砕氷の蝉聲
宗谷 圭
砕氷の蝉聲
しゃわしゃわと、蝉の鳴き声が降ってくる。あぁ、夏が来たのだ、と。どこか遠くの国の事であるような感覚を抱きながら、しづは目の前の器を見詰めた。
しづが普段使っている物とは比べものにならない、瀟洒な器だ。それ故に、今しづが纏っている襤褸が益々みすぼらしく見える。
そもそも、下働きの雑仕女であるしづが、貴族や彼らに仕える女房の生活する場に足を踏み入れるだけでも恐れ多い事なのだ。
だと言うのに、何故己はこの場で居住まいを整えて座り、あまつさえ飲食物を入れるための器を前にしているのだろう。
しかも、中身はわざわざ氷室から取り寄せた氷を砕き、甘葛をかけた物。夏の氷など、しづのような身分の者では一生口にする事が無いはずの、高級品だ。
横に控えていた女房が、困ったような顔をして声をかけてきた。
「ほら、溶けてしまわぬうちに、お上がりなさい。せっかく、姫様がお前のために用意するよう申しつけられたのですから」
言われて、しづは「はい」と神妙に頷き、恐る恐る器と匙に手を伸ばす。器から漂ってくる冷気が、目の前のこれは本当に氷なのだという事を示していた。
御簾の外では、今も蝉達がしゃわしゃわと鳴いている。その鳴き声に背を押されるように、しづは匙で掬った氷を口に含んだ。
口の中に、甘葛の甘みが広がる。そして、転がり込んだ氷の欠片をかみ砕くと、しゃり、という音がした。
しゃり、しゃり、しゃり、しゃり。
しゃわ、しゃわ、しゃわ、しゃわ。
しゃりしゃりという氷をかみ砕く音と、しゃわしゃという蝉の鳴き声と。
二つの音が耳元で混ざり合っていくのを聞きながら、しづは一心に、氷を口へ運び続けた。
◆
「しづ、いるんでしょう? 土竜みたいに床下を這っていないで、出てきたらどうなの?」
「今日も気付かれてしまいました……。なんで姫様は、あたしが床下に入るとすぐにわかるんですか?」
下働きの身分をわきまえて階を登ることはせず、積もった雪の上に跪いて──しかし顔だけは玖子のいる御簾の向こうを見詰めたまま、問うた。すると、御簾の向こうからは「侮らないで」とせせら笑う声が聞こえてくる。
「毎日毎日、ずっとここで寝ているのよ? 少しでも普段と違う音が聞こえたら、すぐに気付くわ」
そう言う玖子は、言葉こそ強いが声音は弱々しい。生まれた時から体が弱く、ずっと寝たきりの生活をしているのだという。
「あたしの音、そんなに大きいですか?」
「大きいわよ。床の下に潜んでいても、動きが粗野だから無駄に音を立ててるの。自分で気付かない?」
物言いは厳しいが、どこか楽しそうだ。そして楽しそうなのは、しづに厳しいことを言っているからではない、としづは知っている。
「本当、しづが床下に潜むようになってから、退屈しなくて良いわ。しづが潜んでいる時は、静かじゃなくなるんだもの」
寂しいのだろうか。玖子は、静けさを嫌う。だが、楽器を鳴らしたり誰かと話したり……そんなささやかな賑やかさでさえも、体に障ると言われ、遠ざけられてしまっているらしい。
そんな玖子と、しづが出会ったのは十日ほど前。その日の仕事は終わったので遊びに行って良いと言われたしづは、思いつきで床下に潜り込んでみた。
何か面白い物が無いだろうかという好奇心から、床下をうろうろと這い回っていたのだが……いつの間にか奥深くまで入り込み、玖子が寝起きしている房の真下に来ていた。そしていつもとは違う音に気付いた玖子に「そこにいるのは誰か」と誰何され、玖子の前に姿を現すに至った……というわけだ。
本来なら酷く叱責されるところだ。この屋敷の姫君が寝起きする場所の床下に潜り込んでいたのだから。
だが、当の玖子が「怒る必要はない」と周りの者達に言い放った。それどころか、しづに今後も時折、玖子の元へ来いという。それも、床下を通って。
「だって、その方が早く私が気付けるもの」
何しろ、玖子はやる事が無い時は常に御帳台で横になっている。庭から聞こえてくる足音よりも、床下から響いてくる這いずり回る音の方がよく聞こえるのだ。
そう言われてしまっては、断るわけにもいかない。そもそも、下働きの身であるしづが、屋敷の姫君である玖子の言いつけを断るわけにはいかない。
こうして、時折しづは玖子の元へ忍んで行くようになったのだが、今まで一度たりとも、玖子がしづの到来に気付かなかったことがない。いつでもすぐに気付き、まだ床下にいるしづに声をかけてくるのだ。
それはきっと、玖子が言う通り。しづが来ていない時は、辺りがとても静かだから。だから、しづが来た音にすぐ気付くのだろう。しづの音が聞こえてくるのを、今か今かと待ちわびているから。
けど、と。しづは首を傾げた。その様子が、雪の上に跪いたままなのが辛いのだろうと思ったのか。玖子が少し慌てた様子で言った。
「いつまでそこにいるつもり? そんな雪の上にいつまでも蹲ってたら、体を壊すわよ。しづは私と違って、体を壊しても医者にかかったり高価な薬を与えて貰ったりできないんだから。こんな寒い日ぐらい、身分なんか気にしないで上に上がってきなさいよ」
しづのことを見下しているのだか気遣っているのだかわかりにくい気遣いの言葉に、しづは思わず笑ってしまった。その様子が気に食わなかったのか、玖子は「ちょっと!」と語気を強くする。御簾に隠れて見えないが、顔を赤らめているのかもしれない。
「何を笑っているのよ! ……もう、これだから冬は嫌!」
その口ぶりから、しづに限らず誰かが寒い場所にいるのを見ると、体を壊すのではないかとやきもきしているのだろう。
それと同時に、先ほど感じた疑問が、再び頭に浮かび上がってくる。しづは立ち上がりながら、思い切って玖子に問うてみた。
「姫様は、そんなに冬がお嫌いなのですか?」
冬だって良いところはあるのに。雪が降った日は寒いが外が美しいし、厨で火の近くにいるだけで暖かく満ち足りた心地になる。
だが、玖子にはそのように感じることは無いらしい。きっぱりと「嫌いよ」と言い切った。
「冬なんて、何一つ良いことが無いんだもの。寒くて体調は悪くなるし、雪が降れば辺り一面どこを見ても真っ白で寒々しいし。それより何より、冬ってなんでこんなに、静かになるのかしら。辛気くさくて仕方がないわ」
なるほど、たしかにこの寒さは体の弱い玖子には毒であろうし、美しく見える白一色の世界もずっと寝ていて同じ風景しか見る事ができなければ退屈であろう。だが。
「冬って、そんなに静かでしょうか?」
首を傾げて言い、しづは雪の上を歩いて見せる。ぎゅうぎゅうと、雪を踏みしめる音が辺りに響いた。
続いて、近くにあった細い木を少し力を込めて揺らしてみる。枝に積もっていた雪が落ち、どさどさという音がした。
「探してみると、冬って結構色々な音がするんですよ。あとは……あっ、ちょっとお待ち頂けますか?」
言うや、しづは玖子の返事も聞かずに駆けだし、かと思えばまた走って戻ってきた。手には丸く薄い氷を持っている。井戸の桶に薄く張っていた氷を持ってきたのだ。
「この氷とか、耳を近付けるときゅうきゅうって音がするんですよ! 面白いと思いませんか?」
そう問うと、玖子からは楽しそうと言うよりは冷や冷やしている様子の声が放たれた。
「わかったわ。冬に色々な音がするのはわかったから。早くその氷を放ってしまいなさいよ。手が真っ赤になっているじゃないの」
たしかに、手が冷たく、赤くなってしまっている。だが、せっかく綺麗に剥がすことができた氷を捨ててしまうのも勿体ない気がして。しづは少しの間だけ考え、そして「そうだ!」と呟いた。
「そう言えば、氷を砕く音も今の時期しか聞けない音ですよね」
言うや、「ほら」と声を出しつつ、しづは手にした氷に囓りついた。玖子が息を呑んだのがわかったが、ここまでやってしまったらもう、勢いに任せるほかなかった。
しづは噛み砕いた氷を口に含むと、そのまま更に細かく噛み砕く。氷が小さくなるにつれ、ごりごりという音が次第に、しゃりしゃりという音に変わっていく。
しゃり、しゃり、しゃり、しゃり。
聞きようによっては騒がしいとも取れそうな音が、辺りに響く。
その音を、初めのうちこそ寒そうに顔をしかめて聞いていた玖子だったが……やがて、何がおかしいのか、くすりと笑った。その微かな笑い声を聞き逃さず、しづは咀嚼を止める。
きょとんとしたその顔に、玖子は更に笑った。そして、言う。
