第18話 高潔たる魂の氣をつかめ
「まずは見取り稽古と言いたいところだけれど、そんな悠長にしていられる時間はない。 おいで、新君」
悠貴のそばへ近づくと、足元から氷が踏みつぶされたような音がして思わず足を止めてしまった。
悠貴を取り囲むように半径10メートルのサークル状に薄い氷の膜が地面を覆っている。
『砂利、時間を無駄にしてくれるなよ』
声の方へと視線をあげると、前方に見えた大きな舟形の岩の上で闇淤加美神が胡坐をかいてこちらをみていた。
何だろう。つい、さっきまで感じていた射るような視線ではなく、包み込んでくれるようなあたたかな感じがする。
闇淤加美神が美しい指先で耳を澄ましてみろというような仕草をして見せた。
聴け、そう言われている。
これは直感だ。
凛とした清流の響き、木々が揺れる葉音、この森に居る鳥たちのさえずり、そして、聴いたこともないような風の音がする。この風音は普通のものではない。
他者に己の五感が制御されていくような、不思議な感覚だ。
操作されているのとは違うが、明らかに誰かとリンクしている。
悠貴が弓を握る音、彼女が呼吸を整える音が脳内から聞こえてくるような感じたこともない何とも言えない感覚が襲ってくる。
「新君、大丈夫だよ。 君がおかしいんじゃない。 これは二六夜のなせる業なんだ。 君は今、私の術中に居る。 だから、君と私は今、リンクしている。 思考も感覚も何もかもが互いにつつぬけというわけだ。 心地悪いと思うが、私の微細な感覚のすべてを体感して得て欲しいからこらえてくれ」
悠貴が手をこまねくと俺の身体がそれに簡単に従っている。
冷や汗が悠貴の額から顎先へと伝い落ちる様をみて、俺ははっとした。
これはかなりの負荷をかけているのかもしれないと悟ったからだ。
「大丈夫だ。 私は君を導くと決めたからやりきる」
にこりと笑んだ彼女のほほ笑みは見せかけだけの美しさじゃない。
どう表現すれば正解なのかわからないけれど、この人の魂の放つ氣が水晶のように研ぎ澄まされている。
猛々しいほどの神氣を身に受けようとそれを和らげ、凪いでしまうほどの大きさと混じりけのない澄み渡った清流のような高潔の氣。
悠貴の指先が俺の左腕にのびて、そっと触れるだけで全身に電流が駆け巡ったような衝撃が来る。
生唾をごくりと飲み込んで、俺は小さく息をはくのがめいいっぱいだった。
俺のその様子を見て、闇淤加美神がくすくすと笑っている。
『吾らと絆を持つ月の者との差異がようわかったであろう? 砂利がまだ砂利だということを自覚できたか? 勿体ない、勿体ない。 さて、芽が出せるか? 見せかけの強さなど無用だ。 力だけでも、技だけでも足りない。 それを扱う者の魂の氣を知れ』
そうか、悠貴のもっている強さこそが俺の目指すべきものなのだ。
すぐ背後に居た公介の方をあわてて振り返ると、俺の初めての師匠はこれみよがしにどうだと言わんばかりの意地悪な笑みを浮かべている。
俺はうんとうなずいて、悠貴の目を見た。
悠貴が俺に弓を渡してくれて、手を重ねて、構えてくれる。
「新君、弓は引かないで良いんだ。 弓を押し開こう。 弦を自分から遠ざけるように上半身の力で弓を開く。 右肘は後ろに引くものではなく、弓を押し開いたことで自然に降りてくるものだ」
悠貴が一緒に引き分けをはじめてくれる。
何だ、これはと俺は息を飲んだ。公介とおこなっていたものとは違いすぎる。
「自分の体の前に弓を持ってくる。 でも、決して右手を自分の体に引き寄せようとしてはいけないよ。 弦をこうやって押すように動かすんだ。 押し動かした弦は自分の体の外側を通すようなイメージで、少しづつ丁寧に押し開いていく。 新君、腕の力だけに頼っちゃいけない。 もう一度、引き分けだけをするよ」
怖いくらいに押し開くという動作が身体にしみこんでくる。
矢を持っていないのに、そこには矢があるような感覚すらくる。
悠貴の引き分けは力が入っていないのに、綺麗にまっすぐで、ぶれがない。
「会からの離れは意識しなくて良い。 離れは自然なものだから、離そうとしないで良い」
悠貴の指先の感覚だけでなく、全身の使い方が俺の身体に流れ込んでくる。
「癖のない引き分けは公介さんに感謝すべきだけれど、まだ、腕の力に頼ろうとしている。 良いか? 君はこれを戦闘に使用する。 疲労が蓄積するような引き分けをするな」
繰り返し、繰り返し、悠貴は矢を番えずに俺に引き分けを教え込もうとしてくれる。じわりと押し開くの意味がわかってきた俺に、彼女はにこりと笑った。
