第37話『勇気を出して』
澄乃の住むマンションへの帰り道。歩道側を彼女に譲りながら、その歩幅に合わせたリズムで雄一は歩き続けていた。辺りはすっかり暗くなっていて、ある程度人通りのある道を選んでいたとしても、やはり女子高生を一人で帰すのは心配だ。特に澄乃のような外面内面共に魅力的な少女なら尚更。
「あ、あの……英河くんって、夏休みは忙しかったりするの?」
駅から引き続き、何故か緊張気味の澄乃が問い掛けてくる。
夏休みの予定に関しては、先ほどの打ち上げの際にも話題に上がった。雅人や紗菜は部活で忙しいらしいが、帰宅部である雄一はそういう意味では割と暇だ。
「今んとこの予定だと『特撮連』の活動があるぐらいかな。今年は自主制作の短編映画を撮ることになってて、その撮影をする期間は忙しくなりそうだ」
「へえ、いつぐらいに撮影するの?」
「ぼちぼち脚本の決定稿ができるらしいから、それからアクションの練習とかも挟んで……八月の中旬か下旬だろうなあ。撮影自体は短期間に集中して撮り終えるつもりだってさ。まあ、夏休み入ってもすぐには忙しくならないと思う」
もちろんその分、学校から出された宿題をさっさと片付けてしまおうと思っているのだが。早く終わるに越したことはない。
「白取はどうなんだ?」
「うーん……私も部活に入ってるわけでもないから、結構暇な日は多いかも。ただ――」
そこで言葉を区切った澄乃が、ゆるりと夜空を見上げる。どこか遠くの何かに想いを馳せるような、そんな眼差し。
「親とのこと、どうにかしないと……って思ってる」
途切れ途切れの、けれど決意を滲ませたようなその言葉に、雄一は思わず目を見開いた。
どうにかしないと――それはつまり、今は疎遠になってしまった親との関係を修復しようということだ。
未だに雄一は、澄乃が親との間にどういった問題を抱えているか、その全容を把握し切れてはいない。簡単に踏み込める話ではないし、きっと澄乃自身をそれを望んでいない。けれど澄乃の取ろうとしている行動が、何度も何度も思い悩んだ上で決意したものであることは理解しているつもりだ。
「まあ、色々と準備もあるから、すぐにってわけじゃないんだけどね」
具体的な話が進んでいないことを恥じてか、澄乃が照れ臭そうに頬を掻く。少しだけ柔らかい表情を見せてくれたことに、雄一は気付かない内に強張っていた肩の力を抜いた。
いつかの触れただけで壊れそうな儚い笑顔が、今の澄乃に重なるようにフラッシュバックする。彼女はまた、あんな表情を浮かべることになるかもしれない。できれば浮かべて欲しくない――そう思うけれど、でもきっと、澄乃にとって乗り越えなければならない壁なのだろう。
なら雄一がやるべきことは、今の自分ができる最大限で彼女の背を押してあげることだ。
「白取」
足を止めて呼びかける。つられて足を止めた澄乃が「なに?」と顔を向けてきて、雄一はその藍色の瞳を正面に捉えた。
「もし俺が力になれることがあったら、その時はちゃんと言ってくれ」
藍色の瞳の奥――心の奥底に届けるように、はっきりとその言葉を口にする。
きっと澄乃のことだ。「これは私の問題だから」と言って、雄一を頼ろうとはしないだろう。それに歯痒さを感じることはあるけれど、彼女が考え抜いた上での選択だというのならその意思は尊重しようと思う。それでも、澄乃は決して一人じゃない。少なくなとも自分はその後ろにいるから、せめてそのことだけは覚えていて欲しい。
そんな想いを込めて澄乃を見つめ続けた。
雄一の言葉を聞いて見開かれた藍色の瞳は、やがて柔らかく細められ、澄乃の唇が緩やかな弧を描いた。
「――うん、ありがとう。そう言ってくれるだけで十分だよ」
心配しないでと、そう言いたげに澄乃は笑う。心配ぐらいさせろと言い返したくなるけれど、澄乃の意志は尊重しようと思ったばかりだ。口をついて出そうになる言葉を押し込めて雄一も同じように笑みを浮かべた。
「ところで、ちょっと話戻るんだけどね……」
「うん?」
急に伏し目がちになる澄乃。先ほどまでの柔らかい微笑みは鳴りを潜め、今度は落ち着かないように視線が雄一と地面を行ったり来たりしている。
「とりあえず英河くんは、夏休みの最初の方は予定が空いてるってことでいいのかな……?」
「まあ、そうだな。今のところは特別何も無い」
「……だったら」
鞄を開いて手を差し込んだかと思うと、澄乃はすぐさま何かを取り出してずいっと突き出してきた。白く綺麗な手が雄一の眼前で止まり、微妙に震える指に摘ままれたぺらぺらの薄い物体に雄一の意識が奪われる。
すぐに焦点の合った視界で認識したものは、二枚の横長の紙。大きさは手の平から少しはみ出るぐらいで、全体的にカラフルな色合いで写真や文字が印刷されている。
そんな豊かな色彩とは真逆、白い頬を赤一色でこれでもかと色付かせた澄乃が大きく口を開く。
「こ、これ……っ! 一緒に、行かない……!?」
