第3話 お嬢様と執事は考える

「お嬢様。若社長さんはお帰りの際、なにか言ってませんでしたか?」

「ううん。なにも。突然立ち上がって部屋を出ていったの。お手洗いかと思ったらなかなか帰ってこなくて、それっきり戻ってこなかったから私も帰ってきちゃった」

「それは大変でしたね。もしかしたら、その方も急な用事があったのでしょうか」


 お見合いを途中で抜け出さなければならないほどの用事とはなにか。

 そこで一つ思いつく。


「急な仕事が入って会社に戻らなければいけなくなったのかもしれません。若社長さんは会社の経営が軌道に乗ってからもご自身で営業活動をしているそうですから。きっとお忙しいのでしょう」


 見合い相手について事前に調べておくよう命じられていた私は、企業のホームページや雑誌のインタビュー記事で得た情報を伝える。

 お嬢様は少し考えるそぶりを見せた後、首を横に振った。


「違うと思う」

「なぜです?」

「急な仕事の連絡ならメールか電話が来るよね。でもあの人、スマホには一切触れてなかったよ?」

「部屋の中ではそうかもしれません。しかし廊下に出てから確認されたのでは?」


 音が鳴らなかったからお嬢様は電話やメールの通知に気づかなかったのかもしれない。しかしマナーモードにしていれば振動によって持っている人にだけ伝わる。そこで連絡を確認するために若社長は廊下へ出ていったのではないか。

 そのことを伝えると、彼女はすぐに首を振った。


「それもないよ。わたしたち、お見合いの前に電源を切ったもの。電源を切っていたらメールや電話が来たなんて気づくわけないよ。だから仕事の連絡じゃないと思う」

「なるほど。それでは別の理由ですね」


 仕事以外の急な用事とはなにか。

 友人が事故にあった。

 部下が病気で倒れた。

 身内に不幸があった。


 いやこれも違う。

 携帯端末には一切触れていないし、電源が切られていたのならそういった連絡にも気づかない。つまり、外部から連絡で帰ったわけではないということだ。


 そういえば「食事の途中で帰った」と言っていたっけ。

 私は予想をつけて質問する。


「その時の若社長さんの顔色は見ましたか?」

「うん。一瞬だったけど、あんまり良くなさそうだった。ちょっと青ざめてたかな」


 やはりそうか。なら答えはこれだろう。


「若社長さんはお腹を壊してしまったのです。しかし、お手洗いに行くと言うのが恥ずかしくて帰ってしまったのでしょう」

「うーん、それも違うと思うなあ」


 お嬢様は納得いかないといった風に首を傾げている。


「なぜですか?」

「もし本当にお腹を壊していたなら部屋を出てすぐにトイレへ駆け込むんじゃないかな。でも仲居さんの話だと、若社長さんはなにも言わずに玄関から出て行ったみたいだよ。今にもウンコもらしそうな人がわざわざ外のトイレを探すなんておかしくないかしら」

「お嬢様……下品な言葉はお控えください……」

「あら。ごめんなさい」


 お嬢様は口元に手を当ててわざとらしく笑い声をあげる。


 これはただのお見合いではない。

 ⅠT企業の若社長にとっては、お嬢様との結婚という目的以上に大企業の社長とのコネクションを作るという目的があったはず。

 大企業との取引はもちろん、お嬢様と結婚して親族になればいずれは自分が大企業の次期社長になることも夢ではない。

 それなのに、突然なにも言わずに帰るなんて常識では考えられない。

 彼自身の印象が悪くなるだけでなく、会社の印象まで悪くさせるのだから。

 なにか事情があるなら一言断って出ていくはず。

 それすらなかったということは、なにか言えない事情でもあったのだろうか。



 答えを出すにはまだ情報が少なすぎる。

 詳しい話を聞きながらもう少し考えよう。


「お嬢様。他に不思議に思ったことはありませんでしたか?」

「うーん、なにかあったかな」

「なんでもいいです。料理の味がおかしかったとか若社長だけ別のものを食べたとか」

「お料理は同じものを食べていたし、とてもおいしかったよ。いつもの和食のコース料理で鯛のお刺身とか黒毛和牛の炭火焼きとか。若社長さんはお酒を飲みたいと言ってたけど、今日は車で来てるから飲めないって嘆いてた。わたしが二十歳になったらお酒を飲みに行きましょうって誘われたけど、勝手に帰っちゃう人とは行きたくないかな」


 お嬢様は楽しそうに話してくれたが、悲しいことに欲しい情報は得られなかった。

 食事中に帰ったというから料理が原因かと思ったけれど、私の勘違いだったのか。

 その考えを捨てきれずに質問を重ねる。


「アレルギーを起こす食べ物や嫌いな食べ物が出たということはないでしょうか」

「若社長さんは苦手なものがないと言ってたし、アレルギーもないと言ってたよ」

「そうですか……」

「真さんは知らないんだね。老舗料亭ではそういうことを事前に聞いてくれるんだよ。お客の食べられないものや体を悪くするものを出したら大問題になるからね」


 己の無知さを指摘されたような気分になる。

 もちろん、彼女がそんな嫌がらせをするような人でないことはわかっている。

 それでも恥ずかしさから顔が熱くなる。


 お金持ちと庶民。

 雇い主と使用人。

 やはりお嬢様と私は、異なる世界の人間なのだと思い知らされる。

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