「うまくなってきた。 うん、良い感じだ。 ただ、君の的は動く。 それも縦横無尽に動き回り、不規則な加速もするだろう。 これだけでは不十分かもしれない。 だけれど、引き分け、会、離れの動作を間違わなければ外すはずがないんだ」
矢は君の意志でまっすぐに飛ぶのだからと悠貴が言った。
そして、悠貴が公介に向かって意味ありげな視線を投げた。
「さて、新。 お前の矢はお前で調達しろ」
公介がにひひと笑って、人差し指だけで円を描く動作をしてみせた。
まさかと俺が息を飲むと、そうそうと公介が片方だけ口角をあげた。
「原材料はお前の能力なんだから無尽蔵に作り出せるだろう?」
イメージしろと俺の額を指先でつついてから、公介は無精ひげをなでている。
右の手の平に風を集める。
それを細く細くしぼっていく。
不格好ながらも矢の形を作り出せたところで、悠貴がもう少し長さを足せと言ったから、俺は必死に15㎝ほど引き延ばした。
腕を思いっきり伸ばしたときの喉元から中指の指先までの長さが自分にとって最善の長さの矢になるらしい。
今度は風で作り出した矢を番えて、引き分けをする。
左右両方の肩を矢と平行にし、出来るだけ矢に近づけるようにして、弓と体が一体化するように会を保つ。感覚的には肩、肘、手首の関節を伸ばすようにし、5から6秒の間じりじりと伸ばす。
「雨露利の離れ」
悠貴のこの言葉は稲葉の朝露がたまり重みがかかると、自然に軽く滑り落ちるのと同時に稲葉がハネ起きる反射運動を弓射の離れにたとえたものだ。
左右の手に余計な力を入れず、静かに息を吐きながら、自然な流れにまかせて、切れのある離れを行う。
悠貴が目標にと定めた大木の的に向かって、矢は迷いもなくまっすぐに飛んでいく。カンという高く短い音を発し、的中する。離れの反動で弓の弦が自然に180°反対側にまわっていた。
「これが弓返りだよ。 残身の時に弓返りしてると、伸び合いがよく弓手が押せてうまく使えたという証になる」
悠貴が今度は一人でやってみろと弓から手を離した。
少し離れた所に立っていて、悠貴がそこからポイントごとに声をかけてくれる。
それを耳にしながら、俺は一人で矢を番え、引き分けをはじめる。
悠貴が一緒にしてくれない不安感は半端ない。
だけれど、おかしなもので、身体にはまだ悠貴と弓を引いていた感覚がばっちりと残っていた。
「そうだ、それで良い。 新君、綺麗な会だ」
悠貴がつづいて口にする言葉を俺が先につぶやいた。
「雨露利の離れ」
そうだと悠貴がうなずいてくれている気配がする。
「新、何を矢にのせて放つ?」
ふいに公介が問うてきて、俺はとっさに思考を巡らせた。
「俺は悪や理不尽を断つとか、格好良いことは言えないよ。 だけど、敵味方関係なく、救いたおしてやる」
あぁ、自然な離れってこういうことか。
ほんの少しだけ右の指をはじく。甲高くて短い音がして、左手の中で弓がくるりと動く感触がした。
ど真ん中に的中して、呆然としている俺の横で悠貴と公介が大声をあげていた。
「よ~し!」
弓道は的中時に腹の底から『よし!』と声をかけるのだそうだ。
二人が喜んでくれているのがどうしようもなく照れくさくて、俺は思わず目を伏せてしまった。すると、後頭部を拳で殴りつけられた。
「もっとしっかりと喜べ! 悠貴にあれだけみっちり教えてもらったんだから、できるようになって当然だしね」
振り返ると津島雅が俺をぎろりにらみつけていた。
宗像の男は皆、平均180㎝と高身長だが、雅は公介に負けず劣らずのがたいをしているから、かなり威圧感がある。
でも、よく見てみると雅の口元が嬉しそうに笑みをたたえている。
「ありがとうな」
俺にだけ聞こえるくらいの声で雅がつぶやき、彼は悠貴のもとへと歩いていく。
悠貴が公介と雅の顔を見上げて、満面の笑みをうかべてくれている。
『悠貴、もう帰るぞ。 ではな』
闇淤加美神のハスキーな女性の声もどこか弾んでいるように聞こえて、慌てて前方の舟形岩に目をやった。
すると、闇淤加美神が俺に不敵な笑みを浮かべて、ウィンクしてくれたのだ。
この神は俺を最初から敵として扱っていたわけではなかったのかもしれない。
くるりと踵を返して森へと姿を消そうとしている闇淤加美神の背に向かって、俺は深く深く頭を下げた。
「悠貴!」
雅の叫び声がして、俺が振り返ると悠貴は彼の腕に抱き留められており、もう眠り込んでいた。
「いきなり電源オフとか勘弁してよ~。 もう慣れたけどさ。 まぁ、あんな笑顔みたのは久しぶりだったから良しとするけどさ」
雅がそっと抱き上げて、愛おしそうに悠貴の額に口づけていた。
「ねぇ、公介さん、お二人って……」
「おう、こいつらはデキてるぞ!」
