第11話
日曜日。晴れ。
早めに起きてしまった誠二は、朝ごはんを食べると早々に家を後にした。弓道場の階段を上って、扉に手をかけると、思わぬ抵抗にあう。鍵が閉まっている。
時刻は部活が始まる一時間前。早く来過ぎて、流石に誰も来ていないみたいだ。この場合、弓道場を開けるには、職員室まで鍵を取りに行かなければならない。校舎を挟んでほぼ対角線上に位置するのを考えて、誠二は嘆息した。
でも、開いていないものは仕方がない。このまま寒空の下で待つことと、鍵を取りに行く手間を天秤にかけて、誠二は寒くない方を選択した。
寒いのは苦手なのである。
階段を降りて、教職員室に向かおうと歩いていると、男の先輩が歩いてきた。須賀先輩だ。
「おはよ。早いね。ちょっと待って、すぐ開けるから」
朝の眠気も感じさせず、爽やかに微笑む彼に道場を開けてもらって着替えを済ますと、もう一度道場に戻る。
2人で矢道に面したシャッターを開ける。外気が入って、一気に空気が入れ替わった。
弦が少し緩んでいたから、軽く貼り直す。
よし。
満足したので、弓立に置き直した。
矢もちゃんとある。五本しかないけれど。本来矢は購入した時点では六本で一セット。一本かけてしまったセットが、カシャンと音を立てて矢立(やたて)に収まる。残りの一本は今も魔物に突き立っているはずだ。
練習に入る前に黒板でも綺麗にしようかと振り向くと、先輩が何やら書類とにらめっこしていることに気付く。どうしたんだろうと思って思わず声をかけてしまった。
「何してるんですか?」
「ああ、気になるよね。OBOGの名簿だよ。個人情報。同窓射会の招待ハガキに使うんだ」
「同窓射会?」
聞き慣れない単語が耳をかすめる。
「あー、一年生は聞き馴染みがないよね。同窓会の弓道部バージョン。年明け前の引き納めとして、先輩方も呼んで、イベントをするんだ。この学校が師範学校だった時代の大先輩とかも来るんだよ。ほら、あそこに名前がある」
先輩は奥の壁上を指差した。
「たくさん名前が並んでますね」
「そう、あれは全部ここの弓道部だった人の名前なんだ。結構いるでしょ」
天井付近の壁に、名前の書かれた小さな板が三段にもなって並んでいる。左上の方が板が古くて、逆に三段目の右端はまだ新しい。
「三段目がまだ余ってるでしょ。あそこに僕たちが追加されていくんだよ」
ということは、いずれ誠二の名前もあそこに加わるということだろうか。歴史に名を連ねるようでワクワクする。
「はよー」
木札を眺めていると、入り口がガラリと空いて、安田先輩が顔を出した。神棚と的に礼をして、気だるげな挨拶をする。眠そうだ。
「おはよ」
「須賀早いな。木原ももう着替えてるって、どんだけ早くに来たんだよ」
「二十分ぐらい前かな」
「はっや。おじいちゃんか」
「同い年だよ。そうだ、的つけ手伝ってよ」
「いいぞー。つけにいけばいいか?」
「いや、射位からの確認よろしく。木原と二人でつけるから」
「了解」
よろしくね。と須賀先輩が笑顔を向けてきたので、素直に頷く。スリッパを履いて、安土へ。弓を引く位置からは二十八メートル離れている。そこには土が斜めに人間の肩ぐらいまで土が盛られていて、放たれた矢はそこに刺さる。土が乾いていたので、ホースで水をかける。的を五個選んだ先輩からいくつか受け取って、右から一番と二番をつける。
「きはらー、一番もっと左ー! 二番もう少し下げてー」
「了解です!」
「須賀は、三番と五番オッケーだけど、四番もちっと下め!」
「おっけー」
言われた通りに直して、的が見えるようにちょっと離れる。
「うーん、一番ちょっとあげてー」
「はい!」
的を気持ち持ち上げて固定する。
「おーるおっけー」
「ありがとうございます!」
体全体で丸を作る安田先輩。須賀先輩に戻ろっかと言われて手早くホースを片付けると、小走りで戻った。着替えてくると、いったん道場を出て階段を降りていった安田先輩は、すぐに着替えて帰ってきた。
「同窓射会かぁー。そんな季節だな」
話題が戻る。安田先輩が、思い出すように呟いた。会費と景品代徴収しないと、と言っている。三年生が引退したから、二年生が中心になってやらなくてはならないらしい。
来年はお前らだぞ、と笑われた。
「そういや、遊びでペットボトルキャップ撃ち抜いた伝説の先輩がいたらしいぜ」
何年か前の同窓射会だってさ、と安田先輩。
「え、ほんとですか?」
「何代も前の先輩にいたらしいよ。学生の頃は、紙コップ的にして遊んでたんだって」
「え!」
「学生の頃から凄かったんだねぇ」
「だな。今でも語り継がれてるから」