絞り出すような声と共にさらにずずいっと突き出される、俗に“チケット”と呼ばれる横長の紙。
それはいつかのオリエンテーションの景品――有名テーマパークのフリーパスペアチケットであった。
結論から言うと、オリエンテーションのクラス対抗スポーツ大会の一位に輝いたのは雄一のクラス――二年一組だったのである。
かなり僅差の勝利だったらしく、色々と運も重なった結果だとか何とか。正直後半は澄乃の一件でそれどころではなかったので、雄一は実行委員の癖に閉会式の時に初めて知ったぐらいだった。
とにもかくにも一位になった以上、当然用意されていた景品が与えらることになったわけだが、ぶっちゃけ扱いに困るというのが本音だった。何せ用意されたペアチケットは三セット分。全員に配れるわけもない。
じゃあクラスの勝利に貢献した人に渡そうなんて意見も挙がったが、判断は主観混じりでどうしても曖昧なものになってしまう。というわけで結局、皆に平等にチャンスを与えようということで最後はくじ引きで決めることとなった。くじ引きの進行は全て担任の教師に一任して、後腐れの残らないよう誰が当選したかは分からないようにしてもらった。
雄一は四十分の三という狭き門を潜ることはなく、特別欲しいというわけでもなかったので、いつの間にかペアチケットの存在など記憶の彼方に消えていたのだが……。
「それ、白取が当たってたのか」
まさかこんなところで出くわすことになるとは思わなかった。
「この前の席替えもそうだけど、白取ってくじ運強いんだなー」
「へ? ――あ、そ、そうだね! なんか、たまたま当たっちゃったーみたいなっ。ぐ、偶然って怖いよねー!」
感心したように呟く雄一に、随分としどろもどろな返事をする澄乃。くじ運の強さに自分でも戸惑っているのかもしれない。
まあ、日頃から品行方正な彼女なのだ。幸運の女神に愛されていたとしても何ら不思議ではない。いや、むしろ澄乃自体が女神か。
「えっと、つまり、俺を誘ってくれてるってことでいいのか……?」
「う、うんっ。色々と調べてみたんだけど、この遊園地最近リニューアルしたとかで結構面白くて評判なの。だから日頃お世話になってる感謝も含めて、英河くんどうかなーって……」
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、別に気を遣わなくてもいいんだぞ? せっかく当たったんだし、白取の好きに使ってくれればいいさ」
「……ちゃんと好きに使ってるもん」
じっと雄一を見て、澄乃が形の良い唇を尖らせる。小さな子供がわがままをねだるような表情が可愛らしくて、雄一は思わずごくりと喉を鳴らした。
分かっている。澄乃の呟いた“好き”が決して恋愛的な意味でないことは重々承知している。なのに面と向かって“好き”と言われるだけで、どうしても胸の高鳴りを抑えきれない部分が存在する。
「それとも……ダメだったかな?」
(――っ、それ反則だろ……!)
不安に揺れる瞳で上目遣い。おまけに朱色に染まった頬は扇情的な雰囲気を醸し出していて、そんな魅力を前にすると到底断れるわけがなかった。
直視できない気恥ずかしさをごまかすように、雄一はがしがしと頭を掻く。
「あー、その……まあ、俺で良ければ喜んで」
突き出されたチケットの一枚を手に取ると、澄乃の顔に大輪の花が咲いた。
「ほ、ホントっ!? 嘘じゃないよね!?」
「嘘なわけあるかよ。夏休み入って最初の一、二週ならどこでも大丈夫だと思うから、日にちは白取が決めてもらっていいか?」
「分かった! あ、じゃあ連絡先交換しておこうよ。そういえば、今まで知らなかったし」
「お、言われてみればそうだったな」
誘いを受けてくれたことがよほど嬉しかったのか、澄乃はうきうきと制服のポケットからスマホを取り出す。メッセージアプリを起動して、登録用のQRコードを画面に呼び出し。雄一がスマホのカメラでそのコードを読み取ると、愛らしいパンダのアイコンと『白取澄乃』というフルネームが表示される。
適当な『よろしく』スタンプを送ると、澄乃の方は何回かスマホをタップして雄一の友達登録を済ませた。
「パンダ好きなのか?」
「うん! ちっちゃいパンダが寝そべったりしてるのって本当に可愛いんだよねえ。英河くんは……あはは、スタンプもアイコンもヒーローだ」
「そりゃあ好きだからな」
受け取ったチケットを鞄にしまいながら答えると、澄乃が「ふふっ」と笑う気配がした。鞄の口を閉じたことろでスマホから軽快な電子音。表示されていた澄乃とのトーク画面には、『楽しみー!』と書かれたプラカードを持ったパンダのスタンプが追加されていた。
目の前にいるのになんでまた……なんて思って顔を上げると、口許をスマホで隠して楽しそうに笑う澄乃の顔が目に映る。
本当につくづく反則で――魅力的な表情だった。
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