを落としたので、蛇口を捻って冷水で泡を落としていく。後々の乾燥も考えたら温水の方が良いのだが、ちょっとした諸事情で冷水を選択した。


(喜んでくれて良かったぁ……)


 気付かない内に張り詰めていた緊張を解くように、ほぅと息を吐く。緊張で少し火照り気味だった身体には冷水がちょうど良かった。


 誰かに手料理を振舞う。それは澄乃にとって、ほとんど初めてに近い経験だった。


 料理に手慣れる頃には親との関係は疎遠になっていたし、一人暮らしを始めてからはもちろん食べてもらう相手などいない。栄養バランスや節約を考えて作って、それを全部一人で食べるだけ。美味しく出来上がった時は嬉しくもあったが、それ以上の喜びを感じることなど無かった。


 でも、今は違う。


 誰かに――“好きな人”のために作って、そして「美味しい」と言ってもらえることが、こんなにも嬉しいことだなんて、こんなにも心が満たされるものだなんて、知らなかった。


 人を好きになれば世界が変わる。そんなどこかで聞いたようなよくあるフレーズが、今は紛れもない真実だと実感できる。


 洗い物を続けながら、ふと思う。


(英河くんって、食べ物だと何が好きなんだろう? やっぱり男の子だし……唐揚げとか、ガッツリ系? 今度それとなく訊いてみようかなぁ)


 できれば作ってあげたい。そして……また、美味しいと言ってもらいたい。


 一度考え出したら色々と欲が止まらなくて、澄乃はそんな自分に苦笑を浮かべた。


 早くも次の機会に期待してしまうなんて、自分はずいぶんと欲張りだ。


(べた惚れだなぁ、私……)


 少しでも余裕があれば、頭に思い浮かぶのは雄一のことばかり。好きだと気付いたのはつい昨日のことだというのに、我ながらびっくりするぐらいの入れ込みようだ。


 まぁ、あくまで自覚したのが昨日という話で、たぶんもっと前から……とっくに好きになっていたんだと思うけど。


「よしっ」


 洗い物と、それに加えてちょっとした準備も終えて、澄乃はキッチンを後にする。洋室に繋がるドアをゆっくりと開けて、なるべく音を立てないようにベッドへと近寄る。


 ベッドの上では、雄一が安らかな寝息を立てていた。


 昼食の後に飲んだ薬が効いているようで、最初の時と比べて顔色もだいぶ良くなってきている。順調に快復に向かっていることに安心して、澄乃はベッドのすぐ側に腰を下ろした。


 そのまま寝ているのをいいことに、想い人の寝顔をじっくりと眺めてみる。


(ふふっ、なんだか可愛い)


 普段のヒーローらしい強い意志を感じさせる表情も好きだけど、こういったゆるゆるで無防備な表情も悪くない。むしろ好き。


 昨日はこちらの寝顔を見られてしまったことだし、その分余すことなく堪能させてもらおう。そもそもうっかり寝入ってしまった自分が悪いことを棚に上げて、澄乃はより一層視線を注ぎ込んだ。


 ……それにしても、風邪であることを隠したことにはちょっとだけ怒りが込み上げる。


 まったく、ひょっとしてたまたま会えたりしないかなぁなんて期待して、わざわざ雄一の自宅方面に足を運んでいなければ、どうなっていたことやら。


「もっと頼ってくれてもいいのになぁ……」


 小声でぼそっとごちる。


 もっとも、そうやって他者に心配をかけまいとする一面も好ましいのだけれど。結局自分は、相手が雄一というだけでどんなところでも好きになってしまうのかもしれない。なるほど、これが惚れた弱みというヤツか。


 べた惚れであることを再認識して、澄乃は頬をほんのりと朱色に染めた。


 ――雄一のことが、もっと知りたい。自分のことも、もっと知って欲しい。


 そんな想いが胸の奥から溢れて止まらない。


 本音を言えば今すぐにでも、この溢れんばかりの“好き”だという気持ちを伝えたかった。


(でも……まだダメだ)


 澄乃の顔に少しだけ影が差す。


 雄一に想いを伝えて、仮に彼がそれを受け入れてくれたとしても……今の自分には、そんな幸せを享受する資格は無い。


 だって自分は逃げてきてしまったのだから。たとえどんな理屈を並べたとしても、その事実だけは変わらない。


 だからそれに決着を付けるまでは、刻んできてしまった傷を埋めるまでは――この想いは伝えない。それは澄乃にとっての譲れない一線だ。


 実のところ、すでに親にはメールやメッセージで連絡をしているのだ。でも未だに返事は一つも無い。もう少し時間がかかると思うし、そう易々と終わる話でもない。


 でも諦めたりはしない。


 ちゃんと全部終わらせて、胸を張って貴方の前に立てる日が来たら、その時は。


「さてと」


 澄乃は重い腰を上げる。


 そろそろお暇(いとま)するとしよう。本当はとても名残惜しいけれど、いつまでも長居するのも迷惑だ。それに空もだいぶ夕焼けが広がっているので、暗くならない内に帰った方が良い。


 そうじゃないと、きっと雄一のことだから送っていくなんて言い出しかねない。風邪を引いて大変な時ぐらい、そういうことには気を遣わずに休んで欲しい。


 好きな人ともっと一緒にいたい欲をなんとか振り払い、澄乃は身支度を整える。帰ろうと玄関の方に足を向けたところで、もう一度だけ雄一に近寄った。


(ごめん。ちょっとだけ、甘えさせて……)


 起こさないようにゆっくり。


 そーっと雄一の顔に自分の顔を近付けて――ほんのちょっとだけ、その頬に唇を触れさせた。


「お大事に、英河くん」

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