苦笑する先輩たち。人間離れした逸話。ほんとかよと耳を疑うが、本当なら凄い人もいたものだ。
「招待ハガキは、住所がわかれば全員に出してるから、もしかしたらきてくれるかもね」
本当なら、見てみたい。年末が待ち遠しいと感じた。
その頃には、身の回りの騒動も終わっているだろうか。
考えていると、須賀先輩がどうしたのと聞いてくる。
「何でもないです。でも、そんなすごい人が弓を引く姿を見てみたいです」
「それなら、中央武道館に練習行ってみるか?」
何でもないことのように口を挟んだ安田に、思わず聞き返す。当の本人は弓袋から弓を取り出すのに注力しているが、こちらの話は聞いているようだ。
「武道館って、あの城山の側のですか?」
「そうそう、高校生は昇段審査以外だと利用することもないけど、使用料払えば案外誰でも練習できるんだよ。須賀は中学で行ったことあるんだっけ」
「うん、中学の試合はあそこだったからね」
「いいなぁ、近いし楽だよな」
「そうだね。でも、ヤスはたまに行ってるよね」
「ああ、師範の先生がいると運がよければ、射形見てもらえるんだよな」
「そうなんですか」
「うんうん、それに実際に引いてるところも見えるし。ほら、木原って人の射形見るの好きだろ? 興味あると思って」
「それは……」
その通りだ。
人が弓を引いているのを見るのは好きだ。まるで空間がその場所から切り取られているみたいで、うまい人ほどそれが顕著になる。
わくわくした感情を隠しきれなかったのか、その心情を読んだのか、安田先輩はニカッと口角を上げると少年みたいに笑った。
「いこうぜ。絶対楽しいと思う」
*
偶然と必然を混同したりしないが、これはないだろうと偶然を恨むと同時に、必然だったのかもと思ったのは一瞬だった。
安田先輩に連れられて中央武道館の門扉をくぐったのは、その日の午後の話であった。この道場は火曜日が休みで、土日は試合やら昇段審査やらをやっていて利用できないこともあるという。来週は県内の中学校の試合だから行くなら今日が狙い目だと背中を押されて、誠二の中にも行ってみたいという感情があったからこその即日行動であったが、少し考えるべきであったと後悔してももう遅い。
「お! 今日はラッキーだ! 木原喜べ、師範の先生がいる!」
そう言われて目を向けた先には、見知った姿があった。あちらも予想していない邂逅に変わりにくい表情の中でめいいっぱい驚いた顔をしていた。
「教士七段藤間紋一郎先生だ!」
安田先輩は悪くない。悪くはないが、気まずい顔合わせをどうしようかと頭の中はそれでいっぱいだった。担いだ弓と矢筒が少々重たく感じる。
「は、はじめまして。木原誠二です」
挨拶に迷って出てきたのはそれだけ。唖然としていたのは向こうも同じなのか、「藤間だ」と名乗って沈黙が支配する。
「準備しよう」
そう言って手を引いてくれる先輩の存在がこれほど心強かったことはない。
え、どうしよう。
六畳ほどの選手控え室は他にも練習に来ている人の荷物が端に寄せられている。勝手知ったる様子で準備を始める安田に、誠二は混乱を極めながらも同じように準備を始めた。
ここでは弓道着じゃなくても、素足の見えない格好ならどのような格好で練習してもいいらしい。勿論奇抜な格好はだめだが、制服で引いてもいいと言われた。ブレザーを脱いで腕まくりをしている先輩を見て、それに倣う。弓も矢も準備して、射場におずおずと入ると、一つの視線が追いかけてきたが、声をかけるつもりは今の所ないらしい。
開けた矢道には昼の光が降り注いでいる。誠二の前で引いている先輩は、もう自分の的に集中しているのか、的を見る目は真剣だ。
切り替えよう、いつも通り引こう。
多少のイレギュラーはあるが、誠二はここに弓を引きにきたのだ。それ以外に今は考えないでおこうと、誠二はどきどきしている心臓を落ち着けた。
一本目、やはりどこか緊張しているからか、矢は的の下に抜ける。二本目、強ばった肩から力を抜いて伸びることを意識する。矢は的音を鳴らして十二時の方向のぎりぎりに入った。射場を出ると、先輩が、緊張してるなーとからからと笑った。
もう一度二本持って射場へ。今度は力を抜きすぎて矢はへろへろ飛んで下に落ちた。前の先輩はいい音をさせて真ん中を射貫く。やや焦っているところに、声がした。
「軸の意識が甘い。体の真ん中を意識して左右均等に分かれろ。あと、押し手が緩む。親指の付け根で弓を最後まで押す感覚だ」
声の方に目を向けると、紋一郎が鋭い目つきでこちらを見ていた。刻まれた眉間のしわが、早く引けと誠二を促しているように見えるが、かけられた言葉を頭で反芻すると冷静になった。
アドバイスをくれたのでは?