俺の問いに即座に答えてくれた公介だったが、実に品のないことだと俺は肩を落とした。
雅も同じ感情にかられたようで、公介を残念だというような目で見ていた。
「あの、悠貴さんは……」
大丈夫でしょうかという俺の言葉が出る前に、雅がたいしたことないよと答えてくれた。
「目が覚めたら、左腕と右足は動かない。 だからこそ、こんな風に電池がきれるほど動かしてやれてよかったんだ。 そもそも、神との絆は行使するだけの必須条件があって、身体を補完するために行使すべきものじゃない。 それでも、闇淤加美神が短時間であれ桜の舞を赦してくださったのは君を口実にしてでも悠貴の心を護ってくださったのだと思ってる。 これだけふにゃふにゃの笑顔で寝ているんだし、君が気にすることは何ひとつない」
雅が悠貴の汗びっしょりの前髪をそっとかきあげてから、苦笑いしている。
「ねぇ、高階新君。 僕は前にも話したように、君より悠貴だし、貴一だし、静音だし、美蘭が大切だ。 つまりは宗像を優先するから君を見捨てる選択を躊躇なくするだろう。 これは恨みっこなしだ」
雅の言葉がずしりと肩にのしかかってきた。
彼は本音を隠しはしない。だからこそ、誰よりも信頼できる男なのだろう。
「俺も高階静を見捨てることだけはできません。 でも、俺は貴一さんとしーちゃんを天秤にかけることはしません。 しーちゃんが悪なら、俺が何とかしないといけない。 それでも、俺は絶対に貴一さんを傷つけません」
「どうして、高階静を優先一番に置かないの?」
雅の言葉に俺は肩を落とすしかない。
「すごくつらそうな顔をしている癖に、それって本音なの?」
「心が選ぶ人が居て、魂が選ぶ人も居たとして、心は嘘をつくけれど、魂は嘘をつかないでしょう? だから、魂が選ぶ人を優先します。 魂のした決断が心で選んだ人を救うかもしれない。 俺はそれにすがってるだけなのかもしれません」
雅が小さく息を飲んでから、俺の目をゆっくりと見た。
俺が知っている宗像貴一と高階静は二人とも心が柔らかな優れた人間であり、血なまぐさい泥仕合を望んでするような男達ではない。
どちらも傷つかず、救われて欲しいと願うのはおかしいことだろうか。
もっと闘うべき相手がいるのではないのかと思うのだ。
宗像貴一という人は俺に意味のないことは絶対に起こらないと教えてくれた。
だから、静と生きてきた時間も貴一に見つけてもらえた今にも必ず意味があるはずなのだ。
「あぁ、もう本当にやだ! 君と話していると自分が嫌いになりそうだよ。 良く聞けよ? 高階新、僕も悠貴も宗像の禁域を護るだけで手いっぱいだ。 それに、僕も悠貴も残念ながら月の選定者ということらしいから、もはや貴一同様のお尋ね者状態だ。 だからこそ、一所に集まるなとの貴一からのお達しまできている。 ゆえに、今すぐに君と一緒に行動してやることができないんだぞ!」
俺は雅が何を言っているのか一瞬理解できず、首を傾げた。
雅はあぁもう最悪だと空を見上げている。
「僕が護る優先順位の中に君を加えてやるって言ってんだ。 ただ、悪いけれど、悠貴の下の下の下だからな!」
雅がゆっくりと俺を見て、柔らかく笑んでくれた。
宗像の人達は本当に大好きすぎると俺は自分の頬が自然とゆるんでいくのを感じていた。
「あぁ、もう……。 また荷物が増えたよ……。 どうして宗像ってこんな風になっちゃうんだろうねぇ。 おい、新、今はいつでもすぐに護ってやれないんだから、見えない所でだけは死ぬなよ?」
大ため息をもらす雅の様子に公介がけけけと声をあげて笑った。
笑い事じゃないと公介をにらんだ雅に、公介が悪いと手を挙げている。
「おい、これからは新って呼ぶからな!」
俺はそれがうれしくって、大きく頷いた。
俺の様子に雅が天然素材めがとつぶやいて、そのまま姿を消して行った。
「なぁ、新。 貴船は素敵だったろう? 弓の感覚に慣れたら、その弓すらもお前が作り出すんだぞ? さて、必殺技を獲得したし、ここいらで俺達も戻るぞ。 何かやばいのが近づいてきてそうだからな」
公介がまたあれをすると気づき、俺は頬がひくつくのを感じた。
よけたつもりだったが、つもりはつもりのままで、俺の襟首はひょいと公介につかまれていた。
瞬時に暗転。地面が遠ざかり、ガクンと落下する感覚と一緒に無重力の浮遊感。
冬の日本海の高波状態と公介が表現している状況に引きずり込まれた。
そして、俺は嘔気をかかえながらCafeアントンポレルへ連行された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます