【完結】残念なことに、タバコにはいい思い出しかない

かしこまりこ

第1話 タバコ

 残念なことに、タバコにはいい思い出しかない。


 もっと残念なことには、僕はタバコを吸わない。


 タバコは、体に悪いから吸わない。僕はそんな男で、僕の残念なところを集約すると、けっきょくそこに行き着くんだと思う。


 どんないきさつだったのか忘れてしまったけど、僕がまだ小学四年生のころ、父と一緒にバーに行った。


 バーのママは、ふくよかな女性で、まあるい顔も、ノースリーブからのぞく二の腕も、谷間が三センチくらい見えている胸も、買ったばかりの大福のようにむっちりとしていた。


「あらぁ。かわいいお客さんね。ボク、いくつ?」


 ママは、にっこりと笑って、ラズベリー色のソーダを僕に注いでくれた。ママの視線は、僕が知っている誰のものとも雰囲気が違っていて、ドキドキした。「色っぽい」とか「セクシー」という概念を、テレビなんかで知ってはいたけど、実際に、それを目の当たりにしたのは、あのときが初めてだった。


 ママは、僕の目の前でおいしそうにタバコを吸った。


「吸ってみる?」と言われて、僕はブンブンと首を横にふった。ママは、そんな僕を見て「かわいい」と言うと、コロコロと笑った。それから、煙を換気扇に向かって、フーッと吐き出した。細いタバコをはさむ指が、ふっくらとまるくて、それにのっかっているピンク色の爪もころんとしていた。


 あの煙を、僕の顔に吹きかけてほしいなぁと、高揚した心の中で願ってしまい、そんな自分が恥ずかしくなって、顔が熱くなった。あの後、僕は二度とあのバーに行く機会がなかったのだけど、あれから数年の間、ママのことを時おり思い出しては、キュンと胸がなった。それが僕の初恋だ。


 次に恋に落ちたのは、高校二年生のときだ。


 校庭の裏に、もう使われていない焼却炉があって、昼ごはんの時間になると、僕は焼却炉の陰で、ひとり飯をするのが日課だった。あのころの僕は、極端にシャイで、とにかく人の視界に入らないように、あらゆる努力をしていた。


 ある日、おかっぱ頭の女子がやってきて、僕から二メートルくらい離れたところに座った。同じクラスの山川さんだった。山川さんは、学年で一番成績が良かった。過半数の女子がスカートを短くしているなかで、スカートの丈も、ソックスも、髪型も、きちんと校則に従っていた。性格も大人しいから、成績以外ではまるで目立たない人だった。


「邪魔してごめんね」と山川さんが言って、僕は「あ、いえ」と曖昧に答えて、昼ごはんを続行した。


 山川さんは、どこからかタバコを一本取り出すと、火をつけて吸い始めた。ちっともおいしそうじゃなかったけど、顔をしかめて煙を出すとき、山川さんのうっぷんも、煙と一緒に出ていっている感じがした。


 山川さんは、そうやって、僕のひとり飯にタバコで参加するようになった。僕は黙って昼ごはんを食べて、山川さんは黙ってタバコを吸う。一服すると、山川さんは、匂いを消すために、シュッシュッと、なにか甘い香りのするスプレーを髪と制服に付ける。タバコに混じったその甘い香りを嗅ぐと、僕のさえない学校生活が、つかの間、非日常的に感じられて、心が華やいだ。


「私、転校するんだ」ある日、山川さんが言った。いつものように、僕はひとりでご飯を食べていて、山川さんは僕から二メートルくらい離れたところに座っていた。

「そっか」と僕は言った。それっきり、会話が止んでしまい、僕は申し訳ない気持ちになる。


 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、その日初めて、山川さんは僕の近くまでやってきて、となりに座った。

「吸ってもいい?」と山川さんは聞いた。

「いいよ」と僕が言うと、山川さんは僕のとなりでタバコに火を点けた。小さな手の細い指が、慣れた仕草でタバコを口に入れるのを、僕は至近距離で見る。


 いつものように、しかめっ面で煙をゆっくりと吐き出すと、吸いかけのタバコを僕の口元まで持ってきて、「本田くんも、吸う?」と聞いた。


 僕は、タバコと、山川さんの小さくて形のいい口元を交互に見た。そうすると、知らないうちに胸がぎゅうっと痛くなって、頭がクラクラした。気分を落ち着けるために、僕はゴクリと唾を飲み込んで、それから深呼吸をする。


「体に悪いから、いいよ」なぜか、そんなセリフが口から出た。


 山川さんは目を細めて、ふふ、と小さく笑った。山川さんの笑顔を見たのは、初めてだった。


「お父さんが、転勤になっちゃったの。お母さんも、私も、本当は引っ越したくなかったんだけど、ついてくことにしたの」

「そっか」

「私、お父さん、大嫌いなんだよね」


 そう言うと、山川さんはまた、しかめっ面で煙を吐き出した。


「お父さんは、知ってるの?」

「なにを?」

「山川さんが、タバコ吸ってること」

「ううん。まさか」

「お母さんは?」

「知らないよ。本田くん以外は誰も知らない。なんで?」

「いや、なんでも……」


 山川さんがタバコを吸ってることは、僕しか知らない。山川さんが引っ越したくないことも、お父さんが大嫌いなことも、もしかしたら僕しか知らないんじゃないか。そんなふうに思いついて、そのことが、とても理不尽に思えた。


 山川さんは小柄で痩せていて、顔のパーツも全部小さい。スズメを思わせるような、こじんまりした顔に、さくらんぼ色のくちびるが、ぷるんと乗っかっている。そのくちびるから、午後になると、ミント入りのタバコのにおいがする。


 そのことを知っているのも、僕だけなのかも知れない。そう思うと、また、胸がうずくような、変な気持ちがした。


 その気持ちが、恋だとわかったのは、山川さんが引っ越してからだ。連絡先を交換することもなく、山川さんは、僕の日常からあっさりといなくなった。焼却炉には僕だけが残されて、僕は山川さんのことばかり考えながら、砂をかむような気持ちで、昼ごはんを食べた。


 あのとき、一本のタバコを、山川さんと分け合って吸っていたら、なにか違っていたんだろうか。


 あれから二十年ちょっと経った今、そんなことを疑問に思っているのは、僕の部屋にタバコの箱があるからだ。半分ほど減っているその箱は、僕のものじゃなくて、僕の彼女が置いて行ったものだ。


「タクやんみたいな人を、好きになれる自分だったらよかったのに、て思う」


 そんな迷言を残して、彼女は僕のもとを去った。


<つづく>


****


お題は「タバコ」。レギュレーションは「砂」「過半数」「非日常」でした。


他の花金参加作品はこちらから

https://kakuyomu.jp/works/16816700426015479549/episodes/16816700426938434411

 

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