もしかしなくてもそうだ。でもそうだ、ここは現世で、ハザマの世界とか、魔物とか関係がない。誠二はここに弓を引きに来ていて、自分で言うのもアレだが、そんな向上心のある学生に、紋一郎は指導をしているに過ぎない。
的を見ると、弓を打ち起こす。左右均等を意識して引き分けると、いつの間にか後に回ってきた紋一郎は「そのまま弓を押し続けろ」とコメントした。いつもより自然に離れた気がする。鋭い弦音が響いた後に、気持ちのよい的音。矢は正鵠を射貫いていた。
視線を前に戻すと、既に射場を出ていた先輩が紋一郎からアドバイスを受けているようだった。引き終わった誠二に気付くと手を振られる。
「矢取り行こうぜ!」
「はい」
射た後の矢はできるだけ自分で取りに行くのがルールだ。的周辺に集まった四本の矢を見て、先ほどの一射を思い出す。体のはこび方を反芻しながら歩いていると、機嫌が良さそうな先輩に肩を叩かれた。
「木原よかったな!」
「どうしてですか?」
「指導、つけてもらえただろ?」
「そうですね」
「あの先生あんまり人が引いてるところに口出す人じゃないんだ。見込みあるってことだろ」
「でも先輩も……」
アドバイスをさっきもらっていたような。
「俺の場合は粘り勝ち。ことあるごとに聞きに行くから諦めて教えてくれるようになったん」
含み笑いを浮かべる安田先輩。この人のコミュニケーション能力に脱帽だ。
「あの人、すごく無口だけど、きれいな弓を引くんだ」
見られたらいいなと言った先輩に、そうですねと返す。
ハザマの世界の相談役としての紋一郎の姿と、弓引きとしての姿。両方の立場から見て、紋一郎とはどのような人物かと誠二は考えるのだった。
二時間ほど道場での練習が終わり、弓具を片付けて学校に戻ろうかとしていた頃、射場を見ると、紋一郎が弓を引いていた。数人が道場を使っている中で、ひっそりと一番後ろの的を使っているのに、一番存在感を放っているように感じる。それだけ芯のある、際だって美しい射形だった。
*
数日後、藤間薫からハザマの世界へ招待され誠二を囮として使うことが告げられた。
「あなたの目論見通りかしら?」
そう言いながら目を三角にする先輩に苦笑する。彼女は不服を隠しもしないが、頭領の決定に異議を唱えるつもりもないらしい。
「俺が参加するのは嫌ですか?」
「そうね。本当ならそう言いたいところよ。でも私にだってバランサーとしての責務があるの。薫兄さんが決定したことに反対するつもりはないわ」
「複雑ですね」
「あなたにそれを言わないでほしいわ」
どうやらこれは責められているらしい。機嫌を直してくれない先輩に苦笑しながら中央公園の池の畔を歩く。現実の公園は冬の気配が色濃く、紅葉の終わった木々は葉を落とし始めているが、ハザマの世界はそれほど変化がない。色味が少ないと言うのだろうか。灰色のフィルターを通して世界を見ているかのようだ。
そんなことを考えながら、小川を渡って鳥居をくぐる。見えてくるのは立派な門構えの武家屋敷。その玄関の側には柱にもたれかかった藤間薫が出迎えていた。
いつものジーンズにベージュのカーディガンのスタイルで、気楽に片手をあげる姿に、誠二は軽く一礼を返す。
「久しぶり、と言うにはそれほど期間が空いていないかな? 奥で話そう。引き返すなら、これが最後のチャンスだよ」
「大丈夫です。でも、気遣っていただき、ありがとうございます」
「かわいげがないね。さすが真一の弟だ」
「ありがとうございます」
「褒めてはいないんだけどね」
そう言って彼はやれやれと肩を落とす。
今日案内された部屋は、いつも使用している部屋よりもう少し奥の部屋だった。前までに使っていた部屋が完全に来客用とするならば、こちらはより彼らの生活圏に近い部屋なのかもしれない。部屋の隅に置かれた花瓶には、椿が一輪生けられている。寒さに強い冬の花だ。
「まどろっこしい挨拶をする間柄でもないし、本題からいこうか」
そう言って奥に座った薫。誠二は正面に据えられた座布団に腰を下ろす。続いて入室した綾香は誠二の左手側、丁度薫と誠二の間に二人を視界に入れるように座る。
誠二は無言でうなずいた。
「さて、君を囮に使うという作戦は頭領である私だけではなく、バランサーの会議においても承認された、正式に決定した作戦であることを伝えておこう。君から提案されたこととはいえ、これは既に決定事項だ。後戻りはできないよ」