「しづが氷を食べる音、まるで蝉の鳴き声みたいね。騒々しくって……それでいて、なんだか心地が良い。不思議な音だわ」
「そうですか? 氷を食べれば、みんなこんな音がするんじゃないんですか?」
首を傾げながら、氷をもうひと囓り。ごりごりという音から、次第にしゃりしゃりという音へ。その音に、玖子はまた笑った。
「そんな大きな音を立てて食べる人、私は見たことが無いわ。……夏になったら、しづに氷を食べさせてみたいわね。しづが氷を食べる音と、蝉の鳴き声。同時に聞いたら、どんな風に聞こえるかしら」
その声は、とても楽しそうで。何やらしづまで、楽しい気持ちになってきた。
「夏に氷を食べる事ができるなんて、考えるだけでも夢のようです。それに、あたしが氷を食べる音が大きいなら、姫様が氷を食べる音はどのような音なのでしょう? あたしも、聞いてみたいです!」
しづがそう言うと、玖子が呆れたようなため息を吐いた。下働きの身で、調子に乗って馴れ馴れしくし過ぎたか。しづが身を強ばらせていると、玖子は再びため息を吐いた。
「それこそ、夏でなければ無理ね。しづは平気かもしれないけれど、こんな寒い時に氷を口にしたりしたら、私はすぐに寝付いてしまうわ」
それでなくても普段から寝たきりなのに……と言いかけて、玖子はハッと何かに気付いた。そして、少々強い口調でしづに言う。
「そんなことよりも、いつまで氷を持っているの? 下働きでも、一人が休んだら他が困るでしょ。これ以上体を冷やす前に、早く内に入りなさい!」
そう言って笑い、しづは氷を手放した。そして、そろそろ仕事に戻ると告げ、元来た道──床下潜り込む。しづの姿が見えなくなり、玖子も御帳台に戻ったのだろう。しづの頭上から、ごそごそと玖子が横になる音が聞こえてくる。
いつもであれば、そのごそごそという音を聞きながら仕事場に戻るのだが……この日に限っては、いつもと違う音が聞こえた。……玖子の声だ。
「……夏、早く来ないかしら。待ち遠しいわ……」
その声に、しづは笑い声をかみ殺した。そして、心の中で呟く。
「私も、夏が待ち遠しいです。姫様」
と。
◆
しゃりしゃりと氷を噛み砕く音。しゃわしゃわという蝉の鳴き声。騒がしい二つの音が、しづの耳朶を打つ。
おかしいな、と。しづは思った。
今、しづが口に運んでいる氷には、甘葛がかかっているのに。甘いはずなのに。
「……姫様、どうですか? あたしが氷を食べる音、蝉の鳴き声と似ていますか?」
ずび、と洟をすすった。
甘いはずなのに。この氷は、なんと塩辛いのだろう。
ずびずびと洟をすすりながら、しづは氷を口に運び、噛み砕く。
しゃりしゃりという音をしばらく響かせてから飲み込むと、更に激しく洟をすすった。
「あたし……姫様が氷を食べる音、聞いてみたかったです……!」
目の前には、玖子が使っていた空の御帳台。
体の弱い玖子は、春が訪れる頃に体調を崩し、そのまま雪が溶けるようにいなくなってしまった。
「夏になったら、しづに氷を食べさせてあげて頂戴。しづが氷を食べる音と、蝉の鳴き声と。聞き比べてみたいの」
という言葉を遺して。
しゃりしゃりという氷を食べる音に、ずびずびという洟をすする音が多く混ざるようになってきた。そしてそれは次第に、ひっくひっくという嗚咽に変わっていく。
ぼたぼたと、大粒の涙が氷の中に落ちる。これでは氷が更に塩辛くなってしまうと己に言い聞かせながら、しづは涙を堪えて氷を食べ続けようとする。
だが、涙は止まらない。
嗚咽はやがて、ううぅ……という唸り声に変わり。そして、遂にしづは泣き出した。うわぁん、という泣き声が、辺りに響く。
しづが泣くのにつられたのだろうか。周りで様子を見守っていた女房達もしくしくとすすり泣き始めた。
氷を食べる手は完全に止まっており、もう、しゃりしゃりという音は聞こえない。
うわぁんという泣き声と、しくしくというすすり泣く音が。まるで蝉の鳴き声のように、辺りに響いていた。
(了)
砕氷の蝉聲 宗谷 圭 @shao_souya
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