「勿論、そのつもりです」
「ありがとう」
「いえ」
「ただし、それに伴って君にも飲んでもらわないといけない条件を、こちらから提示させてもらうがいいかい?」
「はい」
「まずは、自分の事を自分である程度守れるようになってもらうことだ。魔物を倒すこと、そして真一を取り戻すことを考えると、作戦は難しいものになると思う。私たちも最善を尽くすが、君を危険から百パーセント守り切るのは難しいだろう」
「ちなみに、自分を守れる、というのはどの程度ですか?」
「致命傷になりかねない攻撃を回避すること。訓練はこちらのバランサーを師につけよう」
「私の体術の師匠でもあるから人柄は保証するわ。安心して」
綾香がそう言う。綾香がそう言うなら信頼しても大丈夫そうだ。正面の薫もうなずいている。
「二つ目は、君に式の守りを尽かせること」
誠二の隣でぽこんと破裂音がして、見知ったフォルムの狸が姿を現した。愛嬌のある瞳に少し気まずさが滲んでいる気がして、誠二はぽん太の頭に手を伸ばし、ぐりぐりと撫でつけた。目がきゅっと細くなって非常に可愛い。でも可愛いだけがこの式の役割ではない。非常事態の時、その体を変化させ、その身を挺して誠二を守ってくれたことは記憶に新しい。
「頼りにしてるよ」
とつぶやくと、そのきゅるりとまあるい瞳が柔らかくほほえんだように感じた。
「仲が良さそうで何よりだよ」
薫は笑う。
「危険なことを任せるとはいえ、君は大事な客人で、私にとっては親友の弟だ。真一を取り戻せても、君が五体満足でなければ真一は悲しむだろう?」
「そう、かもしれませんね」
「ううん、かもしれないじゃないよ。必ずだ」
そう言う薫に首を傾げる。
「どうして言い切れるんですか?」
「伊達に十年間もあいつの弟トークを聞いていないからね。まあ、その話はおいおい」
なにそれ聞きたいと思ったところを的確に釘を刺されて苦笑した。心の中で必ずあとから聞くことリストに入れておく。忘れないように定期的に思い出さないと。
「他には何かありますか?」
「そうだね。術の才能がもしあるならその練習も、と言いたいところだけど、そこまでするのは、時間的にも体力的にも余裕はないだろうし、最低さっき言った二点かな」
術か、面白そうではある。しかし、体術の練習も、となると自分の体力がどこまで許容できるかはわからない。中学の時は運動部に入っていたが、高校に入って、弓道部に所属してからは、運動らしい運動をしていない。弓道部は一応運動部とはいえ、その運動量を考えると本当に運動部に換算していいのかは、部活に所属している身としては首を傾げるところだ。
走り込みしないとかな、と心の隅で考える。
「わかりました」
そう簡潔に返事をした誠二には、今後の予定が告げられる。
まず、学校にはこれまでどおり通うこと。しかし、今まで部活の時間を体術の訓練に当てること。従ってしばらくは弓道部には家庭の事情で休むことを告げる必要があった。少し悲しいとは思うが、生き残るために必要な事だと割り切る。
そして、両親には気取られないようにすること。兄のことは当然父と母には告げないことを約束した。兄は現世には帰れないと知った手前、既に口にするつもりもなかった。
バランサーたちの準備が整うにはしばらく時間が必要なようで、計画までには二週間ほどの猶予がある。実行されるのは、冬休みに入ってからになる。それまでに、動けるようにしないといけない。これは失敗してはいけない、ゲームではないのだから。
「気負いすぎない方がいいわ」
そう、綾香が言う。そのように見えたのだろうか。実際、ずっと魔物と関わってきた彼らと、自分との間には覚悟も準備も、何もかも違う。彼らは自分がいつか死ぬ事を常に意識して生きてきたのだろうか。誠二は、現世で安全の中で暮らしてきた。
けれど、知っている事もある。平穏は突然なくなってしまうことを。それをただ待つか、届ける範囲に手を伸ばすか。誠二が選んだのが後者というだけだ。
「今日から、なにかできることはありませんか?」
話を聞いているかい。そう薫は苦笑した。
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